スピリチュアリズム・ブログ

東京スピリチュアリズム・ラボラトリー会員によるブログ

死は終わりではありません

2011-03-26 16:32:36 | 高森光季>その他

 東北関東大震災から二週間と一日が経ちました。
 まだ被災者の方々の苦しみは終わらず、私たちの心も揺れ続けています。
 誰かに届くというあてもないのですが、私が心から発したいと思う言葉を、
 ここに書き留めておきます。

      *      *      *

 死は終わりではありません。
 死によって私たちはなくなってしまうのではありません。

 これは昔の人は知っていたことです。
 お釈迦様を含めて、古代インドの人たちは、「魂は生まれ変わる」ということを知っていました。
 (もっとも、人間がアリに生まれ変わるとか、ひっきりなしに生まれ変わるといった間違った考え方もしていましたが。)
 古代エジプトの人たちは、人間は死ぬと死者の国へ行くということを知っていました。
 イエス様は、「私たちは皆、天使のようなものになる」「神の国にはたくさんの住み処がある」と言いました。
 明治以前の日本人は、死者はあの世でもう一度子供から生き直し、60年過ぎると「祖霊=神さまに近い存在」になって生きている人を助けてくれると思っていました。
 考え方や表現はまちまちですけれども、「人の魂は死を超えて残り続ける」ことを、皆知っていたのです。

 けれども、この二千年ほどをかけて、人類はそれとは別の考え方・生き方をするように仕向けられました。
 それは、死後も生き続ける魂のことを忘れて、この世とそこに生きる「私(自我)」のことに集中する、という考え方・生き方です。
 この250年ほどで、こうした考え方・生き方は、大きく発展しました。「物」を研究する科学は、この世の様々な物質や現象の仕組みを明らかにしました。「私」は「個人」として、ほかのものと一切混じり合わず、独力で知や力を発揮するものとなりました。
 ところが、人類はこの世の物だけを見るばかりになってしまいました。目に見えるもの、計器で計れるもの、仕組みがわかっていつでも起こせる現象だけが、真実だと思うようになったのです。
 こうした考え方(唯物論)が広まると、人は「死んだらおしまい」と思うようになりました。「肉体が、脳がなくなれば、私たちは消えてなくなる」と。そして、「昔の人は愚かだったから、死の後も生き続ける魂があるなどという考えを持っていたのだ」と。
 私たちが生きている日本の社会も、こういう考え方・生き方が優勢な社会です。

 けれども、そうした世の中の片隅で、「死は終わりではない」ということを示す出来事は起こっていました。それを支持する人もいました。
 そして、19世紀の後半、科学が猛烈な勢いで発達する一方で、「死は終わりではない」ということを示す出来事が、アメリカ・イギリス、そしてヨーロッパで、猛烈な勢いで起こりました。
 それは、死んだ人の魂が「霊媒」を通して語りかけてきたり、様々な奇跡的現象を起こしたりするというものでした。しかも「大流行」となって、世界のあちこちで起こったのです。
 「そんなものはデタラメだ」「きちがい沙汰だ」と捉える人もいましたが、真剣にそのことを研究してみようとする人々もいました。しかも、知性と教養をそなえた学者たちが多くいました。そしてそのかなりの割合が、「死は終わりではない」と確信するようになったのです。
 (この大流行のことを「スピリチュアリズム」、学者の研究のことを「心霊研究」と呼んでいます。ほかにもこうした探究はあります。)
 この大流行は、20世紀に入ると、終息してしまいました。膨大な研究結果や「あの世に関する情報」が蓄積されたのですが、科学のめざましい発展と、それがもたらしてくれる便利さ・快適さに魅せられた人々は、そうしたものに目を向けようとはしなくなりました。
 第二次世界大戦後の世界は、いっそう科学と唯物論が強力になりましたが、その中でも「死は終わりなのかどうか」の研究は続きました。「臨死体験」「体外離脱体験」「前世療法」の研究は、正統な科学からは白眼視されましたが、信憑性のあるデータを示し、多くの人の興味を引きました。19世紀の心霊研究は「超心理学」と看板を掛け替えて細々とながら進められ、イアン・スティーヴンソンの「生まれ変わりの証拠の研究」を生み出しました。アメリカの「ニューエイジ運動」の中にも、「人間の魂は物質を超える」ことを探究している人たちがいます。
 面倒くさい記述になりましたが、私たちは、単に思いつきや信仰や主観的体験からではなく、こうした「真剣な探究」を踏まえて、「死は終わりではない」ということを確信し、それを訴えたいのです。

 知によってこの世界の物質的仕組みを解き明かし、それを利用し、この世に生きることだけに専念するという、この二千年ほどの人類の歩みは、全人類の進化の過程として、必要だったのかもしれません。
 けれども、それはあまりに偏り過ぎているのではないでしょうか。
 われわれはもっぱら物質に頼って生きていること、科学は物質的真理の探究と福祉の向上において素晴らしい役割を果たしたことは、否定のしようがありません。
 けれども、物質的生活は、人間の生の全体ではありません。科学は人間の体験の一部であり、物質的真理は部分的真理に過ぎません。
 良質な科学者なら誰もが思っていることですが、科学が解き明かしたことは一部に過ぎず、科学が示す世界観は絶対的なものではありません。
 もちろん、「死は終わりではない」という主張も、絶対を主張することは控えなければいけません。そうだと思わない人に無理やり受け入れさせることはできません。
 ただ、19世紀後半以来の、しっかりとした研究・探究を踏まえれば、その主張は一定の信憑性を持つことは確かです。
 そして何よりも、これまで生きてきた全人間がどちらかを選んで投票できるとすれば、「死は終わりではない」という主張は圧倒的多数を占めるはずです。それは「昔の人は無知で愚かだった」からでしょうか。

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 死は終わりではありません。
 肉体を離れた魂は、その魂にふさわしい「あの世」に行き、活動を続けます。
 残してきた人のことを心配したりもしますが、生きている人々にはそれなりの霊的な守護があること、それぞれの魂はきちんと生きていく力があることを知るようになれば、その心配は薄らいでいきます。場合によっては守護する役割に参加したりもします。
 天災や事故などで急に肉体を離れることになった魂は、傷を負うことがありますが、それを癒してくれる専門の「高級霊」がいます。
 心底悪に染まった魂でない限り、「引っ越し」に伴う混乱や一時的な苦悩はあるものの、魂はその魂にふさわしい「常夏の国」へ行きます。
 その喜びを充分味わい、直前の生を回顧・反省し、魂の進化の意味を学ぶと、魂は再び地上に生まれるか、あるいはもっと高度な霊界へ向かいます。

 だから、死を恐れ悲しむ必要はありません。
 地上を去ること、愛する人と別れることを悲しむのは、人間の情として自然なことですが、魂のレベルでは、死は恐れることでも悲しいことでもないのです。
 愛する人と死別しても、「あの世」で再会することができます。細かい説明はわかりにくいのでしませんが、どんなに時間が経っていようが、相手の魂が生まれ変わりしていようが、愛し合っている人たちは再会できます。その時、相手は、こちらが最も愛した姿――赤ちゃんであれ、麗しい美少女・美青年であれ――で現われます。地上で結ばれた愛は、そのままの姿を保ち、さらに洗練された情を伴って、再び結ばれます。

 だから、死を、死別を、あまりに深く悲しまないでください。

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 特に、「自分の落ち度から死なせてしまった」と自らを責めることのないようにしてください。
 はっきりした意図をもって殺すのでない限り、人の生死は人が左右できるものではありません。
 「あの世」に生き続けている魂は、責めたりはしません。
 むしろ自分を責めて苦しんでいることを悲しむでしょう。
 意図したものでない限り、人の死に人は責任を負いません。そんなことは人間のできることではないのです。
 人の死で、自らを責めることはどうかやめてください。

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 これは宗教ではありません。私たちは教団など持っていません。お金をもらったりすることもありません。
 ただの「ありのままの事実」を伝えているだけです。反発や嘲笑を受けることも仕方ありません。けれども、たくさんの出来事が、たくさんの調査・研究が、「魂は死を超えて生き続ける」ことを証言しているのです。それを認める人の数は確かに少数派ですが、だからといって誤っているわけではありません。
 もちろん、それを否定することも自由です。このことを受け入れなかったからといって、非難される理由はありません。あの世に行って罰が下るわけでもありません。

 この「ありのままの事実」を受け入れるだけで、大きな救いがあります。心は次第に静かになり、恐れも不安もなくなっていきます。取り返しのつかない過ちなどないのだとわかります。苦しみはなくならないにしても、苦しみの意味がわかり、耐えられるようになります。
 苦しい修行をする必要もありません。厳しい規則を守る必要もありません。楽しみをあきらめる必要もありません。誰かにお金を払う必要もありません。誰かを崇拝する必要もありません。
 ただ知り、受け入れるだけです。受け入れたからといって損をすることもありません。

 死は終わりではなく、魂は永遠に生き続けます。愛する人と死別しても、またいつか会うことができます。
 半信半疑でもいい。どうかこのことを心の隅に留めておいていただきたいのです。


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