3匹の子豚との日々 =DIAS CON MIS TRES CERDITOS=

スペインSpainのサラマンカSalamancaのラ・アルベルカLa Albercaから不定期につづります。

10月25日って・・・

2010-10-26 05:07:55 | Hymne a l'amour
今日のニュースで、はやぶさの続報がありました!
うまやどさんのブログに詳しい記事があるので、リンクを紹介しますから、
どうぞうまやどさんのところででお読み下さい。。。
【はやぶさ800の岩石質微粒子 スプリング8で分析へ】



私がうまやどさんの記事に残したコメント・・・。
「はやぶさは、何度私達に感動をもたらすのでしょう!
昨年11月19日にはやぶさ帰還の可能性の第一報があってから、
ずっと追っかけをやっています。
6月13日に日本へ帰ってきてからも、それで終わりではなく、
カプセルの中身の解析や、カプセルの展示などで話題がつきないはやぶさ。。。
これからの世界への希望ですね!VIVA!はやぶさ!! 」

私のはやぶさ関係の記事もついでに。。。
【終わりと始まり】
【おかえり~!そして旅立ち】



今日は、ブログ記事の更新はお休みするつもりだったんですが、
さくらの花びらさんの、この記事を見付けて気が変ったんです。
こちらもリンクを紹介しますので、さくらの花びらさんの記事をお読み下さい。
【日本人にとって10月25日とは】
【関行男とその母・・・】

私達は、戦後一体何を学んできたんでしょう・・・。
私達の今があるのは、このように国のため愛する人のために命をかけた人が
いたからこそ・・・。

前にもちらっと書きましたが、私の家族には、戦争で亡くなった人がいな
かったため、家の中で戦争について話すことは殆どありませんでした。
学校でも授業では全然触れもしませんでした。

戦争については映画やドラマなどで見るくらいで、私自身が殆ど関心を
寄せてこなかったので、偉そうなことは言えないのですが、数年前から
NHKのドキュメンタリーなどで、体験を語るのを聞く度に、戦争を
二度と起こしてはいけない、私の子供たちが戦争に巻き込まれるような
未来を作りたくない、そう強く思うようになりました。



今年は、twitterで、~INORIプロジェクトを見付けて以来、同じ
ように感じて行動されている方々との交流が続いています。

55年前の今日、10月25日に、【INORIプロジェクト】のきっかけとなった
佐々木禎子さんが、12才で亡くなりました。

【INORIプロジェクト公式HP】
【INORIプロジェクト公式twitter】

戦争や平和について書いた記事。。。
【見えない歩み】
【INORI~祈り~】
【謝るということ】
【許すということ】
【負けるが勝ち】
他にもあると思うのですが・・・

沖縄の米軍基地問題もそうですが、争うことを前提に国家作りをするのに
疑問を感じています。
地球に住んでいる仲間として、みんなで協力し合って和気藹々で暮して
いけるような世の中が実現する日が早く来ないかと、待ち望んでいます。
最近のtwitterもそういうのが多いかも。。。



気になる記事のリンクをいくつか・・・。
◆つむじ風さんの、
【「10・24検察・検審を糾弾するデモ」の模様!!】

◆武山祐三さんの、
【ケムトレイルの真の目的は地球温暖化であり、地球簿明化である】

◆池田香代子さんの、
【「イラク戦争の検証を求めるネットワーク」メールニュース2010年10月25日号】

◆さくらの花びらさんの、
【領土を守るということ】~昭和天皇と尖閣諸島と沖縄と台湾とソテツのこと~

◆マンナ☆さんの、【観音 (10/25)】【二重丸 (10/25)】

◆水玉さんの、【犬と猫にゃん (10/25)】
【闇をみる 黒を見る 陰を見る 根っこを見る (10/25)】


写真は今朝の夜明け。。。
上から順番に、8:31、8:33、8:37、8:47。

ついでに、今日の夕焼けの東の空も。。。
朝焼けの色に似ていました。(19:24)




25/10/2010
青空は広がっているけれど、曇が多い。
風が結構強くて寒い。
ママ友の話では今週は寒くなるらしい・・・。

旧暦9月18日

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6 コメント

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求め続けるモノゴト (つぶやきジョージ)
2010-10-26 12:50:24
関谷久平(晧元)のブログより

求め続けるモノゴト

どんな立派な内容の本を読んでも、ただ参考にしかならなかった。

心の浄化に励み尽くして極限に辿り着いても、時間の経過と共に緩んでしまった。

霊言は所詮不確かなもの。まあ参考程度にしかなるハズもなく笑って聴く程度のもの。

霊能力なんて有っても無くても、魂の向上には何ら意味もなく、霊的な開発など無意味。

オーラの大きさ云々、光の明るさ云々など、例えようで何とでも言えること。

誰の過去世が誰であっても、まあ結構なこと、大いに笑える楽しいオハナシ。

死後にどんな世界に自分が行くのか、勝手に想像し学習しても無駄。行く所へ行くだけ。

運勢判断で災難を避けようと、人生でやりたい事をやらぬ愚か者が大多数。

宇宙人が地球人を助けに来ようが、乗っ取りに来ようが知ったことじゃない。

〇〇〇〇年に地球次元が勝手に上がって、ユートピア世界の到来とおめでたく。

地底に王国が有ろうが無かろうが、それは趣味範囲の勉強時間。

では!この人生で、一体何事にエナジーを注ぎ続けることがベストなのか?

それはまず自分の幸福であり、その探究エナジーの注ぎ先は自分の心の奥底に他ならない。

そこには全ての答えがある。自分がどのように造られて、今どのように生かされているのかが。

求め続ければ、無尽蔵に湧き出してくる泉の鉱脈に掘り当たる。人生賭けて探してきたモノはこれであった。

宗教的な実践で暮らすことは必要だが、それは二の次。まずは自分が存分な歓びに満たされること。

自分がウキウキ楽しく気持ちよく生きている事が、ほかの全てを包み込んで自発的な善に行動させてくれるからだ。

http://blog.goo.ne.jp/kyuhei_sekiya/
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今日という日 (mari t)
2010-10-26 19:07:36
両親とも戦前生まれで父の長兄は満州に行ったこともあり 戦争の話しはいやというほど聞かされて育ちました。
でも子供の頃は聞かされていなかったのが 伯父の一人が予科練に行き 特攻隊に志願していたこと。
幸いにも彼に順番が回ってくることなく終戦を迎えましたが その頃の回想録を自費出版しただけで 伯父自身の口から多くを語ることはありません。
今日という日を伯父はどんな気持ちで迎えているのだろうかと 思いを馳せました。
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Unknown (つぶやきジョージ)
2010-10-26 20:52:17
ぶしつけなコメント、無礼承知ながら転載させていただいたことをここにお詫びします。
情報拡散のつもりです。

英霊達に、本当に感謝しなければならない。
語り継がなければならない。素晴らしい記事ありがとうございます。また時々こちらでつぶやかせてください。
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mari tさんへ (ひろみ)
2010-10-27 02:23:19
そうですか、特攻隊にいらっしゃった方が親戚に・・・。そして、お父さんのお兄さんが満州へ行かれてたんですか・・・。
私の母も、一家で満州にいたそうです。母は日本生まれですが、母の下の妹は満州生まれとか・・・。小学校に入る前の事で、母からは詳しい話を聞いたことがないのですが、中国残留孤児の話を聞く度に、もしかしたら、母もあの方々の中の一人だったかもしれないし、そうしたら、父と出会うことなく私の存在もなかったのかな・・・と思ったことがあります。そのような哀しい出来事が起こらずに今が在ることに感謝しています。

年を重ねた方々が重い口を開き始めたのであれば、じっくりお聞きして厳粛に受け止めたいなぁ、と思っています。次の世代に伝えないといけないですからね。。。
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つぶやきジョージさんへ (ひろみ)
2010-10-27 02:31:27
特攻隊の方々の話は、あまりに辛いので、実は私も今まで避けていたような気がします。。。
でも目を背けていたらいけないのだということも解っているので、少しずつ折りある毎に知ったりしたことを書いていきたいと思います。そうやって皆の心の中でまた思い出して差し上げることが、お亡くなりになった方々の魂を慰め、ご供養になるのでは・・・と思っているんです。私達の子供の世代にも伝えて行かなければいけませんからね。。。

それと、皆で共有した方が良い情報でしたら、多少記事とは関係無いない内容であってもいいですよ。リンク紹介とか転載とかもどうぞ。あまりにも関係無さ過ぎるようなら、注意致しますので。。。(笑)

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10月25日の追加 (ひろみ)
2010-10-29 06:41:19
先程、池田香代子さんのブログの記事を見たら、10月25日は故石井紘基議員の命日だったそうです。
http://blog.livedoor.jp/ikedakayoko/archives/51493069.html

資料として、wikiから一部引用しておきます。
「1960年に中央大学法学部に入学、安保闘争に参加。国会に突入するデモ隊の先頭にいた石井は一人の政治家を見た。すべての国会議員が逃げ出す中、騒乱の最前線に出向き、警官を抑え学生を守ろうとする日本社会党書記長江田三郎であった。石井は「このとき初めて国民の立場に立った政治家を見た」と言う。

江田の後を追い、社会党の活動に参加。中央大学自治会委員長になる等、学生運動のリーダーとなった。早稲田大学大学院を経て、1965年にモスクワ大学大学院に留学、1970年、ナターシャとの結婚、大学院を修了すると1971年に帰国し、江田三郎の息子の江田五月の秘書となる。1978年に菅直人らと社会民主連合を結成し、事務局長となる。衆議院議員選挙での同党公認が決定していたが、1992年秋に突如日本新党へ移籍。

1993年、第40回衆議院議員総選挙で日本新党から旧東京3区にて立候補し、初当選。以後通算当選3回。1994年、羽田内閣において総務政務次官に就任。自社さ連立政権時代に国民会計検査院を創設し代表を務める。日本新党で初当選しながら細川護熙と袂を分かち、新進党結党には参加せず、自由連合や新党さきがけを経て1996年、民主党の結党に参加。

石井がアピールしていたのは以下の通りであるため利権を持つ議員や官僚、企業から忌み嫌われ怖れられていた。

* 天下り会社(石井紘基の調査で約3000社もあることがわかった)を整理し、国が支出した資本や増えすぎた資産を回収し、国民に還元する。
* 石井紘基が代表を務める「国民会計検査院-国会議員の会」は、かつて、天下り会社の整理と会計検査機能強化のための法案を発表した。
* 国と地方自治体の系列企業(天下り会社)が占めている膨大な仕事を民間の中小企業に吸収させる。

2002年10月25日に、世田谷区の自宅駐車場で刺殺された。石井の死に伴う補欠選挙で、選挙区の地盤は同党の小宮山洋子に引き継がれた。」

*暗殺によって、石井議員が作成した膨大な天下り関係の資料が闇に埋もれてしまったという噂がありますが・・・。
早く明るみにして欲しいものですね。。。
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