今回から、「ヨーガ・スートラ」について、参考になる部分を解説してゆく
この著書は、実践的な解説部分が大変参考になる、一方、仏教的な部分は参考にしない、人体の生成などではカタカムナの内容と異なる部分もある
神道は回りくどいことを嫌う、あまりに複雑すぎる概念は、集中には無用に思う
瞑想の種類は、沢山あり解説すれば切りがないが、「まずは、やってみる(実践)」、「やって、感じて、考える(正しいやり方に沿っているか)」、それには、最低限必要な知識でまずスタートする
太古神道の鎮魂法も瞑想法の一つといえる
あとは、「何か変」、「何かうまくいかない」と感じることを大切にし、内なる自分が感じている違和感に常に気をくばる、そしてそれは何が原因となっているのかを感じとり、原因を排除し、改善することで良いと思う
「何が正しい状態」かを知っているのは、自分の心、直観は自分の心の声、「感じたこと」を何より大切にする
「何が間違っている」かを知っているのは、自分の心、直観は自分の心の声、「感じたこと」を何より大切にする
「強力な集中」とは、太古神道の直日霊、神の分霊、カタカムナのアメノミナカヌシ、と言われる「自分の核になっている存在」が感じていることを、ダイレクトに感受するために必要なこと
現代人は、浅いレベルの思考を優先させてものを考える癖が付いてしまっている
それが、自分の心が発する声を受け取れなくしている
まずは、その癖を無くした状態を体験して、体得することを目指す
「自分の核になっている存在」は常に正しい判断を下している
あとは、そこにアクセスするために、「集中」すればよい
ヨーガスートラの解説の目的
「集中」をするための方法と、「集中の進行度合い」をはかる体感とはどうのようなものかを参考にする
ポイント
○ 著書の仏教的内容において「カルマ」の概念はあえて参考にしない
その概念は、太古神道の教えに反する、常に心身の「清明」な状態を保つためことが基本なので、無用な概念と思う
つまり、精神を暗くする概念は、当ブログでご紹介した、中村天風氏の完全積極精神、籐平光一氏の心身統一法、柳川昌弘氏の「見の目弱く、観の目強く」『五輪書』など、心身をリラックスさせ、不動心を確立させ、人間の最も強い状態をつくり、潜在能力をフル稼働させることの妨げになる
過去や未来に思考が縛られることを避け、今、今、現在に100%焦点を合わせて、自らを今ここに完全集中することが重要に思う
過去や未来に焦点を向けさせるカルマの概念は、「集中」の「障り」にしかならないと感じる
図解 ヨーガ・スートラ 著者・作図 伊藤武 (有)出帆新社
より敬意を持って引用させていただく
著書引用部分 茶色文字
宇野多美恵解釈・総集編
日本の上古代文明とカタカムナウタヒ (第一巻) 潜象物理学会
より敬意を持って引用させていただく
著書引用部分 青色文字
ブログ解説部分 緑色文字
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
ヨーガ
語源
![屋外の彫像](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/9c/Patanjali_Statue.jpg/220px-Patanjali_Statue.jpg)
サンスクリット語の名詞योगヨガは、語根yuj(युज्)「取り付ける、結合する、ハーネスする、くびき」に由来します。[28] ヨガは英語の単語「ヨーク」の同族語です。[29] ミケル・バーリーによると、「ヨガ」という言葉の語源が最初に使われたのは、昇る太陽神への献辞であるリグヴェーダの賛美歌5.81.1で、「くびき」または「コントロール」と解釈されています。[30][31][注釈 2]
パーニニ(紀元前4世紀)は、ヨガという用語は、yujir yoga(くびき)またはyuj samādhau(集中する)の2つの語根のいずれかに由来すると書いています。[33] ヨーガ・スートラの文脈では、伝統的な解説者によって、ルートyuj samādhau(集中する)が正しい語源と見なされています。[34]
パーニニによれば、ヴィヤーサ(ヨーガ・スートラの最初の注釈を書いた人)[35]は、ヨーガはサマーディ(集中)を意味すると言っています。[36] ヨガを実践する人、または高いレベルのコミットメントでヨガの哲学に従う人は、ヨギと呼ばれます。女性のヨギは、ヨギーニとしても知られています。[37]
p2 1行
『ヨーガ・スートラ』基礎知識
(ローマ字発音表記省略)
・原題:パータンジャラ. ヨーガ. スートラーニ(パタンジャリによるヨーガのスートラの集成)
・作者:ハタンジャリ (?)
・成立期:五世紀ごろ―唯識のヴァスバンドウ(世親 せしん;西暦四〇〇年前後)を意識しているため
・成立地:北インド (?)
・内容:一九五の簡潔な経文スートラを配した次の四つのパーダ (章)から成る。
(ローマ字発音表記省略)
1章 (三昧について)——五一節
2章 (実修について)——五五節
3章 (超能力について)——五五節
4章 (独存について)——三四節
p2 25行
『ヨーガ・スートラ』のヨーガの定義「ヨーガは心の活動の停止」や修道の「八支則」は、その後のヨーガの指針となった。
p11 9行
インド・ヨーガの発展の歴史は、じつに『ヨーガ・スートラ』の解釈の歴史ともいえます。ヨーガを実践されているかたは、ご自分にふさわしいヨーガを見出していただきたい。ヨーガの知的冒険の旅です。
p14
喜び、怒り、哀しみ、楽しむ。それが人。
それを描きだすキャンバスは心。人は心とともに在る。
『ヨーガ・スートラ』は徹底して心をあつかったヨーガの根本聖典だ。
すなわち、ヨーガのテ—マは、心といかにつきあうか。
『ヨーガ・スートラ』は、そのための法則を抽出し、数式を並べるように羅列する。
そして、心を攻略し、征服することを説く。そのあかつきには何があるか?
人は、人であることをやめて、神 (プルシャ)になるという。
「いずれ、神になる」ここの部分は、神道と同じ!?
p23 「(図1)サーンキヤの構造(プラクリティの転変)と25原理の教えかた」より引用
図1の説明文で小さく読めないので、以下に書き起こす
(図1)サーンキャの構造(プラクリティの転変)と25原理の数えかたサーンキャは、<霊魂プルシャ>と<物質プラクリティ>の二元論で存在を解明しようとするインド最古の体系的哲学。プラクリティとは、サットワ(浄性)ーラジャス(激性)ータマス(鈍性)に3つのエネルギーが、ヘビとカエルとナメクジのようにすくみ合っている状態をいう。それがプルシャに視つめられて激性が興奮、鼎立が崩れてまず<元意識ブッディ>が産み出される。<元意識>はやがて<自我=アハンカーラ>に目覚める。つまり、「私アハン」ができるのだ。<自我>は<意識マナス>と<微細元素タンマートラ>に分裂する。そして、<意識>が<微細元素>に作用することによって、肉体および現象が形成される。われわれは、眼や耳や鼻などの感覚器官を通して世界を認識し、手や足など運動器官を通して世界を体験する。
語彙を分かりやすく箇条書きしておく
プルシャ 霊魂
プラクリティ 物質 サットワ(浄清)、ラジャス(激性)、タマス(純性)に3つのエネルギーで構成される
ブッディ 元意識
アハンカーラ 自我
マナス 意識
タンマートラ 微細元素
p127を参考にすると、「マナス」、「五大元素」より上に位置するものは「微細スークシュマなもの」とある、カタカムナの潜象(目には見えないが確かに存在する、現象化の元)界の存在にあたるのではないか
カタカムナの潜象の粒子の動きは、「マワリテメクル(=廻りてめぐる)」し、3つ巴である、その潜象の粒子の動く速さは超光速(アマハヤミ)という
カタカムナウタヒ
第五首
ヒフミヨイ マワリテ メクル ムナヤコト アウノスヘシレ カタチサキ
p99 18行
《宇野多美恵解説》
「ヒ」が「フ」になり、「ミ」になり、「ヨ」「イ」と旋転循環マワリテメグルして、生命体物質を構成する最小単位の粒子マリ(「イ」)となる。
それが、六方環境ムから、何回も何回ナも極限ヤまで繰返コし重合トして、対向発生がアウノスベ行シわレれ、「カ」から独立タして極微の粒子の形チを以て発生するサキのである。 (第五首)
プラクリティは、サットワ(浄清)、ラジャス(激性)、タマス(純性)に3つのエネルギーで構成されるとあり、サットワ(浄清)とタマス(純性)はエネルギーの静的特徴を、ラジャス(激性)は動的な特徴を表している様に思われ、これがカタカムナの潜象の粒子の動き「マワリテメクル」の超光速の特徴にあたるのだろうか
3つの渦、巴の図、カタカムナの「ヒ、フ、ミ」までは潜象界の存在、つまり、プラクリティは、潜象界の目には見えないけれど存在する、現象になる前の存在、潜象存在(のちに現象化するにしても)
その下のブッディ、アハンカーラ、タンマートラは「微細スークシュマなもの」とあるから、カタカムナでいう「ミ」ではあるが、「ミ」に属している「呼び名」の異なる「ミ」の種類ではないだろうか
カタカムナの潜象物理では、人体の発生は、まず、アメノミナカヌシ(=分霊・直日霊)がやってきて、アメノミナカヌシから人体が生成されるとある
自我は意識(マナス)と微細元素(タンマートラ)に分かれ肉体、現象が形成される、とあるが、要するに自我が生まれないと、人体がつくられない、現象が起こらないという意味になり、ここはカタカムナ潜象物理とは異なる気がする
この著書だけではわからないが、ヨーガ・スートラでは「自我が現象をつくる」となり、カタカムナでは「潜象存在カムがすべての現象をつくる」となる
自我に現象を変える力は、あると感じるし、量子力学では実験にて、観察者の有無で現象が変わるとある
だが、あくまで、現象を変えることはできても、宇宙を生み出すことは出来ないのではないか?しかし、もし神道の考えのように、最終的には修行の末「人も神となる」なら、それもありうるかもしれない
ただ、もうその段階まできていると、人間が定義する「自我」という小さな枠におさまらない、人間の理解力を超えて、深遠で広大無辺な宇宙意識としての存在、もしくは無限の慈愛を有する存在、に変化しているように思う
p24 2行
初期のヴェーダにみるインド人の価値観は単純明快であった。
牛をいっぱい所有している人は豊か。生は良きもの、明るいもの。この世を厭いとう気持ちはみじんもない。死ねばご先祖さまの霊と一体になって、子孫には神のー柱ひとはしらとして祀られる。
しかし、ヴェーダ時代も後期のウパニシャッドの頃になると、この世は翳かげりを帯び、生の価値も引き下げられてしまう。
カルマの法則が発見され、永劫にくり返される生と死のドラマ——輪廻の思想が現れたからだ。
最初は、インド人の価値観は、神から与えられた自然に感謝し、命を讃美し、清明に生き、汚れなく、暗さも無い、「死ねばご先祖さまの霊と一体になって、子孫には神のー柱ひとはしらとして祀られる。」は、太古神道と同じような考え方に思う
しかし、残念ながら、「カルマ」の概念が入り込んで、価値観は暗くなり、まるで汚れたかのような心理状態、100%自分を信じ、100%潜在能力を出せる状態を手放したかのように
「完璧な存在の神、今は未熟でもやがて進化して神になる、ご先祖様はあの世で応援している、自然の恵み、生きていることだけで有難い」と日常生活を生きることの価値、感謝を見失ってしまったように思う
現在の日本もそうだが、「カルマ」という概念は精神のマイナス要因にしかならない気がする
だから、「ヨーガ・スートラ」を読むときは、「カルマ」の概念は「そういう概念は今の時代の流行っぽいね」ぐらいに軽く考えて読んでいる、未来になって「昔はこんな暗いこと考えられていたんだ」となるかもしれない
(だが、この著書は、極度の集中を必要とするケースでは、経験から見て、実践的に役立つ要素は非常に大きく感じる、その意味では瞑想の実践の名著に思う)
「最強精神は常に清明であること、清明であり続けることが正しい生き方」と信じる、その裏付けは、誰がこのような自然を維持し、恵みを与え続けて下さっているのか、霊界より、御先祖様を中継して霊的にご支援下さっているのか、その御存在は神様に他ならない、このおチカラ無くして人は一時も生きることは出来ない
【カタカムナ一文字思念】
「チ」 持続(して)
「カ」 潜象存在(カム)のチカラ
「ラ」 現れる
この絶え間なく流れ来る無限の慈愛を知れば、心にある闇は一切吹き飛び、言葉も出ないほど感謝だけで胸がいっぱいになる、これ以上何が必要なのだろう
このようなつたない存在の人間である私たちに、神様は更なる恩恵を与えようと一生懸命におはたらき下さっている
神様と心を一つにされた、私たちのご先祖様である諸々の神社を守護されている霊界の高級霊人の方々、その方々とご縁をいただき、今まで幾度となく助けて頂いた
そのご支援は、現在進行形でも行われている、それは、私のためではない、私を含めた民のためである
幾多に及ぶ師匠との交信、それに起因する出来事から、実際に体験したこととして、この揺るぎない真実を、未熟な私はようやく悟ることができた
だから、どんな時代にあっても「清明に生きる」ことは、その大きな慈愛に答える唯一の方法なのだと私は信じている
p31 3行
ヨーガは、心の活動の停止。
「停止」ではなく、「静止」と考える、心身統一合氣道 籐平光一氏の「停止ではなく、静止が最も強い状態」としている、山蔭基央氏は、「コマの回転が高回転になれば、真っ直ぐに成り、あたかも停止しているように見える」という内容がある、つまり柳川昌弘氏の心身に「居着き」のない、直観力の研ぎ澄まされた即反応できる心身の最強状態ではないだろうか
p34 2行
[心の活動の停止した]そのとき、見者(プルシャ)は本来の状態に安住。
見者(プルシャ)=霊魂
霊魂が鎮まった状態=鎮魂状態 この時、カタカムナでいうところのアワ脳全開状態、直観フル稼働
p38 3行
さもなくば、[プルシャは心の]活動と同じに[なる]。
雑念、心身不統一
p48 17行
分別知は、中身のない、言葉と概念に依存[する知]。
分別知は道具、大工のノコやカンナと同じ、使えば便利だが、道具にアイデアは無い、あるのは大工の心の中
p49 5行
分別知は、現実に存在しない、言葉と概念に依存する知
ノコやカンナに「家の建て方」を問うても、答えるはずは無い、道具は道具
心の無い言葉、実感のない言葉、レッテルだけ貼って物事の核心がわかったと思ってはいけない、閃きの背後に、必ず直観あり、大工=人の持つ直観のはたらきがなくては本当の「知」が起こらない
p53 21行
唯識では、自己をふくめたあらゆる現象を産み出すタネのごときものが、文字どおり 〝ビージャ〟とよばれる。阿闇梨は唯識でいう 〝ビージャ〟とほぼ同じものを、
——サンスカーラ(ローマ字発音表記省略)と称している。
p56 3行
それ(心の活動)は、実修と離欲によって停止。
瞑想することと、現象界のみの価値観しか持てない状態、物質第一主義的思考の停止
p57 10行
その[二方法の]うち、実修は不動境に[向かわんとする]努力。
平常心・不動心をつくるため
p58 18行
——表層意識であるマナスの静止。
現象世界に居ながら、潜象世界での自分の姿になること、生まれる前の状態と同じ
p60 3行
それは(実修)は、じつに、長い間、継続して、慎重に実行すること。
[そうすることで達することのできる]堅固な境地。
p62 13行
離欲は、見たり伝えられたものに対する執心を脱した[欲望の]征服者の意識。
ただし、中村天風氏のいう、世のため人のため、自己の進化のため、というような欲は良いもの、そういう必要な欲まで捨てるのはよろしくない、という考え
断捨離しすぎて、勢い余って布団や茶碗まで捨ててしまうような、捨てることが目的になって、必需品まで捨てるのはやり過ぎということ、何でも捨てる前にもう一度良く考えてみよう!? Σ( ̄Д ̄lll)
「カルマ」について山蔭基央氏の著書から
次回に続く