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出雲王国4 出雲王国の成立 徐福集団の渡来 出雲八重書きの捷

2024-04-03 08:59:28 | いつも出雲

 

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「出雲王国とヤマト政権」 ー伝承の日本史ー

富士林雅樹著 大元出版

より敬意を持って引用させていただく

6.二王家による統治

古代ギリシアのスパルタは、二王制であった。出雲王国でも、同様に二王制が採用された。
初代大名持・八耳やつみみ王と稲田姫の間には2人の王子がおり、東西王家として、直轄地を分けた。東王家は富家であり、西王家は神門臣かんどのおみ家であった。二王家は、互いに協力し合って王国を統治した。

主王は大名持おおなもち、副王は少名彦すくなひこという役職名で呼ばれた。両家の当主のうち、年長者が大名持おおなもちになり、年の若い方が少名彦すくなひこになった。

『古事記』には、出雲王国の主王(大名持)・17代の名前が書かれている。それは主王が一系のように書かれているが、実際は二王家がほぼ交替で就任した。
王国前期の主王の名前は、以下の通りであった。『古事記』に書かれた漢字は当て字であったので、出雲王家に伝わる漢字で示す。初代は菅之八耳すがのやつみみ(富家)、2代目は八島士之身やしまじぬみ(神門臣家)、3代目は兄八島士之身(富家)、4代目は布葉之文字巧為ふはのもじくぬす(神門臣家)、5代目は深淵之水遣花ふかふちのみずやれ(富家)、6代目は臣津野おみずぬ(神門臣家)、7代目は天之冬衣あめのふゆぎぬ(富家)、8代目は八千矛やちほこ(神門臣家)、9代目は鳥鳴海とりなるみ(富家)であった。 (巻末付録の系図参照)

少名彦は、『日本書紀』では「少彦名すくひこな命」と字が逆転して書かれたが、書かれた時代と場所が異なるため誤って伝わったものと考えられる。出雲王国の領内で書かれた『出雲国風土記』と『伯耆国風土記(逸文)』では、「スクナヒコ(須久奈比古、少日子)ノ命」という正しい発音で書かれている。「少名彦」の呼び方が正しいことは、その子孫の家でも伝えられている。

 
 
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用
 

出雲国風土記』(いずものくにふどき)は、出雲国風土記。編纂が命じられたのは和銅6年(713年)5月、元明天皇によるが、天平5年(733年2月30日に完成し、聖武天皇に奏上されたといわれている。「国引き神話」を始めとして出雲に伝わる神話などが記載され、記紀神話とは異なる伝承が残されている。現存する風土記の中で唯一ほぼ完本の状態である。

編纂[編集]

713年和銅6年)に太政官が発した風土記編纂の官命により、出雲国国司は出雲国庁に出雲国造出雲臣果安(いずもおみはたやす)を招き、出雲国風土記の編纂を委嘱した[1]733年天平5年)になって、出雲国造の出雲臣広島の監修のもと、秋鹿郡(あいかのこおり)の人、神宅臣金太理(かんやけのおみかなたり)の手によって出雲国風土記は編纂された[1]

構成[編集]

総記、意宇・島根・秋鹿・楯縫・出雲・神門・飯石・仁多・大原の各郡、巻末から構成されている。

各郡には現存する他の風土記にはない神社リストがある。神祇官に登録されている神社とされていないものに分けられている。

自然の地形の項ではその地形の様子と特産品の情報が記されている。

総記[編集]

出雲国の概要が書かれている。

 

伯耆国 - Wikipedia

伯耆国 - Wikipedia

 

 

 

また少名彦は、『古事記』でガガイモの実の船に乗る小人と書かれたが、実際には小さい人間ではなく「若い殿」という意味であった。「彦」は、王子を意味した。

 

ウィキペディアより引用

ガガイモ(蘿藦[3]学名Metaplexis japonica)はキョウチクトウ科[注 1]ガガイモ属つる性多年草である。中国名は蘿藦[1]。種子や葉は薬用に、若い芽は食用になる。

名称[編集]

古名をカガミまたはカガミグサという。夏の季語。いずれの名も語源には諸説あり、イモというのは根ではなくて実の形によるともいう。高橋 (2003) は割れた実の内側が鏡のように光るのでカガミイモ(鏡芋、輝美芋)の名がつき、これが訛ってガガイモとなったとしている。

平安初期の『本草和名』で中国語名の蘿藦がガガイモを表す漢字表記としてあてられ、やがて蘿藦の表記が用いられるようになった。

日本神話では、スクナビコナの神が天之蘿摩船(あまのかがみのふね)に乗ってきたといい、これはガガイモの実を2つに割った小さな舟のこと。

File:ガガイモ00 Metaplexis japonica.JPG - Wikimedia Commons

File:ガガイモ00 Metaplexis japonica.JPG - Wikimedia Commons

 

 

 

p 79 1行

第四章 徐福集団の渡来

1・穴門あなと国の渡来集団

シナでは紀元前221年に、秦国の政という王がシナ統一をなしとげ、始皇帝を名乗った。

始皇帝のつくった統一国・「秦」の名前が語源となり、のちにその国は「シナ」と呼ばれるようになった。「シナ」は、悪い呼び方ではない。その言葉は最近はあまり使われなくなったが、少し前までは普通に使われていた。たとえば、その国の料理のことを「シナ料理」と呼んだ。「東シナ海」や「南シナ海」は、今でも普通に使われている。英語では、シナと同じ意味の「China」が使われている。

シナには、中華思想がある。それは、シナが世界の中心の「中華国」で、それ以外の国は「野蛮国」と見なす考えである。東西南北の国は、それぞれ「東夷」「西戎」「南蛮」「北狄」の言葉で扱われる。
シナの史書では、和国を「倭国」、和人を「倭人」と書いた。
「倭」の字は、矮小の「矮」に通じる。つまり、「倭」には「ちっぽけな」とか、「つまらない」という意味がある。「卑弥呼」も、野蛮人として見下した名前である。また、「対馬」や「邪馬台国」など、周辺国の地名には動物の漢字もよく使われた。

徳川幕府は、韓国からの書簡に「倭国」と書いてあれば、必ず書き直させた。現代の我々が「中華人民共和国」の略語の「中国」を使うと、中華思想を認め、自国を野蛮国と認めたことになる。その理由でこの本では、その国のことを「シナ」と呼ぶ。また、和国に使われた卑字を避け、正しい漢字か、カタカナで書く。

秦がシナを統一する前は、シャントン省方面に斉せいという国があった。斉は、秦に最後に攻められ降伏した。
斉には、徐福という人物がいた。徐福は、斉の王族であったともいわれている。徐福は、字あざな(成人後の名)が彦福で、別名は徐市じょふつといった。徐市は、のちに和国に来てから福の字を好むようになり、徐福に名を変えたという。
出雲の旧家の伝承によると、秦がシナを統一した頃に徐福らしい人の集団が3回和国へ渡来したという。

p81 7行

また当時、シナ船が出雲の海岸に来て、交易していたと言われる。シナ人は、おそらく出雲の鉄を求めたことであろう。シナでは、東海の人々を夷えみしと呼び、出雲の鉄を「銕 (かね偏と夷のつくり)」の漢字で書いていたという。
出雲王国の繁栄ぶりは、それらの貿易商人を通じて、シナでも知られていたものと考えられる。徐福は、おそらく商人たちからそのことを聞いていたらしく、始皇帝から逃れて和国に亡命し、その地で王になりたいという野望を抱いていた。それで、斉の人々は亡命先として和国を選んだものと考えられる。

p83 15行

かれらの大部分はしばらく住んだあと、出雲王国の攻撃に耐えかねて、シナに帰った可能性がある。斉にはまだ秦の軍勢がいるので、南方の江蘇省や蘇洲へ行ったらしい。それらの地名の「蘇」は、イスラエルの「ス」を意味するといわれる。斉国の王族はユダヤ人の末裔であったと言われており、かれらが住んだので「蘇」の字が地名になったものと考えられる。またかれらは、徐州にも移住した可能性がある。徐州の「徐」は、斉の王族の徐氏に由来すると言われる。

p84 2行

前述したように、徐福は1回目に土井ヶ浜遺跡に渡来していた可能性がある。その時は出雲王国軍に攻撃され、徐福たちはシナヘ逃げ帰ったものと考えられる。

 

土井ヶ浜遺跡 - Wikipedia

土井ヶ浜遺跡 - Wikipedia

 

 

 

p87 21行

紀元前219年頃、出雲の海岸に一隻の船が現れた。

p88 3行

船に乗っていたのは、数名の異国人たちであった。彼らは、船から下りると、すぐにイズモ兵に捕えられ、神門臣家の王宮に連れていかれた。当時は、8代目・ヤチホコ王の時代であった。
異国人たちは、秦の国から来た人々であった。頭は、ホヒ(穂日)とタケヒナド リ(武夷鳥)の親子であった。彼らは、王に献上品を差し出して、こう告げた。「われわれは、徐福という方の命令を受けてきました。徐福は、シャントン(山東)省の方士(道教の師)です。徐福が頭となり、大勢の秦族の少年少女を連れて、出雲王国へ来る予定です。子供たちばかりを連れてきますので、貴国に危険は及びません。かれらが到着する時に、攻撃することなく、上陸を許可していただけるようにお願いします」と。

つまりかれらは先遣隊として、あとから来る渡来集団がイズモ兵に大勢で攻められないよう、事前に交渉しに来たのであった。これも、徐福の1回目の渡来の反省によるものであったと考えられる。ヤチホコ王は児童たちと聞いて、危険はないと判断した。そして出雲八重書きの捷を守ることを条件に、徐福たちの上陸を許可することにした。ホヒは安心して、秦国に交渉の成功を伝える使いを出した。

 

p91 7行

翌年、ホヒの申し出通り、徐福ひきいる大船団が出雲王国に現われた。

徐福が乗る先頭の船は、石見国の五十猛いそたけ(島根県大田市)の磯に着き、徐福たちはそこに上陸した。童男・童女を乗せた他の船も、その近辺に碇いかりを下した。かれらも、続々と上陸してきた。

海を渡ってきた子供たちは、海童かいどうと呼ばれた。または、秦国からやってきたので、秦しん族とも呼ばれた。かれらは、機織はたおりりの技術も持ってきたので、のちには八タ族と呼ばれるようになった。

 

「出雲八重書きの捷」とは

p55 17行

5.出雲王国のマツリゴト

出雲王国の大祭の行事は、「マツリゴト」と呼ばれた。その行事の一つに、法律や規則を決める寄り合い(会議)があった。その会議で決められた法律や規則により、王国の領土が統治された。その行事会議の取りまとめは王である大名持おおなもちが行い、会議で決められた条文は、ユウと呼ばれる樹皮紙に記録された。その紙は、豊後ぶんご国の由布ゆふ岳で最初に作られたので、「ユフ」と呼ばれたという。のちにその地は、湯布院ゆふいんと呼ばれるようになった。ユウは、梶かじの樹皮をはいで水にひたし、内側の甘皮あまかわを除いただけの皮板であった。それは、古代エジプトで紙の代わりに使われていたパピルスにも似ていて、墨汁で字を書くことができた。これを使い始めた時期は、シナで紙が発明されたと言われている時期 (紀元前2世紀)より古いという。

 

樹皮紙 - Wikipedia

 

法律や規則の条文は、「出雲八重書やえがき」と呼ばれた。「ハ重」とは、数が多いという意味である。出雲八重書きは、各地に持ち帰られ伝えられた。
イズモ兵の末裔・出雲散家さんかの厳しい捷おきても、ヤエガキと呼ばれている。須賀神社には、ヤエガキについて詠んだ次の和歌が伝わっている。

ヤクモタチ イズモヤエガキ ツマゴメニ

ヤエガキツクル コノヤエガキヲ

これは一般的にはスサノオが詠んだ歌とされているが、実際にはイズモ族がつくった歌であり、スサノオとは無関係である。

三角寛著 『サンカ社会の研究』には、この歌の正しい解釈が書かれている。要約すると以下の通りである。

<出雲憲法の喜びの歌>
自分たちイズモ族に暴漢やくもはいない(ヤクモタチ)婦女暴行(ツマゴメ)に対する憲法(イズモヤエガキ)がある
憲法を制定して、その憲法をいま手にして (ヤエガキツクル)、この憲法を守るぞ(コノヤエガキヲ)

つまりこの歌は、婦女暴行(一夫多婦)を禁じた「一夫ー婦」の掟やえがきついてのものであった。イズモ族は、この掟やえがきが特に良い法律であると喜び、歌にしたのであった。
ただし有力豪族は、多くの血縁関係をつくって他国と同盟を結ぶ必要があったので、一夫多婦制が認められていた。

 

出雲国 - Wikipedia

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