スピリチュアリズム・ブログ

東京スピリチュアリズム・ラボラトリー会員によるブログ

【「私」という超難題】(20) アイデンティティ:私は誰か

2012-09-05 00:29:49 | 高森光季>「私」という超難題
 「アイデンティティ」という概念があります。 「自己同一性」と訳されます。 いろいろな見方はありますが、一般的には「私が私であるという感覚、あるいはそれを保証するもの」というような使われ方をすることが多いようです。 もう少し厳密に考えると、自己同一性という概念の中には、いろいろな相があります。 ①同一性を保った自己の実在 ②「自己同一性」の感覚・認知 ③自己規定(帰属、分類、イメージなど) ①の「 . . . 本文を読む

【「私」という超難題】(19) 個人性と個性

2012-09-04 00:14:34 | 高森光季>「私」という超難題
 シルバー・バーチ大師の言葉に、こんな驚くべき内容のものがあります。 《進化すればするほど個性的存在が強くなり、一方個人的存在は薄れていきます。おわかりですか。個人的存在というのは地上的生活において他の存在と区別するための、特殊な表現形式を言うのであり、個性的存在というのは霊魂に具わっている神的属性の表現形式を言うのです。進化するにつれて利己性が薄れ、一方、個性はますます発揮されていくわけです。》 . . . 本文を読む

【「私」という超難題】(18) 責任と罪

2012-09-03 00:12:36 | 高森光季>「私」という超難題
 「私はない」とすると、責任の主体がなくなります。倫理が崩壊します。 現代の支配的思想である唯物論では、私とは、「脳が発生させる湯気のようなもの」「様々な物質システムから構成される複合体」ということになります。 そこには、「責任」ということは、本質的には存在しない。社会を円滑に運営していく(種の保存)という功利的な意味で、違法行為に対して責任は設定しますが、それ以上のものではない。 そして実際、社 . . . 本文を読む

【「私」という超難題】(17) 思想や想念は私ではない

2012-09-02 00:13:47 | 高森光季>「私」という超難題
 どうも難解な話が続いて申し訳ないですが。 前回、「超越へ向けて自己を投企する」ということを書きました。典型が「殉教」です。 霊的に見れば、死ぬこと自体は別に問題ないわけです。死後も私は存続するのですから。こんなことを言うとあきれられるかもしれませんが。 で、ここで気になるのが、「思いにとらわれてしまう」ということです。この(9)で書いた「想念憑依」とも関係します。 マイヤーズ通信に、以下のような . . . 本文を読む

【「私」という超難題】番外編 私中心に戻る?

2012-09-01 15:12:20 | 高森光季>「私」という超難題
このシリーズの「(14) 現実認識・自己認識と無力感」で、こんなことを書きました。 《現実というのはとてつもなく巨大で、われわれの知ではとても把握・理解できるものではない。 自己客観化を突き詰めていくと、自分というものが、とてつもなく小さな存在で能力も可能性も限定されていることを知る。そこでしばしば出現するのが、「無力感」です。 だって、私などというものは数十億の人間の「1」に過ぎないし . . . 本文を読む

【「私」という超難題】(16) 自己と自己を超えるもの

2012-08-30 00:58:48 | 高森光季>「私」という超難題
 「無力感・ニヒリズム」とか「世界への意志・使命感」といったことを書きましたが、現実的にはこういうことは、やや特殊というか、あまり関係のない人も多いのかもしれませんね。 自分のことで手一杯、自分の欲求を満たすことで手一杯の人にとっては、そんなことは関係のないこと、いやむしろそんなのは暇人の戯言、となるのかもしれません。 (そう言えば、この頃ニヒリズムという言葉をあまり聞かなくなったような気がします . . . 本文を読む

【「私」という超難題】(15) 世界への意志

2012-08-28 00:40:11 | 高森光季>「私」という超難題
 梶井基次郎の草稿か日記に、こんな話がありました。数十年前のうろ覚えなので、細部はあやしいですが。(ちなみに私は青春時代、梶井が大好きで、全集を隅から隅まで読みました。『冬の日』は「最も美しい日本語の文学作品」の一つだと思っています。) 《友人と夜道を歩いていたら、急に男の人がやってきて、両手で大事そうに包み込んでいるものを見せようとする。見ると、手の中で蛍が一匹、美しい光を放っている。 「あっち . . . 本文を読む

【「私」という超難題】(14) 現実認識・自己認識と無力感

2012-08-22 02:21:39 | 高森光季>「私」という超難題
 現実認識や自己客観化が魂の成長にとって必要という話を書きましたが、これをあまりに突き進んでいくと、どうも窮状に陥ることがあるように思います。 現実というのはとてつもなく巨大で、われわれの知ではとても把握・理解できるものではない。 自己客観化を突き詰めていくと、自分というものが、とてつもなく小さな存在で能力も可能性も限定されていることを知る。 そこでしばしば出現するのが、「無力感」です。 だって、 . . . 本文を読む

【「私」という超難題】(13) 現実認識と自己客観化

2012-08-21 00:20:30 | 高森光季>「私」という超難題
 前のエントリで、現実認識や自己客観化を経ていない「幼児的ナルシシズム」について書きました。 「私はすごい」「私が不愉快なのは誰かが悪い」「私が言うことは誰もが聞くべきだ」というような心性です。 で、だいたい、成長の過程でこういう自己愛はぶっ潰される。「おめえなんか大したもんじゃねえ」「何たわけたこと言ってるんだ?」「てめえの問題はてめえで解決しろや」「現実なんてそんな甘いもんじゃねえぜ」とボロク . . . 本文を読む

【「私」という超難題】(12) 幼児的自己愛

2012-08-19 17:40:07 | 高森光季>「私」という超難題
 ちょっと雑談めきますが。 少し前の雑報で、日本人が現在、猛烈な勢いでブログなどの発信をしているということを書きましたが、これ、どういうことでしょうかね。 一時、ツイッターが流行り始めた頃、猫も杓子も「昼飯なう(nowの意)」とか「バイトおわた」とか呟いて、2ちゃんねらーが「ばかかこいつら」とあきれていたのを思い出します。ま、目くそ鼻くそかもしれませんけれども(笑い)、別に超有名人でもない人々が自 . . . 本文を読む

【「私」という超難題】(11) 「コギト」とモーリス・ブランショ

2012-08-18 00:10:24 | 高森光季>「私」という超難題
 何というタイトルでしょう!(笑い) 周知のように、フランスの哲学者デカルト(1596-1650)は、「どうやっても疑えないもの」として、「そういうことをあれこれ考えている私」を主張しました。 「cogito ergo sum(コギト・エルゴ・スム)=我思う、ゆえに我あり」 ところが、これを「思考している私が存在する」「思考しているものこそが私だ」と捉えると、あやしくなる。 真剣に何かを考え続けた . . . 本文を読む

【「私」という超難題】(10) 私を豊かにする

2012-08-17 01:50:52 | 高森光季>「私」という超難題
 私を豊かにしたい――こんな思いを持ったことのある人がどのくらいいるのか、よくわかりません。 「強くなりたい」「有名になりたい」「たくさん所有したい」と思う人は多いでしょうけれども。 豊かってどういうことだよ? と言う人もいるかもしれません。それおいしいの? 一般には趣味が多彩だとか、知識が豊富だとかいう人が、豊かと見なされる人なのかもしれません。 でも、豊かさというのは、魂という見地からすると、 . . . 本文を読む

【「私」という超難題】(9) 想念憑依

2012-08-16 00:18:32 | 高森光季>「私」という超難題
 「私」というと「individual =分割不可能」とか「monad =単子」というようなイメージがあって、独立・完結した一個の実体のように考えられることがありますけれども、実際はそうではない。(ちなみに、そもそもこの宇宙には他からまったく独立・完結した閉鎖系は存在し得ないでしょう。) 「私」を構成している様々な要素も、いろいろと出たり入ったりしている。いや、それどころの話ではない。時には外から . . . 本文を読む

【「私」という超難題】(8) 私の中の小さな私

2012-08-15 00:30:59 | 高森光季>「私」という超難題
 私の中に、いくつもの「小さな私」がいる。こんなふうに感じている人は多いのではないでしょうか。 卑近な例で言えば、酒を飲むと、ハンドルを持つと、人格が替わるとか(笑い)、仕事をしている時と家で家族と過ごしている時と、心の持ちようが違う(当たり前ですかね)とか。 あるアメリカの心理学タイプ分析では、平常時(メイン)とストレス時(バックアップ)の人格をそれぞれ別に意識化するというやり方があります。私も . . . 本文を読む

【「私」という超難題】(7) 「私」を絡め取り損なうもの

2012-08-14 00:12:49 | 高森光季>「私」という超難題
 「自由意志を持ち、主体性や創造性を発揮し、倫理や責任を担い、成長していく」というのが「私」だと書きました。 ただし、これは「私」の形容(特質の叙述)であって、「私」そのものを定義したものではありません。それはいまだに定義不能なものです。 この「私」の働きを阻害するたくさんのものがあります。笠原理論で言えば「内心の謀略」ということになるかもしれません。まあそれはちょっと置いておいて。 「欲望」とい . . . 本文を読む