8月15日は毎年繰り返される死者への祈りの日です。同じことを繰り返すのも、一つの人間の文化であり、知恵であるのかもしれません。ここでも「繰り返し」をすることにしましょう。去年の記事の再掲です。
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お盆でもあり、敗戦記念日でもあり、死者を想う夏です。
少し突っ込んだ、場合によっては反発されるかもしれないことを書きます。
* * *
通常、死んだ魂は、次第に地上時代の細かい記憶を失っていきます。地上への未練も薄らいでいきます。
悲惨な死に方をしたとか、死ぬ時に表層的な意識で何かを願っていたとか、そういうことは、実は多くの場合、あまり後まで残りません。残るのは、その人の人格を作っている中核の部分、魂の深層にある思いや感情だけです。(無理に思い出そうとすれば思い出せますが。)
だから、悲惨な死に方をした人に、残された人がいつまでも悲しみを向けるのは間違いです。
というより、強すぎる死者への思いは、霊をこの世につなぎ止めることになるので、むしろよくないことです。
「帰ってきてほしい」「もう一度会いたい」もやめましょう。残された人が苦しむのは、向こうへ行った魂も苦しめます。
悲しみや未練を送るくらいなら、むしろ忘れる方がはるかにいいことです。忘れたとしても、霊的なつながりは消えません。
死者に祈る時は、「苦しかったでしょう」「つらかったでしょう」「あなたの苦しみ・悲しみを私も共にします」と祈るのではなく、ただ暖かい愛の気持ちを送るのがよいのです。それは暖かい波動となって伝わります。
* * *
確かに、一部の魂は、死んだ後も未練・執着を持つことがあります。でも、それは本道ではなく、迷い道です。時には地上の人間に何かを必死に訴えようとすることもありますが、それも迷い道です。
それを本道に戻してくれる、高級な霊がいます。場合によっては時間がかかったりしますが、きちんと見守ってくれているので、地上の人間があまり心配する必要はありません。ただし、思いを聞いたり、愛を送ることで、気づきを手助けすることはできます。また、高級な霊に向けて、死者を見守ってくれるよう祈ることも、有効です。これが本来の浄霊です。
(なお、悲惨な事件があった場所に、強い残留思念が残り――思念は実は物質に近いものです――、霊的資質を持っている人が近づくとそれが活性化し、未浄化霊の出現のように見えることがあります。それは霊ではありません。)
(たまに、「類魂の仲間」――親子、恋人、友人など――が、向こうへ行った後も心配して介入してくれることがあります。それはありがたく受けて、こちらがしっかりし、心配をしないようにしてあげることです。)
* * *
死が無駄だったというような考えは、よくありません。無駄な死も無駄な生もありません。人間の魂が獲得した「成長」は失われることがありません。わずか数時間しか生きなかった人生も、そこで獲得された何かがあり、意味があるのです。人の人生や死を評価する権利は誰にもありません。
誰かに殺されたのだからその誰かを恨むといった考えもよくありません。たとえ誰かに殺されたとしても(直接的であれ間接的であれ)、それをどう受け取り、許していくかは、死者の問題です。死者の思いを推測し、それを代行する権利は誰にもありません。
* * *
死者を政治利用することはよくありません。死者に「国を守ってください」とか「敵を懲らしめてください」とか願ったり、一定の思想を擁護してもらおうとか打倒してもらおうと願ったりするのは間違いです。
一般の死者霊にそんな力はありませんし、そういうことをする義務もありません。そんなことを願って死者を縛る権利は誰にもありません。社会や地域を守護する仕事は、もっと高級な霊が務めるものです。
多数の悲惨で不自然な死があったから、それをこれからはなくそうと努力することは、とても重要なことですが、そこで死者の恨みや悲しみをおおげさに言い立てることはよいことではありません。
戦争の悲惨を忘れないようにすることは大切です。戦争の悲惨さを何度も心に刷り込むことは必要です。しかし、戦没者への過度な、勝手な思い入れは、生きている人間の傲慢です。「死者の恨みつらみ」をプロパガンダに使うことは許されません。事故の死者についても同じです。
死者への祈りは、愛の気持ちを送ること、それが難しければ、感謝の気持ち――その人たちの生の営みがあったおかげで今のよいことがあるという感謝――を送ることです。
もう一言言えば、死者は安らかに眠っているわけではありません。向こうで活発に活動し、あるいはまたこの世に生まれ変わって、われわれと同じ霊的成長の歩みを続けています。
つまり、死者への祈りは、次のようなものが望ましいでしょう。
「ありがとうございました」
「神様(高級霊のこと。仏様でも同じ)のお導きがありますように」
「どうかすこやかに。私もしっかり生きます」
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上記の記事のような知識は、バーチの霊信などから得られたものなのでしょうか?死後生への確信にすら未だに辿り着けないのに、死者にとって何が良くて何がいけないのかなんて言い切る信念はどう掴めばいいのか分かりません。
霊信を読んで、それが琴線に触れた人はいいのかもしれませんが、納得できるかや真実と信じられるかは人それぞれですよね。
以前「直接意図しない限り人は人の死に責任を持てないから後悔してはいけない」ともありましたが、他人に過失致死などの責任を問うのもいけないのでしょうか?霊の実在と、高級霊の語る真理というものを前提にして「許されない、間違っている」ということを多くの人に納得させられるとは思えないし、それが真実なら何故一部の人しか霊的世界の知識や確信が得られないような状況が罷り通っているのかとも思います。
反発してるともとれるような長文失礼しましたが、私は数年前からある問題に異常に拘り出してから世の中に対する見方が変わってしまい、どんな言葉にも心からの慰めを得られなくなっています。心霊研究を知った今も、死後生は無いよりはあった方がいいが、死後も問題が解決するわけでもなし、悩み続けることになるのではないかとも思っています。
だから実証的なものは別として、現世の苦しみが過ぎ去るものだとか、霊的世界では全てが納得できるというスピリチュアリズムの考え自体が私には受け入れられず、そこから教訓や信念を得る自信も無いのかもしれません。
小生に秀逸な霊能力があって、多くの人を納得させるようなことを示せればいいのでしょうけれども、残念ながら無理なようです(笑い)。
一応ご質問へのお答えを。
>上記の記事のような知識は、バーチの霊信などから得られたものなのでしょうか?
そうです。
>他人に過失致死などの責任を問うのもいけないのでしょうか?
悪意や重大な懈怠がなければ、つまりまったくの無意図からの場合は、責められるべきではないのではないでしょうか。ただし何らかの意味がある場合もあるので、当人が苦しむのは致し方ないかもしれません。本当にケースバイケースでしょう。(現実社会の法律の問題はまた別の話です。)いずれにせよ「蒔いた種は自らが刈り取る」というのが真実だと思います。
>霊の実在と、高級霊の語る真理というものを前提にして「許されない、間違っている」ということを多くの人に納得させられるとは思えない
それはその通りです。そうかなと思ってもらえるならそれでいいですし、そんなことはないと思われるなら却下してもらっていいと思ってます。
「拘り」というのはどういうことかわかりませんので何も言えませんが、ひょっとして心理的な問題であるなら、心理的な解決を探ることがいい場合もあるかもしれません。余計なお世話かもしれませんが。
>どんな言葉にも心からの慰めを得られなくなっています。
まあ、あまり決めつけないでw。
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