40年前ですか。1972年(昭和47年)。生まれていない人も多いでしょうね。
小生は高校生の「観念肥大病」時期、新左翼運動に鼻の先っちょだけ突っ込んでいた時で、これとその後の凄惨な内ゲバ連発を見て「転向」しましたw。ま、怖かったです。
あの事件を始めとする左翼運動を思想的に総括する(これも左翼用語ですねw)試みはいろいろとあるようですが、なかなか難しいですね。小生もその後ぼんやりとながらいろいろと考えてきてはいて、いくつかの解答は見つけられたような気がしますが、正直、まだすっきりという感じではないです。
で、もう少し上の世代で、当時活動の渦中にいて今はどちらかというと「右」と見られる立場になった人が書いた記事を読みました。オウム真理教問題まで視野に入れているので、なかなか興味深いものでした。
連合赤軍≒革マル≒オウム≒左右のカルト:依存症の独り言
少し引用します。
《決定的な原因は、「極めて日本的なマルクス主義」です。
日本のマルクス主義(共産主義)は「主体論」が根本にあります。
これは西田哲学を源流としています。
西田哲学の神髄は「絶対矛盾的自己同一」です。
「我はすなわち天なり。天すなわち我なり。」を実感すると人は悟りの境地に至る、これが「絶対矛盾的自己同一」ですが、マルクスの師であるヘーゲルの弁証法も、西田哲学と真逆のようで実は同じなのです。
すなわち社会や歴史も、絶対精神(理性)の自己実現―という点で両者は共通するのです。
だから戦前、西田哲学の徒だった梯明秀や梅本克己などが戦後、マルクス主義者になりながら、そこに「主体論」を持ち込めたわけです。
この「主体論」をさらに純化させたのが革マル派の教組・黒田寛一(通称「黒寛」)です。
黒寛理論(哲学)では、「プロレタリア的人間としての主体の形成」が求められ、「プロレタリア的人間への自己変革をなし遂げた者によって構成される強固な“前衛党”」が革命闘争を指導するとされています。
つまり、革命理論を学び、思想を固め、ブルジョア的なものを排除し、自己を共産主義者として確立する―これがプロレタリア的人間への過程ですが、これではまるで求道者です。
宗教の信者が、その信仰のレベルを高め、より神(もしくは教組)の教えに近づこうとする、これとそっくりです。
そこにおいては、「プロレタリア的人間への自己変革をなし遂げた者」という“選民”が誕生します。
逆に言うと、「プロレタリア的人間への自己変革をなし遂げていない者」がマルクス主義を標榜し、革命家を名乗ることは異端であり、反革命となるわけです。
そこでは異端者は抹殺の対象になります。
(中略)
欧米先進国の極左(過激派)で、日本のような陰惨な殺人が横行した例はありません。
つまり、日本の内ゲバ殺人には、マルクス主義(共産主義)が持つ本質的な問題=独善と排他性以外の原因があるのです。
それは、求道者的思考回路に陥りやすい日本人特有の体質にあると私は思っています。
そういう点では、オウム真理教事件も似たところがあります。
彼らは「ポアする」=「魂を救済する」として脱会者や脱会しそうな信者を殺しました。
連合赤軍の「総括」も、革命戦士としての自覚を促すために実行された「援助」であり、その結果の死は「敗北死」と呼ばれました。
革マル派は、リンチによる自己批判を迫るのが常でしたが、彼らによれば、自己批判は「プロレタリア的人間への自己変革」を開始するための第一歩でした。
道を究めるという日本人の長所が、イデオロギーや宗教の世界に持ち込まれると狂気に化ける、そんな気がしてなりません。
(中略)
思想の左右を問わず、あるべき人間像を固定化し、それ以外の人間を排除、抹殺するという硬直した思考回路に陥らないように心したいものです。》
西田哲学が出てきたのは意外だったですが、小生はあまり勉強していないのでちょっとわかりません。ただ、「求道者的思考回路」という指摘は、正鵠だと思います(それが日本独特であるかどうかはともかく)。
ポイントは、「超越的な正義(真理)」に極度に自己同一化した人間は、自らを「選民」、他者を「劣悪な存在」と見なすということにあるのでしょう。この構図はどこにでもあります(キリスト教の異端抹殺などもそうです)。
問題はそこに留まりません。以前のエントリ「群れる幸福?」でも触れましたが、ノイマンの言葉に「人間の個人意識は集合的意識へと同一化していくと、それにつれて無意識性が高まる」というものがあります。ちょっと曲解になるかもしれませんが、個人の意識が集合的意識とか理想とか宗教的真理とかに同一化していくと、個人の意識は融解していく。そうすると、残虐や復讐や破壊といった無意識的要素が大手を振って跋扈するようになる。政治であろうが、宗教であろうが、正義の運動であろうが、それは避けられない。
しかも、善意の人、観念や知識の好きな人ほど、その罠にはまる。なぜなら、そういう人は自己の中にある「善でないもの=怠惰、悪意、劣等感情、攻撃性など」に目を向けず、その分自意識が狭く脆弱になりやすいからです。
宗教であれ、理想実現運動であれ、自分が「超越的な真理・正義・善」とつながっているという感覚を持つことはありますし、むしろそれは必須でしょう。ただ、「私はそれを体現している」「私はそれと同一である」となる時、恐ろしい闇への道が拡がります。
政治や社会運動というものは、とてつもなく大きな難題が拡がっている領域で、ここでは何も言えません。
ただ、「超越的な真理・正義・善」を掲げることに関しては、非常に慎重になる必要があると思います。
宗教はしばしば無邪気にそれを掲げて社会を変えようとしたりしますが、それは危険なことだと思います。
われわれは「相対的な個人であること」を忘れてはいけないのではないかと思います。私の得た真理は絶対ではないと思うこと、私は人を「変える」権利を持っていないこと、そして私は個人である孤独に耐えなければならないこと、そうした感覚を失うべきではないと思っています。
なんか要を得ない文章ですが。
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