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進化論批判

2011-05-27 00:07:22 | 高森光季>その他
 コメントで進化論の話が出ましたが、ずいぶん前にちょっとまとめたメモのようなものがあったので、載せてみます。
 主な文献はフランシス・ヒッチング『キリンの首』(平凡社、1983年)など(あと2冊ほどあったはずだが出て来ない)です。
 とはいえ、私は科学に詳しいわけではないので、これらを再検証したり、さらに突っ込んだ探究をしたりすることはできませんし、そういった人間があれこれ言ってもどうなるわけでもないので、途中で放り出しました(笑い)。その後の論争の推移も追いかけていません。
 まああくまでご参考まで、という感じです。詳しい方のご指摘があれば嬉しいです。

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 現代の唯物論の支配にきわめて大きな力を与えたものの一つに、ダーウィンの進化論がある。ダーウィニズムは、人間と生命の「起源」について、唯物論としての回答を雄弁に述べたものだった。「人間は猿から生まれた、そしてそうやって遡っていけば、すべての生物は偶然に生まれたバクテリアのようなものから生まれてきたものだ」――それはいまだに唯物論の基本的テーゼになっている。
 進化論がキリスト教に与えたダメージは、甚大であった。人間は神の創造ではなく猿から生まれたという考えは、聖書を完全に否定するものなので当然だろう。つい最近まで、カトリックは進化論を認めなかったし、近年、アメリカのキリスト教原理主義者たちが、学校の教科書から進化論を削除するように運動を起こしたことも知られている。(ちなみに、明治政府は開国・文明開化政策を進めるにあたって、キリスト教の浸透をいかにして食い止めるかに腐心したあげく、進化論を高らかに主張する西洋人の学者――モースやフェノロサ――を招き、講演会をさせたという。)
 ダーウィンの進化説とは、「偶然生じる小規模の変化が蓄積され、自然陶汰によって生存に有利な種が生き延び、現在見られる生物ができてきた」というものである。そして、生物は、単細胞生物→多細胞無脊椎動物→脊椎のある魚類→両生類→爬虫類→鳥類と哺乳類というように進化し、その延長で人間も生まれてきた、と説く。
 しかし、ダーウィン進化説は、穴だらけの仮説であった。既成宗教の側からのイデオロギー的反論は別にしても、少なからぬ科学者が、この支配的理論に異議を唱え、その理論的欠陥を指摘した。
 そうしたこともあって、現在の進化説は、その後の研究の成果によってダーウィンの説を修正し、突然変異(遺伝子の変化)と集団の変化に対する数学的理論を取り入れた「ネオ・ダーウィニズム(総合説)」に変わっている。

 ●進化の中間的形態(たとえば魚類が両生類となる場合や爬虫類が哺乳類に移行する途中の形態)が見つかっていない。化石の記録は、進化が漸進的というよりは跳躍的に起こることを示している。――種は突然、完璧な姿で登場する。3メートルの身長のキリンが存在したという形跡はない。
 ●ダーウィンがガラパゴスで観察した変種は通常の亜種の変異に過ぎず、新種の登場にはつながらない。同様に、イギリスで観察されたオオシモフリエダシャクの例(環境汚染により暗色の個体が増えた)でも、暗色が存在していなかった証拠はなく、それが新しい種であるわけでもない。また、汚染の緩和により、元に戻った。平家ガニの甲羅の模様(人間の顔に見えるため、捕獲されずに生き延び、増加した)も、特定個体形質の増加に過ぎず、種の新生を意味しない。これらは、亜種の変異や、特定個体形質の増加に過ぎず、種の新生は一度も実態を確認されたことはない。
 ●ダーウィニズムが金看板のように提示している馬の系統発生図は、様々な種を恣意的に並べたものに過ぎず、一定の方向(大きさや一本爪への)の傾向も推論に過ぎず、また移行段階も存在しない。
 ●眼、哺乳類の耳などは、「完璧な器官」であり、それが形成される移行的な段階は確認されていない。移行期にそれらはまったく役に立たず、生存に不利でしかない。漸進的な形成説では説明不可能なものはきわめて多量に存在する(哺乳類である鯨はどうやって骨盤を捨て去ったか、など)。
 ●先カンブリア紀には多細胞生物の化石がほとんど見つかっていないのに、カンブリア紀には爆発的な生命種の展開が見られる。これは生物進化が漸進的に起こるという考えを否定するものである。
 ●地球環境の変化が緩慢であったとするダーウィン学派の説(斉一説)は、誤りであることが明らかになっている。そもそも化石が形成されるのには、ある程度の天変地異のようなものが必要である。石炭層が漸次的に形成されるというのは、理論的に不可能であるし、立ったまま石炭化した樹木も発見されている。
 ●適者生存という概念は、生存したものが適者であるという同語反復にすぎず、勝者が繁栄するというのは幻想である。高い所にしか葉っぱがないという状況はまず存在せず、首の長いキリンは短いキリンより有利ではない。首の短いままだったキリンは長いキリンが発生したために生存が不利になったわけではなく、逆に争う相手が少なくなって有利になったであろう。肉食獣のほとんどは、他の個体が捕ったものや病体や死体を食べることの方が多く、必ずしも足の速いチーターが遅いものよりも子孫をたくさん残すということはない。サルのボスは見張りに時間と精力を費やしてしまうために、実際に雌と交尾するのは弱い個体の方が多い。人間の「よい形質」は、数千年を経過しても増加していない。子供を多く遺すのが「適者」であるなら、人間はもっと教養がなく、野蛮で、好色で、ルール無視の、動物的な生物になっているであろう。
 ●変異がまったくの偶然であるのなら、眼が下半身についていたり、四肢が六肢である爬虫類・哺乳類がいないことはなぜか。
 ●獲得形質が遺伝するというラマルクの説は否定されているが、ラクダの膝の皮膚(足を折るので地面に接する)の硬化は、母胎の中ですでに起こっている。
 ●地質学や古生物学が主張している地球・地層の年代測定は仮説と憶見に過ぎず、矛盾をたくさんはらんでいる(たとえば、炭素の放射性崩壊が現在観測されるものであったとしたら、地球には現在の数万倍のヘリウムが存在していなければならない)。地球の年齢は46億年という数字は、ダーウィニズムが主張する偶然の漸次的蓄積には必要とされるものだが、この年齢数字は証明されているわけでもないし、反証がたくさんある。別の年代測定法では、地球の年齢は数万年という説もある。
 ●仮に46億年説が正しいとしても、同様の計測で38億年前に地球表面に水が現われ、35~38億年前に細菌が発生している。偶然による生命の発生確率は、現在優勢なもののうち最も短い説でも10億年に1回と計算されており、このタイムスパンでは生命の発生は不可能である。

 遺伝子の変異に重点を置くネオ・ダーウィニズムについても、いろいろな反論がある。

 ●X線などにより生じる突然変異体は、ほぼすべてが生存に不利である。自然陶汰は、むしろ生物が変化するのを阻止し、安定化をはかる機構である。
 ●遺伝的恒常性。ショウジョウバエの剛毛の少ない個体同士、多い個体同士の交配を繰り返したところ、30世代後に下限の25本、20世代後に上限の56本に達した。ところがその後ショウジョウバエは急に死に始めた。そこで選択的な交配をやめ、自然に戻したところ、5年もたたないうちに剛毛の数は平均に戻ってしまった。X線の照射によって目のない個体が生まれた。それ同士を交配すると目のない個体が生まれた。同じことを繰り返していくと、数世代後に、目のある個体が生まれた。
 ●酸素はアミノ酸を分解してしまうので、その誕生時の大気は酸素がなかったと考えざるをえないが、大気に酸素がないと、宇宙線によってアミノ酸は破壊されてしまう。
 ●アミノ酸は、現在の科学によっても合成ができないものがあるほど、複雑な物質である。現在のすべての生物に共通しているアミノ酸20種のうち5種は、考えられるあらゆる条件下での人工合成にいまだに抵抗している。さらに蛋白質は、人工合成すらできていない。300個のアミノ酸からなる中程度の大きさのタンパク質が偶然発生する確率は、10の600乗に1回でしかない。
 ●NASAの研究では、もっとも単純な自己複製をする生物は、最低400個のアミノ酸からなる124個のタンパク質を含むだろうという。これが偶然に発生する可能性は、ゼロに等しい。
 ●ある工学者は、再生能力を持つもっとも単純なタンパク質の分子を構成するのに必要な情報量は1500ビット、自分と同じものを複製できる「機械」が要求する情報量も同じ1500ビットであり、そのような機械が偶然に誕生する確率は10の450乗に1回であるとしている。
 ●蛋白質の合成にはDNAが必要であるが、DNAの形成にも蛋白質が必要である。どちらか一方がなければ、もう一方も起こりえない。偶然によって両方が同時に誕生する確率は、ほとんど不可能と変わらない数字である。
 ●DNA絶対説は宗教にすぎない。DNAがどうやって指令をだすか、どうやってそれがより高度な種を生み出すかについては、まったくわかっていない。DNAの情報の起源もわかっていない。
 ●同じ一揃いのDNAを持っている細胞が、自分の将来の任務をどうやって決定していくのかは説明できていない。皮膚細胞も、脳細胞も、同じDNAを持っているがまったく違う形成をする。さらには造血幹細胞のように、生体の状態にあわせて赤血球や白血球やマクロファージに変身していく機序をDNAに求めることは不可能に思われる。
 ●中立で潜在的な突然変異がDNAの中に組み込まれているという説は、仮説に過ぎず、証拠は何もない。
 ●分子レベルで、突然変異が無作為に蓄積していくという過程では、生物の組織化された複雑さの進化を説明することはできない。――情報機構の偶然の変異によって生物のあり方を説明することは不可能である。
 ●完璧な擬態、コノハムシやナナフシがあの形態を偶然に獲得する可能性は、きわめて低い。

 つまるところ、物質の“偶然”の積み重なりによって、人間の存在を説明することは、かなり疑問視されている。MIT工学教授M・エデンは次のように言っている。
 「ヒトが出現する可能性は、次のような手順でタイプを打って、意味の通じる千巻の本を完成させる確率と同じである。まず、意味のある文章を多少の間違いは許しながらタイプし直し、それに適当に文字を加えて長い文章にする。そして、できあがった新しい文章の意味が通じるかどうかを検討する。この一連の操作を千巻の本が完成するまで繰り返すのである。」

 唯物論の側でも、ネオ・ダーウィニズムの理論的不備を認め、かつては異端としていた説を取り込むなど、延命を図っている。たとえば、漸次進化説の代わりに、ゴールドシュミットの「有望な怪物」説といった突然進化説を受け入れようとしたり、当初は罵倒していたラマルクの獲得形質遺伝説をも考慮に入れる、などという修正がそれである。
 また、「エネルギーが外から注ぎ込む開放系では、ゆらぎなどの不安定性を解消させるために、より複雑でエネルギーの高い新たな状態が創り出され、それはもとの秩序とはまったく違った秩序を持つことになる」というプリゴジンの「散逸構造論」も注目されている。
 ルパート・シェルドレイクは「自然界のある場ではある種の形態が優先されるような法則があるのではないか」とする「形態形成場 morphic field」の理論を唱えたが、これは唯物論から批判されているようである。
 さらに近年はウィルスがDNA変異を起こさせるという説が有力になってきているが、これは「突然変異」を「ウィルスの仕業」に言い換えただけのようなもので、基本的な説明原理が確立されたわけではない。

 生命の発生や進化の謎は説明できない部分が多い。一部には、生命問題に関しては物質的なものではないところに解決を求めざるをえない、と認めている科学者もいないわけではない。ハンス・ドリーシュは、「非物質的な精神に似た何かが生物体の発達を管理している」と述べ、「この原理は通常の時間と空間の枠外に存在するらしい」とまで言っている。(Hans Adolf Eduard Driesch 1867-1941 はドイツの生物学者、自然哲学者。ダーウィン主義者のヘッケルに動物学を学ぶが、後に批判的になり、新生気論=ネオヴァイタリズムを主張したことで知られる。1880年代に最初の動物クローニングを行う。ウィキペディアより。)
 いずれにせよ、ダーウィニズムは、無謬の権威ではなくなったことは確かであろう。かつてダーウィンがその学説を発表した時に、後にダーウィン教の司祭となることになるある科学者は「なんでこんなことをもっと早く思いつかなかったのだろう」と言ったという逸話があるが、そのうち、「なぜこのような説がいまだに唯一の正統説として学校で教えられているのだろう」と憤激する科学者も出るかもしれない。進化の問題、そして広く生命現象の問題は、やがて唯物論を根底から揺り動かす突破口となるのではないだろうか。

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 唯物論は何でも「偶然」で片付けたがりますけれども、生物の発生や進化を「偶然」とするのは、
 「大鍋に適当にそこらにある何かをぶちこんで、超長時間煮てれば絶品のシチューができる」
 というようなもの(それよりもっとひどいかw)だと思うのですけれどもね(笑い)。

 もっとも、「反ダーウィニズム」がキリスト教原理主義(旧約の創造説)だという、今のトホホな状況もあります。こんな不毛な二者対立はやめてほしい。

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