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支流からの眺め

大津事件(1) 事件のあらまし

 最近大津を訪ねる機会があった。烏露戦争が混迷状態の今、大津事件の現場に立つ約1.2mの石碑の前で妄想をめぐらした。

 事件の概要は以下の如し。1891年(明治24年)5月11日の午後、日本訪問中の露帝国皇太子、ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフが、大津市内を人力車で移動中に警備担当の警察官にサーベルで切りつけられた。右側頭部に9cmの切創を負ったが、幸い命に別状はなかった。日本側は、天皇が緊急行幸されるなど、誠意を尽くして謝罪した。犯人に政治的背景はなく、死刑と処すべきとする政府の圧力もあったが、判決は法に則り無期懲役とされた。露国からも賠償金や領土等の要求もなく終結した。

 当時の日本は近代化の過程にあった。明治18年には内閣制が導入され、22年に大日本帝国憲法の発布(三権分立を謳う)があり、23年に初の帝国議会が開催された(議員は普通選挙で選出)。対外的には、不平等条約改正が難航しつつも進んでいた。22年には東海道線が全線開通した(事件の際の迅速な対応を可能とした)。世界情勢では、列強の帝国主義的な領土争いが続き、露国は世界最大の帝国として恐れられ、その東方進出に日本は怯えていた。

 22歳の皇太子ニコライは、帝王学の一環として世界巡行の旅に出て、エジプト、インド、上海など経由し、最後に日本を訪れた。日本は国賓待遇で国を挙げて歓待した。長崎と鹿児島では大歓迎を受け、神戸港から陸路で京都に入り、当日は大津観光の帰路で現場を通ったのである。出迎える日本の艦船は2千トンに及ばず、対する皇太子は8千トン級の巡洋艦を含む6隻の艦隊であった。皇太子に万一のことがあり報復として砲弾が撃ち込まれても、軍事的に対抗できない状態であった。

 この状況で露帝国の皇太子が襲撃されたのである。日本中が文字通り震え上がっただろう。天皇はすぐさま京都に向かい、阻喪なきよう万全に手配された。国民は遊興を自粛、学校は休校、神社や寺院では皇太子平癒を祈祷し、見舞い電報は1万通を超え、自決する女性まで現れた。皇太子の対応は自制的・紳士的であった。但し、訪日の日程はそこで終え(予定の東京訪問は中止)、シベリア鉄道の極東地区起工式典に出席のため神戸からウラジオストクへ向かった。

 事件後は犯人の処分が課題となった。当時の刑法では、皇族への殺人未遂であれば大逆罪として死刑であるが、外国の皇族に対しては一般人と同じ法が適用され無期懲役であった。しかし政府は、皇族への類推適用や戒厳令の発令による死刑を司法側に迫った。露公使も強硬な態度であった。それでも、結局は司法側(大審院院長:児島惟謙)の判断が通った。幸い露国も日本の迅速な処置や謝罪を評価し、強引な要求は出してこなかった。ただし、外務大臣(青木周蔵)と内務大臣(西郷従道)は引責辞任した。

 犯人の処分決定は、日本での三権分立(司法の独立性、法治主義)を実証するものとして国際的に評価された。これが、明治27年の日英通商航海条約(不平等条約の一部改定)につながり、「禍を転じて福となす」の例ともされる。それでも、この顛末は露国側の寛容と自制(他の列強を意識したであろうが)に負うところが大きい。しかし、皇太子が負傷したことには変わりない。日本側の引け目と皇太子の体と心の傷が、その後の歴史に大きく影響したのではないかと思える。(続く)

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