Us And Them
TVを点けてもネットを覗いても話題はCOVID-19(COVID-19は症状を指すので新型コロナウイルスと呼ぶのが正しいらしい)のことばかり。専門家の見解によると感染拡大の脅威に立ち向かうには皆が協力して外出自粛とSocial Distancingに取り組む必要があるという。理屈は確かにわかる。でも現実の世界は本当にその2点に十分取り組めていると言えるだろうか。一歩外に出ればクルマが行き交い、多くの人が仕事をしている。"We're All Criminals Now "のときにも述べたことだが、仕事をするために人と会う以上は誰もが新型コロナウイルスに感染し、また感染させている可能性がある。こう云うと仕事をせざるを得ない人たちを非難しているように感じるかもしれないが、ボクはそんなことは全く考えていない。理屈として外出自粛とSocial Distancingが重要でも現実には難しい。だからボクは誰かが感染し、また感染させたとしてもそれを非難する気にはならないのだ。「明日は我が身」とはよく言ったもので、ボクだっていつ罹るかわからない。目の前に迫る脅威を避けることが現実に難しい状況にあるのであれば、それを非難しあうことに何の意味があるのか、ボクにはわからない。今必要なのが皆が協力すること、つまり助け合うことであるのなら、誰かを悪者にして分断を進めることは得策ではないはずだ。
新型コロナウイルスの感染拡大を阻止するために自らを犠牲にしている人たちが既にいる。それは外出自粛に伴って休業を余儀なくされた人たちだ。彼らが何らかの援助を求めることに対し、相も変わらず自己責任論で対処しようとする人たちがいる。別の仕事をすればいい、と言うは易しだが行うは難しだ。ボクが働いたことがあるスーパーや運送の現場は誰もが行える仕事というわけではないという点もあるが、それ以上に就職活動もまた人の移動を伴う経済活動なのだ。安全地帯にいる人間が外出自粛を強要しつつ、就職活動をしろというのは矛盾以外の何物でもない。感染者への非難と同じく、自己責任論もまた感染拡大阻止の協力を阻害する分断でしかないのだ。ただ休業補償に関しては国民の8割が容認しているという数字がある。今は自己責任論をかざして分断を招くよりも今の難局を協力して乗り切ろうという人が大多数ということだ。未知の脅威に対し、正論を振りかざすことに意味はないと多くの人が気付いたのなら、それは一つの希望といえるだろう。
曲はPink Floydのアルバム"The Dark Side of the Moon"(1973)から。戦争という狂気をうたった歌詞は平和ボケした日本に住んでいてもグサリと突き刺さる。それは単に戦争の本質(安全地帯から指揮するだけの人間がいることや戦争は誰かの利益になるから行われることなど)を抉っているというだけでなく、日常の忙しさにかまけて弱者の死に無関心なことも指摘しているからだ。「私たち」と「彼ら」、結局はどちらも普通の人間("after all we're only ordinary men")なのに、それを分断しようとする人たちがいる。お茶や一切れのパンを買うお金すらない("For want of the price Of tea and a slice”)がために死んでしまう人たちをどこか遠くの「彼ら」として見捨てるのか、それとも「彼ら」も「私たち」として包摂していくのか。「彼ら」として見捨ててしまうのなら、いずれボクらも「私たち」から零れ落ちて「彼ら」となったときは誰も手を差し伸べずに死んでいかなければならないということを覚悟しなければならない。
TVを点けてもネットを覗いても話題は
新型コロナウイルスの感染拡大を阻止するために自らを犠牲にしている人たちが既にいる。それは外出自粛に伴って休業を余儀なくされた人たちだ。彼らが何らかの援助を求めることに対し、相も変わらず自己責任論で対処しようとする人たちがいる。別の仕事をすればいい、と言うは易しだが行うは難しだ。ボクが働いたことがあるスーパーや運送の現場は誰もが行える仕事というわけではないという点もあるが、それ以上に就職活動もまた人の移動を伴う経済活動なのだ。安全地帯にいる人間が外出自粛を強要しつつ、就職活動をしろというのは矛盾以外の何物でもない。感染者への非難と同じく、自己責任論もまた感染拡大阻止の協力を阻害する分断でしかないのだ。ただ休業補償に関しては国民の8割が容認しているという数字がある。今は自己責任論をかざして分断を招くよりも今の難局を協力して乗り切ろうという人が大多数ということだ。未知の脅威に対し、正論を振りかざすことに意味はないと多くの人が気付いたのなら、それは一つの希望といえるだろう。
曲はPink Floydのアルバム"The Dark Side of the Moon"(1973)から。戦争という狂気をうたった歌詞は平和ボケした日本に住んでいてもグサリと突き刺さる。それは単に戦争の本質(安全地帯から指揮するだけの人間がいることや戦争は誰かの利益になるから行われることなど)を抉っているというだけでなく、日常の忙しさにかまけて弱者の死に無関心なことも指摘しているからだ。「私たち」と「彼ら」、結局はどちらも普通の人間("after all we're only ordinary men")なのに、それを分断しようとする人たちがいる。お茶や一切れのパンを買うお金すらない("For want of the price Of tea and a slice”)がために死んでしまう人たちをどこか遠くの「彼ら」として見捨てるのか、それとも「彼ら」も「私たち」として包摂していくのか。「彼ら」として見捨ててしまうのなら、いずれボクらも「私たち」から零れ落ちて「彼ら」となったときは誰も手を差し伸べずに死んでいかなければならないということを覚悟しなければならない。