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ヨーガ・スートラ6 誰でも神と心を一つにすれば宇宙をつくれるワケとやり方

2024-06-30 08:02:03 | 超能力者のためのヨーガ・スートラ

 

今回は、当ブログの読者で良かったとわずかでも思っていただければ幸いである

鎮魂行や瞑想の体験がない方には、どうしても理解が難しいのではと思われる

だが、「未体験の人間にも何とか分かるような内容」を実体験からまとめてみようと試みた方がいる

そもそもこの本の生い立ちは、筆者パタンジャリが、旅をする様々な瞑想行者達から聞き取り調査した瞑想体験談の集大成を記したもののようである

本書p5 8行

深い森のなかにヨーガのアーシュラマ (僧院、道場)がありました。パタンジャリはそこの院長でした。王の庇護を受けるアーシュラマで、食糧には困りません。そのため、さまざまな思想と行法を有する漂泊のサードゥ (乞食こつじき行者)がしばし腰を休め、また旅立ってゆきます。

p6 9行

パタンジャリは、サードゥたちからの聞き取りを極度に簡潔化したスートラ調の文体に作りかえました。

この著書は、実践的な解説部分が大変参考になる、一方、仏教的な部分は参考にしない、人体の生成などではカタカムナの内容と異なる部分もある

神道は回りくどいことを嫌う、あまりに複雑すぎる概念は、集中には無用に思う

瞑想の種類は、沢山あり解説すれば切りがないが、「まずは、やってみる(実践)」、「やって、感じて、考える(正しいやり方に沿っているか)」、それには、最低限必要な知識でまずスタートする

太古神道の鎮魂法も瞑想法の一つといえる

 

あとは、「何か変」、「何かうまくいかない」と感じることを大切にし、内なる自分が感じている違和感に常に気をくばる、そしてそれは何が原因となっているのかを感じとり、原因を排除し、改善することで良いと思う

 

「何が正しい状態」かを知っているのは、自分の心、直観は自分の心の声、「感じたこと」を何より大切にする

「何が間違っている」かを知っているのは、自分の心、直観は自分の心の声、「感じたこと」を何より大切にする

「強力な集中」とは、太古神道の直日霊、神の分霊、カタカムナのアメノミナカヌシ、と言われる「自分の核になっている存在」が感じていることを、ダイレクトに感受するために必要なこと

 

現代人は、浅いレベルの思考を優先させてものを考える癖が付いてしまっている

それが、自分の心が発する声を受け取れなくしている

まずは、その癖を無くした状態を体験して、体得することを目指す

 

自分の核になっている存在」は常に正しい判断を下している

あとは、そこにアクセスするために、「集中」すればよい

 

ヨーガスートラの解説の目的

「集中」をするための方法と、「集中の進行度合い」をはかる体感とはどうのようなものかを参考にする

 

ポイント

○ 著書の仏教的内容において「カルマ」の概念はあえて参考にしない

その概念は、太古神道の教えに反する、常に心身の「清明」な状態を保つためことが基本なので、無用な概念と思う

つまり、精神を暗くする概念は、当ブログでご紹介した、中村天風氏の完全積極精神、籐平光一氏の心身統一法、柳川昌弘氏の「見の目弱く、観の目強く」『五輪書』など、心身をリラックスさせ、不動心を確立させ、人間の最も強い状態をつくり、潜在能力をフル稼働させることの妨げになる

過去や未来に思考が縛られることを避け、今、今、現在に100%焦点を合わせて、自らを今ここに完全集中することが重要に思う

過去や未来に焦点を向けさせるカルマの概念は、「集中」の「障り」にしかならないと感じる

図解 ヨーガ・スートラ 著者・作図 伊藤武 (有)出帆新社

より敬意を持って引用させていただく

著書引用部分 茶色文字

今回は詳しく、カタカムナ潜象物理の考えや山蔭神道の考えを用いて、ヨーガスートラを解読して行く

p23(図1の解説文より)引用

サーンキヤは、〈霊魂プルシャ〉と〈物質プラクリティ〉の二元論で存在を解明しようとするインド最古の体系的哲学。

プラクリティとは、サットワ(浄性)ーラジャス(激性)ータマス(純性)の3つのエネルギーが、ヘビとカエルとナメクジのようにすくみ合っているという状態をいう。

グナ(ローマ字発音表記省略)には、「徳、美徳、才能、性質、」など多くの意味があるが、サーンキヤ用語としてのそれは、「徳」と漢訳され、プラクリティを構成する三つの要素——

 

「ヘビとカエルとナメクジのようにすくみ合っている」とは、三者とも身動きが取れなくなるような状態である

エネルギーを構成する三要素の完全均衡状態、つまりエネルギーの偏りが一切存在しない状態

カタカムナで言うところの、エネルギーの種類に「サ(差)」の存在しない状態、現象化には必ず「サ(差)」を伴う

「サ(差)」がないとは、現象化がないということになる

「サ(差)」がないとは、現象化がない世界、つまり潜象界(目には見えないが確かに存在する世界)

潜象界とは、物質化の前の世界、物質が崩壊して、還元されて、戻る世界

日本最古の三すくみ」は、「ヘビとカエルとナメクジで表現した三すくみ」である

「ヨーガ・スートラ」の重要な用語「三グナ」の説明文に、「ヘビとカエルとナメクジで表現した三すくみ」が引用されている

「ヨーガ・スートラ」は、5世紀ごろのインドの著書である、インドと日本の関わりはどこでどのようにあったのだろうか

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

三すくみ(さんすくみ、三竦みとも書く)とは、三つの者が互いに得意な相手と苦手な相手を一つずつ持つことで、三者とも身動きが取れなくなるような状態のことである

三すくみの例

虫拳:ヘビ ← ナメクジ ← カエル ← ヘビ ……日本最古の三すくみ。ヘビはカエルを一飲みにする。ヘビには負けるカエルだが、相手がナメクジならばやすやすと舌でとって食べる。しかしカエルに負けるナメクジにはヘビ毒が効かず、身体の粘液で(カエルより強いはずの)ヘビを溶かしてしまう(実際にはそのようなことはおこらないが、古い時代の日本ではそう信じられていた。ただし、ナミヘビ科にはナメクジを捕食する種もいる)。このときにカエルがナメクジを食べると、その後ヘビに食べられてしまうので、ナメクジを食べられない。ヘビ、ナメクジも同様の状態で、三者とも身動きがとれず三すくみとなる。

虫拳(むしけん)は、ヘビ(蛇)・カエル(蛙)・ナメクジ(蛞蝓)の三すくみにより勝敗を決める拳遊び平安時代の文献にも出てくることから、日本の拳遊びで一番古いものであると思われる。

人差し指がヘビ、親指がカエル、小指がナメクジを現す。ヘビはカエルに勝ち、カエルはナメクジに勝ち、ナメクジはヘビに勝つ。その他、遊び方はじゃんけんに同じ。

グナ(ローマ字発音表記省略)には、「徳、美徳、才能、性質、弦」など多くの意味があるが、サーンキヤ用語としてのそれは、「徳」と漢訳され、プラクリティを構成する三つの要素——

グナは、エネルギー(=プラクリティ)を構成する三要素

サットワ(ローマ字発音表記省略):照明、存在、、直観、調和、清浄、歓喜または至福 
○ラジャス(ローマ字発音表記省略): 活動、動作、エネルギー、変化

タマス (ローマ字発音表記省略): 暗闇、停滞、安定性、鈍さ、重さ、無感覚、障碍

三グナが完全な平衡にあるとき、宇宙は未顕現。それらのなかに変動または変容があるときにのみ、顕現 (宇宙創造)がはじまる。 

p66 (図)三グナ 引用

さて、グナに、弓や琵琶ヴィーナーなどの「弦」の意があることに注目したい

弦は、何もしなければ、動かず並行に静止している 完全均衡状態

弦は、人がはじけば、振動が生まれ、音楽を奏でる 不均衡状態

「三グナが完全な均衡にあるとき、宇宙は未顕現」=現象化の前の世界=潜象世界=宇宙は、未だ顕れていない

「三グナが完全な均衡」が破られたとき=「エネルギー構成要素の完全な均衡」が破られたとき

宇宙創造=潜象界から、エネルギー(=チカラ)が現象界に発現する

上図は、「サ」のカタカムナ図象

カタカムナ図象はカタカナの源流らしい

以下、引用文で理解しやすいように、おおまかな予備知識

「サ」差(チカラの差)

「現象界」目に見える世界、物質世界

「カ」(潜象界の)チカラ

「アメサツチ」「アメ」アマ界から「カ」が発生して、「ヤ」飽和・還元・極限の段階まで進む生命のチカラをヒメた、極微粒子

「サツチ」「サキリ」のチカラによって「サ」が発生し「リ」分離された「ツ」個々の「チ」持続、小さい

「サキリ」「カ」が「サ」によって、「キ」発生され「リ」分離する「カ」チカラ

「キ」発生

宇野多美恵解釈・総集編

日本の上古代文明とカタカムナウタヒ (第一巻) 潜象物理学会

より敬意を持って引用させていただく

p236 2行~

「サ」という図象は、現象界アマを象徴する横線が、「カ」のカカワリを象徴する縦線二本によって、三つに分けられている。縦線が二本ということは、一本では分けられないからであり、又、三つに分けたということは、折紙などで大マカに三つに折ることはできても、数学的の1/3、三等分、ということは不可能で、分けられたものは、必ず差がある、ということを象徴している。

又、大円(ワ)の中に引かれている縦線二本で抽象されていることは、円形(ワ)の中に引かれた線は、同じ長さは無い。幾何的に全円を想定して作ることはできるが、実際に、たえず変遷・進化の続くアマ界に於ては、全円で、動かぬ、というものは無く、その中に引かれる線は、同じ長さのものはあり得ない。

要するに、現象にかかわる「カ」に「サ」があり、「カ」を受けて発生したものにも「サ」があり、一つとして全く同じというものは無い。(吉野山の桜が、いかにたくさんあっても、その花びらは、一つとして同じものは無い。)

「サ」によって、すべてのものが発生する

その最初のものを、「アメサツチ」といったのである。(それ故、「サ」には、非常に小さいという思念もふくまれている。)

* 「サキリ」とは、「キ」というコトバも発生の思念であるが、「キ」図象は、「サ」を九十度まわして、縦線一本に横線二本で示されている。ということは、「カ」のチカラがカカワる時の受け方に、「サ」があるから、「キ」して「リ」する発生物カタチにも、多様性が生じることを意味している。(カタチ サキ 第五首)

上図は、「キ」のカタカムナ図象

カタカムナ図象はカタカナの源流らしい

p110 7行

「光を持つ (こと/もの )」。『註釈』によると、

心がサットワ・グナのはたらきによって輝いている状態が、ジョーティシュマティーであるという。

この瞑想に熟達すれば、マナスのはたらきは、サットワが優勢になり、ラジャス・タマスを圧倒して、心は実際に太陽や月のように光り輝く。

 

「この瞑想」の方法を前回掲載したが、おさらいする

p109 3行

あるいは、憂いを離れ、光輝[あるときも心の安定が得られる]。

 

第四は、憂いなき内なる光明に集中。
これは、『リグ・ヴェーダ』 (Ⅲー六二ーー〇 )のガーヤトリー讃歌ー

(ローマ字表記省略)

われら、太陽の無上の神の光明を享受したし。かの光、わが叡智を力づけたまえ。

にもとづく、ヴェーダ以来の古典中の古典といえる瞑想法だ。

①意マナスを胸の真ん中、伝統的に蓮華の蕾のかたちであらわされる心臓内部の空間に向ける。

②そこに、白熱する発光体がある、と観想イメージする。文字どおりに内なる目で見る、見ないーはあまり重要ではない。
この実践は、見る、見ないのどちらの方法ででも働く。

 ③②の内観を保持する。
心に生じるかもしれない雑念ー他の思考、イメージ、印象、記憶は無視する。
雑念は自分の邪魔をしない、という想いを保つこと。

④心臓内で白熱する内なる光明に住する。

意識(=マナス)のはたらきは、光(=サットワ)で満ちあふれるとどうなるか

サットワ(ローマ字発音表記省略):照明、存在、、直観、調和、清浄、歓喜または至福  増加

○ラジャス(ローマ字発音表記省略): 活動、動作、エネルギー、変化  減少

タマス (ローマ字発音表記省略): 暗闇、停滞、安定性、鈍さ、重さ、無感覚、障碍 → 減少

 

現代の物理学では、光エネルギーと物質が同じものであるという。そして、物質の最小単位は原子よりも素粒子よりも小さい振動なのだという。振動数の遠いが、物質の違いとなって現れるのだという。古代サーンキャの賢者たちは、きつと、それと同じ見解をいだいていたのだ。

すなわち、潜在的な形で存在していた万象の実相が、顕在的な振動に変換されることによって宇宙が創造される。

世界は、音の宇宙法則に基づいて、みずからを展開してゆく。

エネルギーと物質が同じもの

光=現象化したもの

音の宇宙法則に基づいて、みずからを展開してゆく

音=音波=振動=波動=渦 それぞれ個々の異なる振動数に基づいて、自らを現象化してゆく

ヘビはその形状を変化させ、時に「真っ直ぐ」になって静止し、時に「波形」になって動き、時に「とぐろ」を巻いて戦う、特性を持つ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ひかり)は広義には電磁波を意味し, 狭義には電磁波のうち可視光(波長が380 nmから760 nmのもの)をいう[1]。狭義の光は非電離放射線の一つ[2]

科学史[編集]

粒子説と波動説[編集]

「光は粒子なのか? それとも波なのか?」 この問題は20世紀前半まで、学者たちを大いに悩ませた。なぜなら、光が波であるとしなければ説明できない現象(たとえば光の干渉分光など)と、光が粒子であるとしなければ説明できない現象(たとえば光電効果など)が存在していたからである(詳細は後述)。

この問題は、20世紀量子力学が確立していく中でようやく解決することになった。不確定性原理によって生じた問題を説明するため、1927年ニールス・ボーアが、一方を確定すると他方が不確定になるような2つの量は、互いに補い合いあうことにより対象の完全な記述が得られるとする、相補性という概念を提唱したのである。この考え方が受け入れられ、「光は〈粒子性〉と〈波動性〉を併せ持つ」と表現されるようになった。

宇野多美恵解釈・総集編

日本の上古代文明とカタカムナウタヒ (第一巻) 潜象物理学会

より敬意を持って引用させていただく

p291 18行

「マクハヒ」の図象は、「フツ」「フツサカル」「フカヒウツシ」とよめる。二つのチカラによってウヅが発生することを示す思念イミである。

現代語では、「フルエ」(振動)である。科学でいう電磁波を、思い合わされる。

つまり、科学が「電磁波」としてとらえているものを、カタカムナ人は、原理的に、「カ」の第一変遷(最小の現象粒子)の「イカツ」の「ハヒ」(サヌキ・アワ)の振動(マクハヒ)と、直観していた。(アワナギアワナミツラナギナミ 第十五首)

要するに、宇宙のあらゆる現象(生物のあらゆる生命現象)は、「サヌキ アワアワセ「マクハヒ」によるという物理サトリである。(「電磁波が物質や生命質をつくるという物理」四号 162~168~頁)

 

光=電磁波

電磁波=潜象界のチカラ(=カ)が、最初に、現象界に出現した最小の現象粒子の粒子(=イカツ)の正反ハヒ(プラス・マイナス)の振動(=マクハヒ)

「カ」の第一変遷(最小の現象粒子)の「イカツ」の「ハヒ」(サヌキ・アワ)の振動(マクハヒ)と、直観していた。

 

すなわち、潜在的な形で存在していた万象の実相が、顕在的な振動に変換されることによって宇宙が創造される。

 

潜象界のチカラが、現象化し発現するときは、振動に変換されることによって宇宙が創造される。

光=電磁波=潜象界のチカラが、最初に、現象界に出現した最小の現象粒子の粒子(=イカツ)の正反ハヒ(プラス・マイナス)の振動

 

では、実際に現象をつくってみよう、さてどうしようか?

三弦トリグナの神韻縹渺しんいんひょうびょうたる振動は、漸次ぜんじ、光へと変化してゆく

神韻縹渺〔シンヰンヘウベウ〕とは?

神韻縹渺の解説 - 学研 四字熟語辞典

しんいんひょうびょう【神韻縹渺】
芸術作品が、人間の技を超えているように思われるほどすばらしいこと。芸術品の、奥深く味わいのある趣。
注記
「神韻」は、詩文の神業かみわざのようにすぐれて高尚なさま。また、その趣。「縹渺」は、遠く遥かなさま。
表記
「縹渺」は、「縹緲」や「縹眇」とも書く。
神韻縹渺の解説 - 小学館 デジタル大辞泉
しんいん‐ひょうびょう〔シンヰンヘウベウ〕【神韻××渺】
[ト・タル][文][形動タリ]芸術作品などに、きわめてすぐれた趣が感じられるさま。

 

エネルギーを構成する三要素(=三弦)の振動は振動でも、「人間技を超えている」、「神がかっている程上手すぎ」、超人的レベルへの到達

「心が神とひとつになった」振動でないと、徐々に光(=現象)に変化はしない

心が神とひとつになったとは?光そのものの心もちとは?

神道の思想には「清明正直」というものがある

山蔭神道家第79代故山蔭基央氏の著書「神道の神秘 古神道の思想と行法」春秋社

心より哀悼の意を表し、敬意を持って引用させていただく

こちらの書籍は絶版になる前にご購入をおすすめする

p55 2行

「清明正直」が神道の本源

 

神道の根源にある思想は、

「清明正直せいめいせいちょく」である。

「清く、明るく、正しく、直なおく」が人間として最も大切なことであると説くのである。 

これを二つに分けて「清明」と「正直」の二語とすることもある。人によってその説き方は異なるが、「清明」は「清い、つまり汚けがれがなく」、「明るい」心という内面的な心持ちのことであり、「正直」とは「正しい、つまり悪や罪科を犯さない」、「素直すなお」な行ないという行動面・社会面のことであるとも言う。

 

では、鎮魂状態での「清明正直」とは何か?

「神道の神秘 古神道の思想と行法」より

p185 7行

「一念」から入る

 

鎮魂も本当に深い状態に入れば、まさしく「無念無想」と言われるような境域に達するのだが、ほとんどの人は気にそんな「無念無想」を求めてもできるものではない。

だから、有能な指導者は「まず心を一念に統一しなさい一と教える。そのためには、ふさわしい言葉を反復して唱えるのかやりやすい。仏教では真言・陀羅尼とい短い呪文のような句を唱えさせるのだが、古神道では「天の数歌」といって

「一、二、三、四、五、六、七、八、九こと、十たり、百もも、千、万よろず」と唱えたり、

「五大母音」といって

「ア、オ、ウ、エ、イ」

を長く唱えたりする。もちろんこれは平安時代以後のことである。

また、時計の音や雨だれのような単純反復音を用いて統一を図ることもある。装置かなくとも、自分で周囲の雑音のから単純反復音を拾い出して、それに集中することもできる。

さらには、「一念」に集中することで統一ができるようになる。この一念とは、日常生活とは無関係な清浄な想念を、一心に心に思うことである。たとえば、「神様、ありがとうございます」という感謝の一念でもよい。

このように、さまざまなやり方を用いて、心が統一されていくと、やがてふっと、一秒間であれ二秒間であれ、「無念無想」の境地が開ける。

それは何も思わない、感じないということではない。清明でどこまでも透明でしかも無限の叡智に充ちた境域である。どんなに短い瞬間であっても、永遠に破滅しない清明界に触れることができるのである。しかも、その一秒~二秒に宇宙のすべてがあるように感じられるものである。

鎮魂状態において「無念無想」の境地、清明な境域に入れる

山蔭神道家第79代故山蔭基央氏の著書「神道の生き方」学研パブリッシング社

敬意を持って引用させていただく

p122 2行

❖光の玉のビジョンを視る

 

太古神道の修行者には、必ず光の玉を連想せと命じている。
鏡を見て瞑目する。その見える反転した幻影は黒い玉だが、それがさらに光の玉に反転する、というように。

これができない気根の者は、直径十センチの黒玉の絵を描いて、それを凝視し、瞑目すると、白い玉に反転してくる。その反転した白い玉が輝いてくると、光の玉となる。その光の玉の幻想のなかを通って神霊が感応する。その時間は瞬の時間である。それを仏教では無念無想の境地といっているようだ。

『日本書紀』一書あるふみの一、天照大神誕生のくだりに、「イザナギ尊、左の手に白銅鏡ますみのかがみをもちたまふとき、化出なりいでます神を天照大神。右の手に白銅鏡をもちたまふとき、化出ます神を月弓尊つくゆみのみこと」というとある。

『日本書紀』本文では、天照大神のことを、「光華明彩ひかりうるわしく・六合照撤あめつちにてりとおる」神と表現するが、これは、本文ではないにせよ「一書の一」であり、まことに重大な記述である。
神霊とは光り輝いている存在で、その象徴が、日光を反射する白銅鏡のようなものという理解があって、この物語を逆転させたものが『日本書紀』の一書であるとしたら、修行者にとって重大な教示である。

神主と呼ばれる人々は太古の昔からいて、毎日、神明奉仕をしてきているのだが、瞑想 (鎮魂)修行をしていた人はわずかである。その多くは社殿管理に追われ、祭儀・祈禱も、定められた作法のみとなっている。 

したがって、今や神霊の実在を体験する方法すら不明となってきているのであり、あまつさえ、こうしたことを語ることがタブー視されている。それは鎮魂を指導する神主が絶無になったということである。 

しかし、光の幻想はほんとうは誰でも拝することができる。

それを可能にするためには実修あるのみで、修行方法も多種におよぶ。だが、根本にあるのは、光り輝く鏡を連想すること、黒い玉を反転させて白い玉を連想することだ。要は光のビジョンを見ることが重要なのである。

普通一般の人でも会得できるが、ただし、辛抱強く一つことに集中するならばという条件がつく、慣れてくると集中は瞬時にできるものだ。しかも深い幻想の中に入れる。

幻想 (ビジョン)を描いていると、心の中に光 (イルミネーション)が現れる。太古神道が生活規範として「明るく、清く、直すなおに、正しく」と言い伝えたのは、この幻想や光を常に維持できるためだとしたら、なんとすばらしい教訓だろう。 

人間は長時間、同じ姿勢や心の状態を継続することはできない。とりわけ無念無想を長時間続けるなど不可能である。そうしたことができるのは特殊な人だけだ。

そこで凡人 (一般人)は、またたきの谷間に入るようにするのである。注意深く光の玉を幻想していると、光の玉から出る不思議な誘いに乗せられて一瞬の光の中に入っていく。

そのとき瞑想者は、自然時間とはまったく異なる別次元の時間に入っていくのである。もし四次元という語を用いることが許されるなら、四次元世界に入るのであろう。

この四次元世界への入口である瞬の谷間という時間は、修行者にとって、限りなく重要な時間なのである。

まだまだ次回に続く