(旧秩父往還)
2016年のGWに飯能市北川の岩井沢集落にある岩井沢観音から松尾山を経て飯盛峠へと歩いたことがあった。そのときは藤原集落にある喜多川神社から道の無い斜面を這い上がって松尾山に登り、尾根伝いに歩いて檥峠方面へと向かったのだが、その際、650m峰と檥峠との鞍部に林道が延びてきていたのが気になった。林道は岩井沢に沿って延びており、鞍部にいても沢のせせらぎがドウドウと聞こえてきたのが印象に残っている。今回はその岩井沢林道を使って檥(ぶな)峠まで歩いてみたい。下山路はこちらも9年前に一度歩いたきりの飯盛峠から戸神集落への道を使い、時間があれば戸神から尾根を越えた先にある龍穏寺へも寄ってみる予定だ。
正丸駅から岩井沢観音
始発電車を乗り継ぎ、朝6時過ぎに正丸駅に着く。岩井沢集落は北川地区の中でも一番奥まった所にあり、西吾野駅からだと舗装路を2時間弱歩かなくてはならない。それよりも天久保山からツツジ山へと延びる尾根を越えたほうが距離も時間も短くて済む。問題はどのように越えるか、だ。「奥武蔵登山詳細図」(吉備人出版)だと正丸駅付近から尾根に取りつく方法も示しているのだが、今回は以前歩いたことのある三田久保峠への道の一部である北川正丸林道を延々と歩いて岩井沢集落へ行くつもりだ。
駅舎下のベンチで準備を整え、出発。まずは国道299号を渡り、北に進む。しばらく進むと国道の西にある高麗川沿いに集落が現れる。ゴミ集積所の看板を見ると正丸自治会と書かれている。現在の地理院地図には大きな地区名として坂元としか載っていないのだが、古い地形図にはしっかり正丸と書かれている。旧正丸峠への道を見送るとお寺らしき建物が見える。「山と高原地図」(昭文社)によると西善寺というそうだ。お寺の経営が成り立つほどの大きさの集落ということなのだろう。歩き始めて15分ほどで北川正丸林道の入口に着く。道路の向かいには本邦帝王切開術発祥の地の石碑があるが、交通量が多いのでそちらへは寄っていかない。
(国道299号を行く)
(北川正丸林道入口)
地理院地図を見ると入口にかつての峠道である山道があるように描かれているが、実際は民家の敷地となっていて、道は消失したようだ。林道は集落の裏手の杉林を登っていく。ここのところ朝は涼しくなってきたが、思ったよりも急な道で早くも汗をかかされる。10分弱歩くと三田久保峠への峠道が山の中へと延びている。林道には昨年の台風19号による通行止の看板が立っているが、そのまま進むことにした。危険なようであれば戻って三田久保峠へ登ればよいのだ。林道に入ると路面上の土砂はほとんど取り除かれたらしく歩きにくさはない。ただ山側の斜面は切り立っており、土が剥き出しとなっていて、何かの衝撃があれば崩れてきそうで怖い。通行止としているのはそれが理由なのだろう。
(三田久保峠の西側の入口のすぐ近くに通行止めの看板が立つ)
林道の入口から20分ほど歩いたところで天久保山~三田久保峠間の稜線の上を越える。だが道は下らずにまだ登る。548m峰の東に派生する尾根を越えなければならないからだ。その東に派生する尾根を越える手前で谷側に古びた木の標識がある。字は消えて読み取れないが、谷の中を薄く踏み跡が下っているように見える。これは南東にある谷入(やついり)集落から三田久保峠へと延びていた峠道の名残らしいのだが、現在でも歩けるのかは定かではない。尾根を越えて右へカーブすると三田久保峠東側の入口に着く。民家裏の薄い踏み跡なので、こちらから歩くのはわかり難いだろう。かつての峠道はその民家脇を抜けていくのだが、以前歩いた時にも記したようにここは自粛という名の通行禁止状態となっている。大きな九十九折の舗装路を下り、三田久保峠東側の入口から20分で岩井沢集落に出る。
(寸断された稜線)
(谷入集落へ向かって薄い踏み跡と字の読めなくなった標識がある 地図だとこの辺り)
(548m峰から東に派生する尾根を越えると一本の木が残った塚がある)
集落に着いた途端聞こえてくるのが岩井沢のせせらぎだ。いやせせらぎという可愛いものではなく、ゴウゴウという轟音が鳴り響いている。水量が豊富なことの証と云えよう。民家の点在する岩井沢林道を登っていくと岩井沢観音堂に着く。平成30年に観音堂が建て直されたらしく、真新しい建物からは未だに白木の香りが漂っている。観音堂の裏手には小さな岩屋も健在で、一見の価値はある。この先檥峠まで長い林道歩きとなるため、観音堂脇のベンチで軽い食事を取っていく。
(岩井沢集落に着いた)
(彼岸花)
(岩井沢観音堂)
(藤原集落・喜多川神社へと向かう道)
(観音堂裏手の岩屋)
岩井沢林道を登って檥峠
岩屋の前の道を下ると鳥久保林道との分岐に出る。岩井沢林道とともに鳥久保林道も古い道の名残で、かつては大都津路山(831)の南に延びる尾根上にある峠ノクボを越えて虚空蔵峠の道に通じていたようだ。岩井沢林道を上がっていこうとすると入口がロープで仕切られ、台風により通行止めと書かれた看板が掛けられている。北川正丸林道と異なり、完全に仕切られているのでちょっと躊躇われたが、問題があれば引き返せばよいと考え、そのまま登っていくことにした。
登り始めは特段問題無く、岩井沢に架かる都津路橋も無事であった。傾斜の緩い沢沿いの道には小石が散らばる程度で通行止めにするほどの支障があるようには感じられない。ヘアピンカーブで左に折れ曲がる辺りには小滝の連続する所(地図ではこの辺り)があり、悪くない眺めだ。ところがその先は道路が大きく陥没しており、車両の通行は完全に無理だろう。徒歩で進む分には道路脇に流れ出した土砂が固まっており、その上を歩いていくことはできる。この陥没箇所を過ぎると道は一気に荒れだし、小石で覆われた歩きにくい道を行かなくてはならなくなる。二ツ岩沢の合流点にも橋が架かるが、幸いなことに落橋はしていない。
(都津路橋)
(連続する小滝)
(大きく崩落した道路)
(小石で覆われた道路 硬くて重い靴だと歩きにくい)
(二ツ岩沢の合流地点 幸い橋は残っていた)
合流点から先はいくらか広い谷となるが、道路が陥没する箇所が多数あり、状態は悪い。車両の転回場を過ぎると右手が明るくなってきた。件の鞍部が近づいてきたようだ。鞍部に上がる手前で道路は二手に分かれる。左の道は地理院地図に途中まで描かれており、山と高原地図によると更に上部で檥峠の峠道に合流している。ただ本線は右の鞍部を乗り越す道のほうで、鞍部から先は砂利道でグリーンラインへとつながっている。檥峠入口と書かれた手製の看板が立つ鞍部は4年前に訪れた時と変わっていない。ただ岩井沢の音はだいぶ小さく聞こえ、林道で聞こえていた轟音には程遠い。
(あちこちで道路が陥没している クルマが通れるようになるには相当の時間を要するだろう)
(岩井沢に下りてみた 右上のあかるい所が檥峠入口である鞍部)
(鞍部の手前で林道が分かれる 右に向かうのが鞍部方面)
(檥峠入口である鞍部は広い)
檥峠入口からは4年前と同じく馬頭観音の石碑脇を登っていく。尾根を直線的に登る道は傾斜が急で、本当に古道だったのか疑問に思ってしまう。途中で合流する九十九折の道に退避し、グリーンラインへと続く砂利道に出る。4年前はこの砂利道を登ってグリーンラインへ出たが、今日は更に峠道を辿る。大きく陥没した砂利道を慎重に進み、杉林の中を作業道が分かれている辺りで尾根に取りつく。枝藪の中の踏み跡を登ると馬頭観音の碑がある。「画廊天地人」さんの「北川尾根にリベンジ 古道メインで歩いてみる」の記事でこの石碑の写真を見ていたので、この道で間違いないと確信が持てた。
(入口にこの馬頭尊の碑がある)
(秩父郡北川村岩井沢と書いてあるようだ)
(こちら側は読み取れない 檥峠を示しているとは思うのだが…)
(古道よりこちらの九十九折のほうが歩きやすい)
(砂利道は大きく陥没している 1メートル以上あるストックがすっぽりと入ってしまった)
(この右手を登る)
(この馬頭尊の碑が目印)
馬頭観音の碑より先は林道建設によって明るくなった路肩沿いを進む。振り返れば子ノ権現のある尾根が見え、その奥の尾根には棒ノ嶺が見える。棒ノ嶺の左に薄らと見えるのは大岳山だろう。道は檥峠の西にある小ピークを南から巻いていく。踏み跡はかなり薄く、枝藪も煩い。何より苛々させられるのが蜘蛛の巣だ。終始ストックを前方へ振りながら歩いていく。小ピークを巻き終わると小ピークと檥峠との鞍部に出る。檥峠入口の手前で分かれた林道がここまで登ってきているはずだが、あまり明瞭な道が登ってきているようには見えない。明瞭な道が小ピークのほうへ登っているので寄ってみる。広いピークだが、特筆すべきものは無い。鞍部から檥峠へ向かって九十九折を登る。すると林道らしき道が合流してくる。これだからガイド地図は当てにできないのだ。九十九折を登りきると檥峠(ぶなとうげ)に出る。グリーンライン脇に紅白の杭が立つだけで峠道を示す道標はない。事前に知っていなければ岩井沢方面へ下るのは困難だろう。
(萩の花だろうか)
(子ノ権現・棒ノ嶺・大岳山などが見える)
(以前歩いたことのある林道が見える)
(藪道と書かれているだけあって踏み跡は薄い ここはそれでも良いほう)
(小ピークと檥峠との鞍部に出た)
(檥峠の西ある小ピーク 結構広い)
(檥峠)
(ここが岩井沢方面の入口)
飯盛峠から野末張見晴台
檥峠からはときがわ町の椚平地区へ向かって林道が延びている。この林道は昔の峠道を整備したものだ。そして横瀬から高麗にかけて奥武蔵グリーンラインと呼ばれる舗装された林道が延びているのだが、かつては秩父越生街道と呼ばれる甲斐と武蔵とを結ぶ秩父往還道の一つであった。檥峠から飯盛峠まではグリーンラインが秩父越生街道をほぼ踏襲しているようだ。飯盛峠へ向かって歩き始めるとすぐに南側に山道が現れる。グリーンラインのほうが短絡路を通っているように感じられるが、とりあえず山道に入る。するとこれがかなり良い道で、広さもあり、昔の街道だったのではと思わせる。
(檥峠からすぐにこの道に入る)
(岩井沢林道との合流地点まで良い道が続く)
檥峠入口から延びてきた岩井沢林道に合流する地点でグリーンラインに戻る。同年代の男性登山者が飯盛峠方面からやって来る。今日初めて山で会う人だ。ヘアピンカーブに差し掛かる手前で広い道が南へ下っていくが、これは南西に延びる尾根へ下っているようだ。藤原集落へと通じているのかもしれないが、詳細は不明だ。その広い道を見送ると道標が立ち、尾根伝いの山道が延びる。この道はかつての秩父越生街道ではないかと思われる。わざわざ九十九折に登る必要のある高低差であるとは思えないからだ。二つ目のヘアピンカーブでグリーンラインに上がり、飯盛山(センズイ 816.3)を巻いていく。古い地形図を見ると飯盛山を巻いているからだ。
(ここから再び山道に入る かつての秩父越生街道の一部だろうか)
(途中土留めの木段があったりもするが概ね歩きやすい)
飯盛峠に着く手前で山側に馬頭観音像と大山祇神の石碑を見かける。斜面の上にあるので、一旦飯盛峠まで行って尾根を登り返す必要がある。尾根道は尾根の北側を進むため馬頭観音像に近づくには藪を抜けて南側を探索しなければならない。ところが場所が今一つかめない。そこでグリーンラインへ戻り、斜面を這い上がることにした。飯盛峠へ戻るところで年上のカップルと出会う。どこから来たのか尋ねてきたので岩井沢と答えると要領を得ないようだ。確かに40分近く舗装路を歩かされる道を通常は登山ルートと認識しないだろう。馬頭観音のある地点から更に西へ戻り、登れそうな所を上がって何とか馬頭尊に辿り着く。下部が破損した馬頭観音像には文久二年と彫られている。その傍らには奥武蔵でしばしば見かける石造りの道標がある。この二つは秩父越生街道沿いに設けられたものであり、本来はグリーンライン脇に置かれるべきものだ。しかし尾根の上に置かれ、尾根道から離れた所に置かれたことによりその歴史は忘れ去られようとしている。
(飯盛峠)
(グリーンラインから見える馬頭尊 気を付けていれば通常の登山ルートからも見えるようだ)
(馬頭尊の隣にあった道標)
飯盛峠からは東に延びる大平尾根を下る。このルートは山と高原地図によると旧秩父往還とされている。飛騨観光陽山亭のHPに記されているように秩父越生街道も秩父往還の一つと考えるのであれば、その区別はあまり意味がないものなのかもしれない。旧環境庁と埼玉県が設けた飯盛峠の大きな標識の脇から大平尾根の道が延びる。一定の幅を取った掘割の道となっており、古い道の名残なのかもしれないと感じさせる。ただ掘割には度重なる台風などによって枝が堆積しており、通行は困難だ。大半の登山者は掘割の路肩を歩いているらしく、薄らと道形が出来ている。幼木帯から傾斜も緩み、掘割も歩きやすくなる。右手に梅本林道が見えてくると一旦その林道へと下りる。すぐに尾根を登り返して大築城へと向かうことができるが、今回はそのまま林道を下っていく。
(大平尾根に入るとすぐに掘割の道が延びる 枝が堆積して歩きづらい)
(幼木帯を抜ける だいぶ樹高は高くなった)
(ここで山道に入れば大築山へ行ける)
小ピークを巻いてヘアピンカーブとなっている辺りが野末張(のすばり)見晴台だ。北側と南東側にそれぞれ展望が開ける。北側には天文台を乗せた堂平山の左右に剣ヶ峰(左)と笠山(右)の山頂部が見える。堂平山から右へ下る尾根がなだらかに高まる辺りは金岳だろうか。金岳の手前の尾根には武骨な形の新柵山が聳え、更にその右手前にある双耳峰が大築山と小築山だ。大築山の奥に見えるのは雷電山で、その右にはゴルフ場が目立つ弓立山がある。南東側はあまり目立つ山が無く、唯一右端にミニ大岳山のような越上山(おがみやま)が気になる程度だ。陽当たりの良い展望台なのだが、今日は最高気温が27℃を予想するほどに暑く、唯一日陰となっているベンチに避難して、暫し休憩を取る。
(野末張見晴台)
(北面の眺め 左奥は金岳 その右手前に見えるのが新柵山 大築山は草に隠れている)
(北面の眺めをより広い範囲で 左奥は堂平山とその周辺 右手前に見えるのが大築山の辺り 大築山の背後には雷電山と弓立山が見える)
(なお画像を新しいタブで開くと大きくなります)
(南東側の眺め 右端に見えるのが越上山)
(陽当たりが良くて暑い)
戸神への道と龍穏寺
野末張見晴台を東から下り、道路を渡ると尾根道が下っている。林道も使えるが、やはり土の道のほうが身体には優しい。林道が尾根を外れて下っていく辺りで一旦林道に出る。その先は土盛りがされた野原があり、苗木が植樹されている。8年前あじさい山を歩いた時に見かけたままの風景が残されており、当時と同じようにトンボが舞っている。ちょっとした見晴らしも得られるが、眺めを楽しむなら野末張見晴台まで行った方が良い。
(土盛りがされた野原)
(こんな感じで見晴らしも得られる)
野原から下り、戸神へ向かって歩き出す。9年前山歩き中に頭を怪我して、予期せず歩いたのがこの道だった。事前に陽山亭の「秩父越生街道を往く」という記事を読んでいて、往時の街道の雰囲気を残す道であるとして興味を持っていた。そして実際に歩いてみて、やはり良い道だった。今もその雰囲気は変わらないのだろうか。杉檜が植えられた広い尾根の中、登山道としては広い道が延びていく。9年前に歩いた時、ショベルカーが道の整備をしていて、そのときは無粋だと感じた。しかし本来牛馬も行き交うような街道だったとするのなら、一定程度広い道だったはずだし、「秩父越生街道を往く」でもその点の指摘がある。往時の街道の雰囲気を残すためであれば、重機を使って道を整備するというのも十分合理性はある。
野原の展望台から少しも歩かぬうちにあじさい山への道が下るニノホリキリに着く。掘割の道があじさい山のある麦原地区へ向かって下っている。歩きにくかったあじさい山周辺の掘割の道は近年整備されて歩きやすくなったと聞く。ニノホリキリを過ぎても相変わらず広い道が続く。尾根が羽賀山へ向かって登っていく辺りは広い巻き道ができている。9年ぶりの再訪なので、羽賀山へ寄っていくか。尾根道は木の根が露出し、街道ほどには歩きやすくないが、奥武蔵の山道としては歩きやすい部類に入る。緩やかに登っていくと小岩が露出する一画に出る。その先は下っているのでここが羽賀山(芳賀山とも書くらしい)の頂上(566.4)だろう。周囲を見回すと立木にテープが巻かれ、ここが羽賀山であると記していた。
(ニノホリキリ 左の掘割の道があじさい山への道)
(羽賀山頂上の様子 山頂プレートは無くなっていた)
往路を戻り、巻き道を行く。「秩父越生街道を往く」にはこの付近に夫婦岩という岩があると書かれているのだが、9年前に訪れた時は見つけられなかった。そこで南側斜面に注意しながら歩いていると小さな踏み跡が下っている。その先には樹林に覆われた岩がある。これが夫婦岩(山と高原地図だとヒグラシ岩とされている)だろう。かつては見晴らしが良かったようだが、現在は周囲の木が育って全く見晴らしは得られなくなっている。9年前は羽賀山頂上から東へ尾根を下ってしまった(記事を読み直すと巻き道へ戻ったとあるので、単純に見落としただけのようだ)ので、この夫婦岩を見落としてしまったのだ。
(歩きやすい巻き道)
(ここから夫婦岩に下りられる)
(夫婦岩)
夫婦岩も訪れることが出来たので、後はひたすら下るだけだ。小ピークを巻く辺りから緩やかな道は終わり、滑りやすい掘割が出てくる。ただ長い距離ではないので、全体的に歩きやすいという印象は変わらない。杉林から雑木林へと変わる辺りで大きく下っていく。急坂を下りきった所には白小石(山と高原地図ではオオダイラ)と書かれた標識が立っている。ここは龍ヶ谷川へ下りる近道があったのだが、現在は廃道となってしまったらしい。
(滑りやすい掘割の道 幸い転ぶことは無かった)
(かつての街道は流石に歩きやすい)
(雑木林の中を大きく下る)
(白小石と呼ばれる場所に着いた 左手に薄い踏み跡があるようだが…)
白小石から戸神へ向かう道は9年前の記事には「奥武蔵でも有数の美しい小道」と称していた。再び歩いてみると良い道であることは変わりない。ただ9年の間に奥武蔵にある幾つもの古道を歩いせいか、戸神への道が特別であるという印象はだいぶ薄らいだ。それでも歩きやすさは上位にあると言ってよい。広い農地のある民家の裏手に出ると間もなく舗装路に出る。戸神集落に到着だ。集落内は道標が完備しており、上りに使う際でも迷うことは無いだろう。陽当たりの良い集落は暑く、9年前と同じく麦原入口バス停へ下ろうかとも思ったが、道標に龍穏寺の文字を見てもう少し頑張ってみることにする。
(429m峰を北から巻く)
(北東へ向かって下る この辺りかなり藪っぽい)
(ここまで来れば眼下に林道も見えてくる)
(農地の裏手に出た 間もなく舗装路に変わる)
(戸神集落内は道標が完備されている)
(戸神集落)
(左手が龍ヶ谷 右手は小杉地区(麦原入口バス停)へ向かう)
戸神集落と龍ヶ谷を結ぶ道は古い地形図にも載っているほどの古い道だが、現在は完全に舗装された生活道路となっている。実際行き交うクルマが多い。杉林に覆われた暗い道を進むと代官屋敷と書かれた道標がある。40m先にあるとのことなので、寄ってみる。綺麗に草刈りがなされた敷地ではあるが、踏み跡が薄く、歩きやすそうな所を適当に進むと石垣があり、赤い屋根の建物が見えてくる。これが戸神の代官屋敷だ。案内板によると江戸にいた龍穏寺の住職に代わって寺領を差配し、名主を世襲していた宮崎家が所有していたものだという。
(代官屋敷)
舗装路に戻り、峠に差し掛かる辺りで太田道灌の父太田道真が築いた砦である山枝庵への道が東へ延びる。興味をそそられるが、片道10分とあり、結構歩かされそうだ。ここは別の機会に訪れるとしよう。峠から下り、龍ヶ谷川沿いに作られた集落に出る。道なりに進むと龍ヶ谷川を渡る舗装された橋がある。橋を渡った先が上大満バス停への道だ。集落に北から入ってきたと思い込んでいたので、少々方向感覚が狂う。宝篋印塔の置かれた補陀岩を過ぎれば龍穏寺の境内に入る。
(舗装された峠道)
(龍ヶ谷川沿いの集落)
(補陀岩)
(境内に入る前から石仏が多い)
駐車場の脇に玉砂利の敷かれた前庭があり、杉林の中にある石積みの参道を進むと大きな山門がある。1913年の火災を逃れた建造物の一つで埼玉県・越生町の重要文化財となっている。山門を潜って石段を上ると太田道灌の像があり、その奥に現在の本堂がある。長昌山龍穏寺は平安時代に創建された後、室町時代に曹洞宗の寺となり、太田道真・道灌の助力を得て栄えた。江戸時代には曹洞宗の寺院を統括する関三刹(かんさんせつ)の一つとなり、格式十万石を拝領するなどの特権を得ていた。現在は山中の静かなお寺という雰囲気だが、境内の広さを見るとかつての権勢が窺える。
(厳かな前庭)
(被災を免れた山門)
(太田道灌の像)
(龍穏寺の案内板)
(本堂)
(右下に置かれた鐘楼が被災を免れたものだという)
龍穏寺を出て、上大満(かみだいま)バス停までは山と高原地図だと30分かかるという。普段なら30分程度の舗装路歩きは辛くないのだが、今日は行程の8割方が舗装路歩きで足腰が既に筋肉痛である。これなら靴底が柔らかいスニーカーのほうが良かっただろう。戸神への道は若干急だが、一度も転ぶことなく歩けるほどには易しい。昔の街道は尾根・谷を忠実に辿るのではなく、歩きやすさを重視していたから、不整地を歩くことを目的とした登山靴はかえって重荷になるのだ。龍穏寺の権力の大きさを示したといわれる下馬門の碑を過ぎると単調な住宅街の道が続く。度々クルマが通り、山の中にいる雰囲気からは程遠い。交通量が多い県道越生長沢線に出ると下りのバスが通り過ぎていく。あのバスが黒山に行って戻って来るのだろう。交差点を黒山方面に入ればすぐに上大満バス停に着く。10分ほど待てば越生駅行きのバスもやって来るようだ。ザックを下ろし、道端にドカッと座り込む。下ヶ戸薬師周辺の森がちょうど日差しを遮ってくれるが、長袖姿ではまだ暑い。気持ちの良い秋はもう少し先のことになりそうだ。
(下馬門の碑)
(龍ヶ谷川の流れ)
DATA:
正丸駅6:15→6:31本邦帝王切開術発祥の地(北川正丸林道入口)→7:24岩井沢観音堂7:34→8:08檥峠入口(岩井沢林道合流点)→8:47檥峠→9:14飯盛峠9:24→9:46野末張見晴台10:04→10:14ニノホリキリ→10:18羽賀山→10:24夫婦岩→10:41白小石→11:06戸神集落→11:17代官屋敷→11:38龍穏寺11:44→12:12上大満バス停(川越観光バス)越生駅
地形図 正丸峠 越生
トイレ 龍穏寺
交通機関
西武池袋・秩父線 小手指~正丸 409円 飯能~小手指 242円
川越観光バス 上大満~越生駅 299円
JR八高線 越生~東飯能 242円
関連記事:
平成23年2月6日 新柵山から大平尾根
平成24年6月30日 越生あじさい山から大築山
平成27年5月6日 ツツジ山から丸山
平成28年5月1日 天久保山から松尾山を経て顔振峠
平成30年2月17日 柏木尾根から六万部塚を経て弓立山
2016年のGWに飯能市北川の岩井沢集落にある岩井沢観音から松尾山を経て飯盛峠へと歩いたことがあった。そのときは藤原集落にある喜多川神社から道の無い斜面を這い上がって松尾山に登り、尾根伝いに歩いて檥峠方面へと向かったのだが、その際、650m峰と檥峠との鞍部に林道が延びてきていたのが気になった。林道は岩井沢に沿って延びており、鞍部にいても沢のせせらぎがドウドウと聞こえてきたのが印象に残っている。今回はその岩井沢林道を使って檥(ぶな)峠まで歩いてみたい。下山路はこちらも9年前に一度歩いたきりの飯盛峠から戸神集落への道を使い、時間があれば戸神から尾根を越えた先にある龍穏寺へも寄ってみる予定だ。
正丸駅から岩井沢観音
始発電車を乗り継ぎ、朝6時過ぎに正丸駅に着く。岩井沢集落は北川地区の中でも一番奥まった所にあり、西吾野駅からだと舗装路を2時間弱歩かなくてはならない。それよりも天久保山からツツジ山へと延びる尾根を越えたほうが距離も時間も短くて済む。問題はどのように越えるか、だ。「奥武蔵登山詳細図」(吉備人出版)だと正丸駅付近から尾根に取りつく方法も示しているのだが、今回は以前歩いたことのある三田久保峠への道の一部である北川正丸林道を延々と歩いて岩井沢集落へ行くつもりだ。
駅舎下のベンチで準備を整え、出発。まずは国道299号を渡り、北に進む。しばらく進むと国道の西にある高麗川沿いに集落が現れる。ゴミ集積所の看板を見ると正丸自治会と書かれている。現在の地理院地図には大きな地区名として坂元としか載っていないのだが、古い地形図にはしっかり正丸と書かれている。旧正丸峠への道を見送るとお寺らしき建物が見える。「山と高原地図」(昭文社)によると西善寺というそうだ。お寺の経営が成り立つほどの大きさの集落ということなのだろう。歩き始めて15分ほどで北川正丸林道の入口に着く。道路の向かいには本邦帝王切開術発祥の地の石碑があるが、交通量が多いのでそちらへは寄っていかない。
(国道299号を行く)
(北川正丸林道入口)
地理院地図を見ると入口にかつての峠道である山道があるように描かれているが、実際は民家の敷地となっていて、道は消失したようだ。林道は集落の裏手の杉林を登っていく。ここのところ朝は涼しくなってきたが、思ったよりも急な道で早くも汗をかかされる。10分弱歩くと三田久保峠への峠道が山の中へと延びている。林道には昨年の台風19号による通行止の看板が立っているが、そのまま進むことにした。危険なようであれば戻って三田久保峠へ登ればよいのだ。林道に入ると路面上の土砂はほとんど取り除かれたらしく歩きにくさはない。ただ山側の斜面は切り立っており、土が剥き出しとなっていて、何かの衝撃があれば崩れてきそうで怖い。通行止としているのはそれが理由なのだろう。
(三田久保峠の西側の入口のすぐ近くに通行止めの看板が立つ)
林道の入口から20分ほど歩いたところで天久保山~三田久保峠間の稜線の上を越える。だが道は下らずにまだ登る。548m峰の東に派生する尾根を越えなければならないからだ。その東に派生する尾根を越える手前で谷側に古びた木の標識がある。字は消えて読み取れないが、谷の中を薄く踏み跡が下っているように見える。これは南東にある谷入(やついり)集落から三田久保峠へと延びていた峠道の名残らしいのだが、現在でも歩けるのかは定かではない。尾根を越えて右へカーブすると三田久保峠東側の入口に着く。民家裏の薄い踏み跡なので、こちらから歩くのはわかり難いだろう。かつての峠道はその民家脇を抜けていくのだが、以前歩いた時にも記したようにここは自粛という名の通行禁止状態となっている。大きな九十九折の舗装路を下り、三田久保峠東側の入口から20分で岩井沢集落に出る。
(寸断された稜線)
(谷入集落へ向かって薄い踏み跡と字の読めなくなった標識がある 地図だとこの辺り)
(548m峰から東に派生する尾根を越えると一本の木が残った塚がある)
集落に着いた途端聞こえてくるのが岩井沢のせせらぎだ。いやせせらぎという可愛いものではなく、ゴウゴウという轟音が鳴り響いている。水量が豊富なことの証と云えよう。民家の点在する岩井沢林道を登っていくと岩井沢観音堂に着く。平成30年に観音堂が建て直されたらしく、真新しい建物からは未だに白木の香りが漂っている。観音堂の裏手には小さな岩屋も健在で、一見の価値はある。この先檥峠まで長い林道歩きとなるため、観音堂脇のベンチで軽い食事を取っていく。
(岩井沢集落に着いた)
(彼岸花)
(岩井沢観音堂)
(藤原集落・喜多川神社へと向かう道)
(観音堂裏手の岩屋)
岩井沢林道を登って檥峠
岩屋の前の道を下ると鳥久保林道との分岐に出る。岩井沢林道とともに鳥久保林道も古い道の名残で、かつては大都津路山(831)の南に延びる尾根上にある峠ノクボを越えて虚空蔵峠の道に通じていたようだ。岩井沢林道を上がっていこうとすると入口がロープで仕切られ、台風により通行止めと書かれた看板が掛けられている。北川正丸林道と異なり、完全に仕切られているのでちょっと躊躇われたが、問題があれば引き返せばよいと考え、そのまま登っていくことにした。
登り始めは特段問題無く、岩井沢に架かる都津路橋も無事であった。傾斜の緩い沢沿いの道には小石が散らばる程度で通行止めにするほどの支障があるようには感じられない。ヘアピンカーブで左に折れ曲がる辺りには小滝の連続する所(地図ではこの辺り)があり、悪くない眺めだ。ところがその先は道路が大きく陥没しており、車両の通行は完全に無理だろう。徒歩で進む分には道路脇に流れ出した土砂が固まっており、その上を歩いていくことはできる。この陥没箇所を過ぎると道は一気に荒れだし、小石で覆われた歩きにくい道を行かなくてはならなくなる。二ツ岩沢の合流点にも橋が架かるが、幸いなことに落橋はしていない。
(都津路橋)
(連続する小滝)
(大きく崩落した道路)
(小石で覆われた道路 硬くて重い靴だと歩きにくい)
(二ツ岩沢の合流地点 幸い橋は残っていた)
合流点から先はいくらか広い谷となるが、道路が陥没する箇所が多数あり、状態は悪い。車両の転回場を過ぎると右手が明るくなってきた。件の鞍部が近づいてきたようだ。鞍部に上がる手前で道路は二手に分かれる。左の道は地理院地図に途中まで描かれており、山と高原地図によると更に上部で檥峠の峠道に合流している。ただ本線は右の鞍部を乗り越す道のほうで、鞍部から先は砂利道でグリーンラインへとつながっている。檥峠入口と書かれた手製の看板が立つ鞍部は4年前に訪れた時と変わっていない。ただ岩井沢の音はだいぶ小さく聞こえ、林道で聞こえていた轟音には程遠い。
(あちこちで道路が陥没している クルマが通れるようになるには相当の時間を要するだろう)
(岩井沢に下りてみた 右上のあかるい所が檥峠入口である鞍部)
(鞍部の手前で林道が分かれる 右に向かうのが鞍部方面)
(檥峠入口である鞍部は広い)
檥峠入口からは4年前と同じく馬頭観音の石碑脇を登っていく。尾根を直線的に登る道は傾斜が急で、本当に古道だったのか疑問に思ってしまう。途中で合流する九十九折の道に退避し、グリーンラインへと続く砂利道に出る。4年前はこの砂利道を登ってグリーンラインへ出たが、今日は更に峠道を辿る。大きく陥没した砂利道を慎重に進み、杉林の中を作業道が分かれている辺りで尾根に取りつく。枝藪の中の踏み跡を登ると馬頭観音の碑がある。「画廊天地人」さんの「北川尾根にリベンジ 古道メインで歩いてみる」の記事でこの石碑の写真を見ていたので、この道で間違いないと確信が持てた。
(入口にこの馬頭尊の碑がある)
(秩父郡北川村岩井沢と書いてあるようだ)
(こちら側は読み取れない 檥峠を示しているとは思うのだが…)
(古道よりこちらの九十九折のほうが歩きやすい)
(砂利道は大きく陥没している 1メートル以上あるストックがすっぽりと入ってしまった)
(この右手を登る)
(この馬頭尊の碑が目印)
馬頭観音の碑より先は林道建設によって明るくなった路肩沿いを進む。振り返れば子ノ権現のある尾根が見え、その奥の尾根には棒ノ嶺が見える。棒ノ嶺の左に薄らと見えるのは大岳山だろう。道は檥峠の西にある小ピークを南から巻いていく。踏み跡はかなり薄く、枝藪も煩い。何より苛々させられるのが蜘蛛の巣だ。終始ストックを前方へ振りながら歩いていく。小ピークを巻き終わると小ピークと檥峠との鞍部に出る。檥峠入口の手前で分かれた林道がここまで登ってきているはずだが、あまり明瞭な道が登ってきているようには見えない。明瞭な道が小ピークのほうへ登っているので寄ってみる。広いピークだが、特筆すべきものは無い。鞍部から檥峠へ向かって九十九折を登る。すると林道らしき道が合流してくる。これだからガイド地図は当てにできないのだ。九十九折を登りきると檥峠(ぶなとうげ)に出る。グリーンライン脇に紅白の杭が立つだけで峠道を示す道標はない。事前に知っていなければ岩井沢方面へ下るのは困難だろう。
(萩の花だろうか)
(子ノ権現・棒ノ嶺・大岳山などが見える)
(以前歩いたことのある林道が見える)
(藪道と書かれているだけあって踏み跡は薄い ここはそれでも良いほう)
(小ピークと檥峠との鞍部に出た)
(檥峠の西ある小ピーク 結構広い)
(檥峠)
(ここが岩井沢方面の入口)
飯盛峠から野末張見晴台
檥峠からはときがわ町の椚平地区へ向かって林道が延びている。この林道は昔の峠道を整備したものだ。そして横瀬から高麗にかけて奥武蔵グリーンラインと呼ばれる舗装された林道が延びているのだが、かつては秩父越生街道と呼ばれる甲斐と武蔵とを結ぶ秩父往還道の一つであった。檥峠から飯盛峠まではグリーンラインが秩父越生街道をほぼ踏襲しているようだ。飯盛峠へ向かって歩き始めるとすぐに南側に山道が現れる。グリーンラインのほうが短絡路を通っているように感じられるが、とりあえず山道に入る。するとこれがかなり良い道で、広さもあり、昔の街道だったのではと思わせる。
(檥峠からすぐにこの道に入る)
(岩井沢林道との合流地点まで良い道が続く)
檥峠入口から延びてきた岩井沢林道に合流する地点でグリーンラインに戻る。同年代の男性登山者が飯盛峠方面からやって来る。今日初めて山で会う人だ。ヘアピンカーブに差し掛かる手前で広い道が南へ下っていくが、これは南西に延びる尾根へ下っているようだ。藤原集落へと通じているのかもしれないが、詳細は不明だ。その広い道を見送ると道標が立ち、尾根伝いの山道が延びる。この道はかつての秩父越生街道ではないかと思われる。わざわざ九十九折に登る必要のある高低差であるとは思えないからだ。二つ目のヘアピンカーブでグリーンラインに上がり、飯盛山(センズイ 816.3)を巻いていく。古い地形図を見ると飯盛山を巻いているからだ。
(ここから再び山道に入る かつての秩父越生街道の一部だろうか)
(途中土留めの木段があったりもするが概ね歩きやすい)
飯盛峠に着く手前で山側に馬頭観音像と大山祇神の石碑を見かける。斜面の上にあるので、一旦飯盛峠まで行って尾根を登り返す必要がある。尾根道は尾根の北側を進むため馬頭観音像に近づくには藪を抜けて南側を探索しなければならない。ところが場所が今一つかめない。そこでグリーンラインへ戻り、斜面を這い上がることにした。飯盛峠へ戻るところで年上のカップルと出会う。どこから来たのか尋ねてきたので岩井沢と答えると要領を得ないようだ。確かに40分近く舗装路を歩かされる道を通常は登山ルートと認識しないだろう。馬頭観音のある地点から更に西へ戻り、登れそうな所を上がって何とか馬頭尊に辿り着く。下部が破損した馬頭観音像には文久二年と彫られている。その傍らには奥武蔵でしばしば見かける石造りの道標がある。この二つは秩父越生街道沿いに設けられたものであり、本来はグリーンライン脇に置かれるべきものだ。しかし尾根の上に置かれ、尾根道から離れた所に置かれたことによりその歴史は忘れ去られようとしている。
(飯盛峠)
(グリーンラインから見える馬頭尊 気を付けていれば通常の登山ルートからも見えるようだ)
(馬頭尊の隣にあった道標)
飯盛峠からは東に延びる大平尾根を下る。このルートは山と高原地図によると旧秩父往還とされている。飛騨観光陽山亭のHPに記されているように秩父越生街道も秩父往還の一つと考えるのであれば、その区別はあまり意味がないものなのかもしれない。旧環境庁と埼玉県が設けた飯盛峠の大きな標識の脇から大平尾根の道が延びる。一定の幅を取った掘割の道となっており、古い道の名残なのかもしれないと感じさせる。ただ掘割には度重なる台風などによって枝が堆積しており、通行は困難だ。大半の登山者は掘割の路肩を歩いているらしく、薄らと道形が出来ている。幼木帯から傾斜も緩み、掘割も歩きやすくなる。右手に梅本林道が見えてくると一旦その林道へと下りる。すぐに尾根を登り返して大築城へと向かうことができるが、今回はそのまま林道を下っていく。
(大平尾根に入るとすぐに掘割の道が延びる 枝が堆積して歩きづらい)
(幼木帯を抜ける だいぶ樹高は高くなった)
(ここで山道に入れば大築山へ行ける)
小ピークを巻いてヘアピンカーブとなっている辺りが野末張(のすばり)見晴台だ。北側と南東側にそれぞれ展望が開ける。北側には天文台を乗せた堂平山の左右に剣ヶ峰(左)と笠山(右)の山頂部が見える。堂平山から右へ下る尾根がなだらかに高まる辺りは金岳だろうか。金岳の手前の尾根には武骨な形の新柵山が聳え、更にその右手前にある双耳峰が大築山と小築山だ。大築山の奥に見えるのは雷電山で、その右にはゴルフ場が目立つ弓立山がある。南東側はあまり目立つ山が無く、唯一右端にミニ大岳山のような越上山(おがみやま)が気になる程度だ。陽当たりの良い展望台なのだが、今日は最高気温が27℃を予想するほどに暑く、唯一日陰となっているベンチに避難して、暫し休憩を取る。
(野末張見晴台)
(北面の眺め 左奥は金岳 その右手前に見えるのが新柵山 大築山は草に隠れている)
(北面の眺めをより広い範囲で 左奥は堂平山とその周辺 右手前に見えるのが大築山の辺り 大築山の背後には雷電山と弓立山が見える)
(なお画像を新しいタブで開くと大きくなります)
(南東側の眺め 右端に見えるのが越上山)
(陽当たりが良くて暑い)
戸神への道と龍穏寺
野末張見晴台を東から下り、道路を渡ると尾根道が下っている。林道も使えるが、やはり土の道のほうが身体には優しい。林道が尾根を外れて下っていく辺りで一旦林道に出る。その先は土盛りがされた野原があり、苗木が植樹されている。8年前あじさい山を歩いた時に見かけたままの風景が残されており、当時と同じようにトンボが舞っている。ちょっとした見晴らしも得られるが、眺めを楽しむなら野末張見晴台まで行った方が良い。
(土盛りがされた野原)
(こんな感じで見晴らしも得られる)
野原から下り、戸神へ向かって歩き出す。9年前山歩き中に頭を怪我して、予期せず歩いたのがこの道だった。事前に陽山亭の「秩父越生街道を往く」という記事を読んでいて、往時の街道の雰囲気を残す道であるとして興味を持っていた。そして実際に歩いてみて、やはり良い道だった。今もその雰囲気は変わらないのだろうか。杉檜が植えられた広い尾根の中、登山道としては広い道が延びていく。9年前に歩いた時、ショベルカーが道の整備をしていて、そのときは無粋だと感じた。しかし本来牛馬も行き交うような街道だったとするのなら、一定程度広い道だったはずだし、「秩父越生街道を往く」でもその点の指摘がある。往時の街道の雰囲気を残すためであれば、重機を使って道を整備するというのも十分合理性はある。
野原の展望台から少しも歩かぬうちにあじさい山への道が下るニノホリキリに着く。掘割の道があじさい山のある麦原地区へ向かって下っている。歩きにくかったあじさい山周辺の掘割の道は近年整備されて歩きやすくなったと聞く。ニノホリキリを過ぎても相変わらず広い道が続く。尾根が羽賀山へ向かって登っていく辺りは広い巻き道ができている。9年ぶりの再訪なので、羽賀山へ寄っていくか。尾根道は木の根が露出し、街道ほどには歩きやすくないが、奥武蔵の山道としては歩きやすい部類に入る。緩やかに登っていくと小岩が露出する一画に出る。その先は下っているのでここが羽賀山(芳賀山とも書くらしい)の頂上(566.4)だろう。周囲を見回すと立木にテープが巻かれ、ここが羽賀山であると記していた。
(ニノホリキリ 左の掘割の道があじさい山への道)
(羽賀山頂上の様子 山頂プレートは無くなっていた)
往路を戻り、巻き道を行く。「秩父越生街道を往く」にはこの付近に夫婦岩という岩があると書かれているのだが、9年前に訪れた時は見つけられなかった。そこで南側斜面に注意しながら歩いていると小さな踏み跡が下っている。その先には樹林に覆われた岩がある。これが夫婦岩(山と高原地図だとヒグラシ岩とされている)だろう。かつては見晴らしが良かったようだが、現在は周囲の木が育って全く見晴らしは得られなくなっている。9年前は羽賀山頂上から
(歩きやすい巻き道)
(ここから夫婦岩に下りられる)
(夫婦岩)
夫婦岩も訪れることが出来たので、後はひたすら下るだけだ。小ピークを巻く辺りから緩やかな道は終わり、滑りやすい掘割が出てくる。ただ長い距離ではないので、全体的に歩きやすいという印象は変わらない。杉林から雑木林へと変わる辺りで大きく下っていく。急坂を下りきった所には白小石(山と高原地図ではオオダイラ)と書かれた標識が立っている。ここは龍ヶ谷川へ下りる近道があったのだが、現在は廃道となってしまったらしい。
(滑りやすい掘割の道 幸い転ぶことは無かった)
(かつての街道は流石に歩きやすい)
(雑木林の中を大きく下る)
(白小石と呼ばれる場所に着いた 左手に薄い踏み跡があるようだが…)
白小石から戸神へ向かう道は9年前の記事には「奥武蔵でも有数の美しい小道」と称していた。再び歩いてみると良い道であることは変わりない。ただ9年の間に奥武蔵にある幾つもの古道を歩いせいか、戸神への道が特別であるという印象はだいぶ薄らいだ。それでも歩きやすさは上位にあると言ってよい。広い農地のある民家の裏手に出ると間もなく舗装路に出る。戸神集落に到着だ。集落内は道標が完備しており、上りに使う際でも迷うことは無いだろう。陽当たりの良い集落は暑く、9年前と同じく麦原入口バス停へ下ろうかとも思ったが、道標に龍穏寺の文字を見てもう少し頑張ってみることにする。
(429m峰を北から巻く)
(北東へ向かって下る この辺りかなり藪っぽい)
(ここまで来れば眼下に林道も見えてくる)
(農地の裏手に出た 間もなく舗装路に変わる)
(戸神集落内は道標が完備されている)
(戸神集落)
(左手が龍ヶ谷 右手は小杉地区(麦原入口バス停)へ向かう)
戸神集落と龍ヶ谷を結ぶ道は古い地形図にも載っているほどの古い道だが、現在は完全に舗装された生活道路となっている。実際行き交うクルマが多い。杉林に覆われた暗い道を進むと代官屋敷と書かれた道標がある。40m先にあるとのことなので、寄ってみる。綺麗に草刈りがなされた敷地ではあるが、踏み跡が薄く、歩きやすそうな所を適当に進むと石垣があり、赤い屋根の建物が見えてくる。これが戸神の代官屋敷だ。案内板によると江戸にいた龍穏寺の住職に代わって寺領を差配し、名主を世襲していた宮崎家が所有していたものだという。
(代官屋敷)
舗装路に戻り、峠に差し掛かる辺りで太田道灌の父太田道真が築いた砦である山枝庵への道が東へ延びる。興味をそそられるが、片道10分とあり、結構歩かされそうだ。ここは別の機会に訪れるとしよう。峠から下り、龍ヶ谷川沿いに作られた集落に出る。道なりに進むと龍ヶ谷川を渡る舗装された橋がある。橋を渡った先が上大満バス停への道だ。集落に北から入ってきたと思い込んでいたので、少々方向感覚が狂う。宝篋印塔の置かれた補陀岩を過ぎれば龍穏寺の境内に入る。
(舗装された峠道)
(龍ヶ谷川沿いの集落)
(補陀岩)
(境内に入る前から石仏が多い)
駐車場の脇に玉砂利の敷かれた前庭があり、杉林の中にある石積みの参道を進むと大きな山門がある。1913年の火災を逃れた建造物の一つで埼玉県・越生町の重要文化財となっている。山門を潜って石段を上ると太田道灌の像があり、その奥に現在の本堂がある。長昌山龍穏寺は平安時代に創建された後、室町時代に曹洞宗の寺となり、太田道真・道灌の助力を得て栄えた。江戸時代には曹洞宗の寺院を統括する関三刹(かんさんせつ)の一つとなり、格式十万石を拝領するなどの特権を得ていた。現在は山中の静かなお寺という雰囲気だが、境内の広さを見るとかつての権勢が窺える。
(厳かな前庭)
(被災を免れた山門)
(太田道灌の像)
(龍穏寺の案内板)
(本堂)
(右下に置かれた鐘楼が被災を免れたものだという)
龍穏寺を出て、上大満(かみだいま)バス停までは山と高原地図だと30分かかるという。普段なら30分程度の舗装路歩きは辛くないのだが、今日は行程の8割方が舗装路歩きで足腰が既に筋肉痛である。これなら靴底が柔らかいスニーカーのほうが良かっただろう。戸神への道は若干急だが、一度も転ぶことなく歩けるほどには易しい。昔の街道は尾根・谷を忠実に辿るのではなく、歩きやすさを重視していたから、不整地を歩くことを目的とした登山靴はかえって重荷になるのだ。龍穏寺の権力の大きさを示したといわれる下馬門の碑を過ぎると単調な住宅街の道が続く。度々クルマが通り、山の中にいる雰囲気からは程遠い。交通量が多い県道越生長沢線に出ると下りのバスが通り過ぎていく。あのバスが黒山に行って戻って来るのだろう。交差点を黒山方面に入ればすぐに上大満バス停に着く。10分ほど待てば越生駅行きのバスもやって来るようだ。ザックを下ろし、道端にドカッと座り込む。下ヶ戸薬師周辺の森がちょうど日差しを遮ってくれるが、長袖姿ではまだ暑い。気持ちの良い秋はもう少し先のことになりそうだ。
(下馬門の碑)
(龍ヶ谷川の流れ)
DATA:
正丸駅6:15→6:31本邦帝王切開術発祥の地(北川正丸林道入口)→7:24岩井沢観音堂7:34→8:08檥峠入口(岩井沢林道合流点)→8:47檥峠→9:14飯盛峠9:24→9:46野末張見晴台10:04→10:14ニノホリキリ→10:18羽賀山→10:24夫婦岩→10:41白小石→11:06戸神集落→11:17代官屋敷→11:38龍穏寺11:44→12:12上大満バス停(川越観光バス)越生駅
地形図 正丸峠 越生
トイレ 龍穏寺
交通機関
西武池袋・秩父線 小手指~正丸 409円 飯能~小手指 242円
川越観光バス 上大満~越生駅 299円
JR八高線 越生~東飯能 242円
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