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支流からの眺め

共産主義(4):日本での共産主義

 日本国における共産主義はどうか。明治時代の富国強兵政策の裏側では、労働者の搾取(劣悪な環境、長時間労働、小児就労等)や貧困問題が生じていた。しかし、明治政府は福祉政策に後ろ向きであった(窮民救助法案の否決等)。この状況を問題視する知識人や大学人の間には、社会主義が広がりつつあった。そのような時代背景の下でロシア革命(1917年、大正6年)が起こり、日本の思想界は衝撃を受けた。コミンテルも欧州での共産革命は失敗が続いたので、日本と中国を次なる目標とした。

 ロシア革命の5年後(1922年、大正11年)、コミンテルンと中国共産党(1921年結成)の指導と資金援助により日本共産党が結成された(今や日本最古の政党である)。日本共産党の党員はモスクワで共産主義の教育と軍事訓練を受け、武装蜂起による天皇制の転覆、対中戦争の終結、労働者と農民による国家権力の掌握等のテーゼ(綱領)のもとに活動した。しかし、治安維持法による弾圧により多くは転向した(但し、偽装転向者が体制側に入りこみ活動を継続したとも言われる)。

 片や社会不安は増大した。関東大震災(1923年、大正12年)、昭和恐慌(1930年、昭和5年)、恐慌後の経済政策の誤り(デフレ政策)による不況等が、貧富の差や農村の貧困をより深刻なものとした。労働争議も多発し、社会主義的な主張が説得力をもって国民の間に浸透していた。5.15事件(1932年、昭和7年)は軍部のクーデターであるが、その檄文にも社会主義の影響が強く見られる。また、反乱青年将校の「苦しむ農民を救う」という志に国民が同調し、百万もの減刑嘆願書が出されたという。

 台頭する社会主義への反動として、昭和10年頃からは国体明徴運動が興った。天皇主権論を強弁して天皇の権威を神格化し、天皇への不敬を厳しく追及した(天皇機関説への批判等)。2.26事件(昭和11年)が陛下のご聖断で鎮圧されたことも、天皇の神聖性を更に高めた。右翼全体主義が支配的となり、議会制は否定され、狂信的な神国信仰に異を唱えることができなくなった。共産主義運動は共産革命には失敗したが、ファシズム的な軍事政権を日本に招来したとも言えよう。

 遂には政権中枢部にスパイ(工作員)が入り込んだ。ゾルゲ事件である。リヒャルト・ゾルゲはナチス党員を装い、尾崎秀美は側近中の側近として近衛文麿に取り込み、協力して日本を対中戦の泥沼に引き摺りこむ(中国共産党の利益)と同時に、英米との開戦(対ソ戦の回避)に向けて工作を進めた。企画院事件(中央官僚の左翼化)、大政翼賛会の設立(政党政治の否定)にも、彼らの思想的工作の影響がある。その最終目標は、日本を敗北させて共産政権を打ち立てること(敗戦革命)だったのだ。

 共産主義は、貧困問題を抱えていた日本の土壌に浸み込んだ。共産革命は叶わなかったが、その主張や用語は知識人や軍人を含む多くの国民の思考様式に刷り込まれた。その過激な言動は、反動として天皇絶対主義や神国信仰を生み、異論を許さない右翼全体主義(ファシズム)を形成した。更には、中枢部への工作活動により、敵が中ソから英米にすり替えられてしまった。米国での工作も合わせれば、共産主義は日本と米国、そして世界中の国々の運命を翻弄したのである。(続く)

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