おひとり様てるこの日記

てることいいます。50歳過ぎましたが気ままに生きてます。人生の危機感ゼロ。

iPhoneで焦った話(笑)

2020-04-04 01:36:00 | 日記
知り合いから手作りのマスクをいただきました。ありがたい!なんせ、マスクを買い損ねた人なんで。

しかも、あまりに可愛い布で作ってくれたから、写真を撮ってツイートしようかなと思いスマホで撮影して、カメラをスワイプ!

あれ?スワイプできないよ。

おばさんで指先カサカサだからかな?

何回もやってみるが、やはりスワイプできず画面はカメラのまま。

どーいうことー!?

そうだ!こういう時には、パソコンだってオフにしちゃえばいいんだから、きっとスマホも!!

というわけで、電源オフにするために、両側のボタンをギュッと押しました。画面は暗くなったのに真ん中であのグルグルがグルグル回ってますよ。

このグルグルが消えたらまたオンにすればいいんだよね。消えたらね。消えたらオフ…消えない?あれ?いつまでもグルグルしてるよー。

あーどうしよう!ちょっと!なんかスマホが熱くなってきたよー!

だれかー!

そうだ、ソフトバンクに聞いてみよう!ということで、電話してみました。

これこれこういうわけで、オフにしてみたら何かがグルグルしていて、再起動できませんと言いました。

ソフトバンク「アイフォンの再起動のやり方って、知ってますか?」
私「いいえ」
ソ「音量のボタンあるじゃないすかー」
私「はい」
ソ「それを上から順番に押してー、最後に電源ボタンを長押しで」
私「で、電源ボタン?」

この時、かなりテンパってまして、後から冷静になって考えたらよくわかったんですが、マジにテンパってたんでまったく分からず(笑)

私「で、電源ボタンって、オフする時に押すやつですよね。あの、右と左のボタンを押すんですか?」
ソ「は?」
私「えっと、電源ボタンてあのオフする時に(以下同文)」
ソ「はあ?」
私「(汗)」
ソ「今、やってみてください」

私、なんかやってみるが、テンパり過ぎてやっぱりうまくいきません。

私「 ダメです」
ソ「アップルさんのカスタマーセンターに電話してもらえますか?」

というわけで、番号を教えてもらってアップルのカスタマーセンターに電話してみました。 

そしたらそこでまた難関が!まず、番号で案内されるのですが、iPhoneのことについて聞きたい人は、IMEIナンバーを教えてくださいって。今、私のiPhone真っ暗なんで、調べられませーん!

というわけで、一番最後にどうやら何でもありの番号を押して待ちました。

出てきた女性に、今までの経緯を話し、画面が真っ暗なので、IMEIナンバーがわからない旨を話すと、箱はお持ちですか?と聞かれました。持ってます!いつもは捨ててたのに今回は捨てないで持ってました!

箱の裏にIMEIナンバーがあるじゃないですか!あれ?知ってるような気がする。あれ?

で、番号を読み上げると、何かを確認したお姉さん。メルアドも教えました。その後、お姉さんはすごく優しく再起動のやり方を教えてくれたのです。

「まず、向かって左側の音量ボタンをポン、ポンと上から順番に押します。ポン、ポンです」
「そうしたら向かって右側のボタンを長押しして、アップルのマークがでるまで押してください。やってみてください。」

何というホスピタリティ!それ!機械に弱いおばさんにはそれ!

ポン、ポンと押して、右側をギュー。あのグルグルが消えて、アップルがでてきましたよー。

「つきました!」
「よかったです。また何かありましたら、ご連絡をください」
「は、はい!ありがとうございました!」

アップルのカスタマーセンターの人優しい…それに比べてソフトバンクの口の聞き方がなんか許せない。いや、わからなかった私がいけないんですけどね。

というわけで、無事に直ったiPhoneを握りしめながら気付きました。アップルのお姉さんに言ったメルアドがテンパり過ぎて間違えてたー!!

ちなみに、手作りマスクの写真はこちらです。早速使わせていただきました。可愛いでしょ?


















リコンの時の子供の気持ち4

2020-03-02 10:53:00 | 日記
高校を卒業し、東京の専門学校に行き、そしてある会社に就職した。新入社員生活を送り始めた頃に一通の手紙が届いた。いかにも若い人が使いそうな可愛い花柄のレターセットだったのを覚えている。差出人は全く知らない人だった。しかし、普段鈍い私が、この時は何故か勘が働いた。

慌てて自分の部屋に行き、封を開けた。母の友人からだった。やっぱり。あなたのお母さんが連絡して欲しいと言っているので、以下の電話番号に連絡して欲しいと書いてあった。私はため息をついた。

実はAちゃん一家と連絡を取るのをやめてから、母は別の人たちに頼んで私たちに連絡をしようとしていた。しかも直接家に連絡をしてくるようになった。高校から帰って来ると、祖母が電話をしながら怒っていることがよくあった。素知らぬふりをしながら自分の部屋へ行き耳をすましていると、「○子さん(母の名)が何を言おうと子供たちには会わせないとお伝えください!」と言ってガチャン!と電話を切っていた。

また、ポストに父宛ての手紙が届いていて、こっそりと差出人を見ると、昔よく母のところに遊びに来ていた人だったりした。しかし、私はそれを見て見ぬふりをしていた。そして祖母と父もそういう話を私と弟にしなかった。私たちは母がどんなに頑張っても、母の存在を消そうとしていたのだ。

漸くそんなことがなくなって来た時だったのに。だが、何故か私はその電話番号に電話をしてみようと思った。何故だかわからない。話をしてみたかっただけなのかもしれない。

翌日、仕事の休憩時間に、近くの公衆電話からその番号にかけてみた(携帯電話なんか無い時代)。すぐに受話器の向こうから母の声が聞こえてきた。久しぶりに聞いた母の声は嬉しそうだった。母はとても親しげに話してきたけれど、私は固く冷たく返事をした。

その時どんなふうに会話をしたか、はっきりと覚えてはいないのだが、母が私に会いたいと言ったので、社会人になり忙しいし毎日疲れているというようなことを言ったと思う。そして「私から会いに行くから」と母が言ったので、私は咄嗟に「来なくていい」と言ってしまった。

次の瞬間、今まで嬉しそうに話していた母が嘘のように泣き声が混ざった怒り声になり、「なんでそんなことを言うんだ。もういいっ!」と電話を切ってしまった。

重い受話器を置きながら、来なくていいと言ってしまったことに、自分でびっくりしていた。そんなことを言うつもりはなかった。ただ、話をしたかっただけなのに。来なくていいというのは私の本心だったのかもしれない。

でもそれで母は諦めたわけではなかったらしい。私はその電話の後、パッタリと母からの連絡は来なくなったと勝手に思い込んでいた。

私が40代前半の頃、祖母が亡くなった。通夜、葬式が終わったある日、祖母の遺品を整理していた。祖母が大切にしていた物をまとめてしまっていた引き出しを開けると、そこに手紙が二通入っているのを見つけた。二通とも祖母宛てで、一通の差出人は母方のいとこ、前にこのブログで書いた母の一番上の姉の娘たちの長女からで、もう一通は以前家族ぐるみで付き合いがあり、一緒に家族旅行に行ったりした父の同僚の奥さんからだった。

読もうかどうか迷った。祖母宛ての手紙を果たして私が読んでいいものかどうか。しかし、これは家族の問題であり、私にも知る権利があると無理やり理由をつけて、手紙を開いた。

二通ともだいぶ前に出されていた。消印を見ると私が20代の頃。まだまだ祖母が元気だった時だ。もちろん母が私たちに会いたがっていることが書いてあり、そこには母の住所も書いてあった。さっさと捨ててしまえばいいのに、なぜ祖母はこの手紙を取っていたのだろう?高校時代に私が見た手紙とは差出人が違うから、これ以外にも何通か手紙が来ていたのではないだろうか?

母は私たちに会いたいために、いろいろな人を巻き込んでいた。母の友人たち、母方のいとこたち、そして父の同僚の奥さんまでも。本当にたくさんの人に迷惑をかけていた。

ある時、祖母が「お母さんは頭がおかしいのよ」って言ったことがあったのだけど、こうやっていろいろな人を巻き込んででも私たちに会おうとしていたからなんだ。(祖母ははっきりとものを言う人なのでそういうことを子供に平気で言った)

最近はもう、こういう手紙も電話も来なくなった。母は父とそう歳が変わらないので、さすがに気力も体力も無くなったのだろう。あるいはもしかしたら、もうこの世にいないのかなと思うこともある。

もうかなり前のことになるが、ある時、珍しく離婚をした時の話を父としたことがあった。後にも先にもこの一回だけだったが。私が「大人も大変だったけど、子供にもすごいストレスだった」と言った。すると父が「俺が一番大変だった」と答えた。

母が中学校まで来たことや、Aちゃんの家で母に会ったことを言ってやろうかと思ったけれどやめた。今さらそんな昔のことを話しても仕方がない。

大人が離婚にものすごく体力と気力を使うのは当たり前だ。金銭的にも大変なことがある人もいるだろう。

しかし、離婚によって大変なストレスを抱えているのは大人だけではない。何も知らないような顔をして、子供は本当はとてもよくわかっている。子供には選択肢はない。お父さんにつく、お母さんにつく、という選択肢があるじゃないかと言われる人もいるかもしれないが、それは無理矢理選択させられているだけだ。結局、子供は居場所を自分で選べない。選べないから、置かれた場所で気を遣って生きていくしかない。

私の場合、祖母が機嫌を損ねることが一番怖かった。父は私たちを庇わない。祖母が言うことが一番なのだ。その中でストーカーのように私に会いに来る母。それを秘密にしておかなければいけない私。本当にそれがストレスだった。

離婚しないのが一番いいけれど、それをどうしても回避できない時もある。DVが理由など命に関わる離婚は別として、互いに話し合いができるはずなのにしない。話し合わないから会う条件が一方的になり、子供が混乱する。子供に説明もなく一方的に向こうが悪いから嫌え、と言われた子供は悲しい。時間が経っても癒えない傷になる。

離婚しようと決めたら、二人の間にいる子供たちについてまず話し合って欲しい。これからどうするのか、会いたいのか、会わなくてもいいのか、会うとしたらどの程度会うのか。できたら子供にもうきちんと話をしてほしい。子供の意見も聞いて欲しい。

離婚で傷つくのは大人だけではないということをわかって欲しい。










リコンの時の子供の気持ち3

2020-03-02 00:42:00 | 日記
話は中学生の頃に戻る。

母が中学校に来てから、私は母を警戒して、暫く正式な校門を使わないで、校庭を横切ったところにある門を使った。部活の昼ごはんを買いに行く時は必ず友人と行った。でも母は中学校にはもう現れることはなかった。今度は違う方法で私と弟の前に現れたのだ。

ある日、祖母からAちゃんから電話があって新居に遊びに来ないかと言ってたよ、と言われた。Aちゃんは幼なじみで、同じ団地に住んでいた時は家族ぐるみで付き合いがあった。私たちより先にその団地を出て、建て売りの一軒家に引っ越していて、何度か遊びに来るよう誘われていた。しかし、両親の離婚のゴタゴタなどで、ずっと新居に遊びに行けないでいたのだ。

早速私はAちゃんに連絡をして、土日に泊まりに行くことを約束し、弟も一緒に行くことになった。家族ぐるみで付き合いがあったので、弟も誘われたことを少しも疑問に思わなかった。

Aちゃん一家は素敵な一軒家に住んでいた。ずっと団地暮らしで一軒家に憧れていた私は、ワクワクしていた。友達のママ達の中で、唯一戦後生まれで若くてオシャレだったAちゃんのお母さんはインテリアもきっと素敵に違いないと思っていた。そしてきっと素敵に飾られているリビングに通された途端、私はびっくりして立ち止まった。

趣味のいいインテリアの真ん中で母がソファに座っていたからだった。

この人は!!私たちにまた嘘をつかせるつもりなのか!母に会ってはいけないと言われているのをわかっているのになんでこんな卑怯な手を使って私たちに会おうとするのか。母に会ったことを知ったら、祖母の機嫌が悪くなる。父だって私たちに対する態度を変えるかもしれない。せっかく母がいない生活に慣れてきて、私と弟も母のことを口にしなくなって、平和になったのに。私たちはまた祖母と父に対して、母に会ったことを黙っているという嘘をつかなければいけなくなる。そうしないと祖母から嫌われる。もしこのことがバレて、私たちの意志で母とこっそり会っていると思われたらどうしてくれるんだ!!

大人だったらうまく言えたかもしれないが、まだ子供の私はしれっとソファに座っている母に怒りを爆発させるしかなかった。泣きながら「帰る!いやあんたが帰れ!弟に会うな!」と叫び始めた私に周囲の大人たちはびっくりして、私を宥め始めた。どうやら母がいたことにびっくりして泣き始めたと思ったらしい。

大人たちに宥められてなんとか泣き止んだが、その日はずっと母を無視していた。母は私のそんな態度に戸惑っていたが、嬉しそうに弟の面倒を見ていた。弟も普通に接していた。そんな母を見て、私はAちゃんの家に来たことを後悔していた。弟を連れて早く帰りたかった。

その夜は母と同じ部屋で川の字で寝るように言われたが、Aちゃんとおしゃべりをするんだ、と言い訳をしてAちゃんの部屋に寝た。

翌日はみんなで遊園地に行った。私は前の日と打って変わって、母と話を積極的にした。でも、私の中でもう決めていた。

二度と母とは会わない。

やっと訪れた平和な時間を乱す母には二度と会わない。

今思えば、母だけが悪いから離婚したわけではないことはよくわかる。父も祖母も大人として話し合いをするべきだった。特に父は気難しい祖母の言いなりだったし、母を庇うということがほとんど無かった。突然、気が合わない二人が一緒に暮らすなんて不可能だし、私たちを世話する人が必要と思うならば、学童保育があったし、いろいろ考えなきゃいけなかったと思うんだけど。

しかし、そんなことは大人になったからわかることで、子供の私にはそこまで考えは及ばないどころか想像もできない。関係ない。とにかく、自分たちが母と会っていることがバレたら、祖母の機嫌がまた悪くなり、最悪怒って家を出てしまうかもしれないし、そうしたら父も私たちに怒るかもしれないし、家の空気は悪くなるだろうし。

帰り道、家の最寄駅まで送ると言う母を拒否して、電車に弟と二人で乗った。母は私たちを抱きしめるとかそんな肌の触れ合いとかも一切なく、私たちを見送った。電車の中で弟に、家に帰ったら母に会ったことは絶対に言うなと釘を刺した。小学生低学年の弟はたぶんわからないなりに私の気持ちを察したのか、父と祖母が待つ家に帰っても、母のことはひとことも言わなかった。

Aちゃん一家はそれから何回か一緒に遊びに行こうとか、家に泊まりに来いとか誘って来たが、何かと理由をつけて断り続けた。私が高校に入学した時は、どこの高校に入ったのか教えて欲しい、という感じの手紙をAちゃんが書いて送ってきたが、返事は書かなかった。

そこからAちゃん一家からの連絡は無くなっていき、私もいつの間にかAちゃん一家のことは忘れていったのだった。



リコンの時の子供の気持ち2

2020-02-21 23:17:00 | 日記
母は関西生まれ関西育ち。三人姉妹の末っ子に生まれた。と、思っていたら、どうやら四人姉妹だったということがだいぶ後でわかった。子供の頃に両親を相次いで亡くし、姉たちが親代わりだったようだ。中学を卒業して、看護師の学校に入り、やがて勤め先の病院で父と出会った。

まず、母が生まれ育った県は知っているが、詳しい地名を全く知らない。いつ母の両親が亡くなったかも知らない。その私の祖父母にあたる人たちがどんな仕事をしてどんな人たちだったかも知らない。戦争中にどんな生活をしていたかも知らない。そして、ずっと三人姉妹だと思っていた。それも、ただ二人の伯母に会ったからそう思っていただけ。そういえば、母方の祖父母の墓参りにも行ったことがない。どこにお墓があるかも知らない。

父がどこで生まれて、戦争中の疎開先、戦後に住んだ場所を知っている。父方の祖父は戦前に亡くなっていて、名前も知っている。毎年墓参りにもいく。曽祖父、曽祖母の名前も人柄も、どうして亡くなったかも知っている。父の姉、つまり伯母にもしょっちゅう連絡をしている。

母については結構知らないことが多いのだ。小学生の私には難しいと思って言わなかったのか。

母の一番上の姉、つまり伯母には一年に何回も会っていたが、そういう昔の話は一度も聞いたことがない…たぶん。二番めの姉は関西に住んでいたので滅多に会わなかった。

伯母は夫と、そして私たちよりもだいぶ年上のいとこたちと都内に住んでいた。母には実家のようなものだったから、母はその家ではのびのびと振る舞っていた。私たちを放っておいて、伯母と楽しそうにおしゃべりをしていた。私は何故か雨戸を閉め切った暗い洋間に入り込み、昔いとこたちが読んでいた漫画を読みふけっていた。小さな弟はいとこたちにマスコットのように可愛がられていた。

伯母は私たちを孫のように可愛がってくれて、母には作れない豪華な料理を作ってくれたり、欲しいおもちゃを買ってくれたりした。夜は母がいとこたちとおしゃべりをしているので、伯母が私たちを寝かしつけた。すごく居心地のいい家だった。初めてコカコーラを飲んだのもその家だった。

両親が離婚した時、あの家に行けなくなり、伯母にも会えなくなることだけが、すごく残念だった。

今から10年ほど前に、久しぶりにその家から連絡があった。伯母がもう長いことはなく、私たちに会いたがっているから、会いに来て欲しいということだった。父と二人悩んだが、後悔するよりは、と行くことにした。但し、母とは会いたくないとはっきりと言った。

伯父は私たちがその家に行かなくなった直後に亡くなっていた。伯母は全身に癌が広がり、病院に行った時は手遅れだったそうだ。居心地のよかった伯母の家は、いとこ三姉妹の三女夫婦が伯母を看るために一緒に住んでいた。

久しぶりに降りた最寄駅は高架になり、家の前の雨が降ると水たまりがたくさんできた道は舗装されていた。空き地だった場所に建て売りらしい家が建ち、鬱蒼としていた雑木林は潰されて住宅街になっていた。でも、伯母の家は少しも変わっていなかった。

いや正確に言えばたぶん、夜中に行くのが嫌だった汲み取り式のトイレは水洗になっていただろうし、母と親子三人で入った小さな石がタイルの様に敷き詰められた風呂も、もっと便利になっていたかもしれない。トイレは借りなかったし、風呂に入る必要は無かったから見なかったけれど。

私が漫画を読みふけっていた閉め切られていた洋間は、いとこの娘さんの部屋になっているようで、父と私が居間に落ち着いた時にその部屋から、若い娘さんが出てきた。アルバイトに行くというので、私たちにペコリと頭を下げて玄関に歩いて行った。

あの子は私の両親が離婚しなければ、今頃は知らない仲ではなく、ちゃんと赤ちゃんから見守って親戚付き合いをしていただろうなあと見送りながら思った。

伯母は朝から調子が悪く、薬を飲んでいるためにボーッとしていて、話があまり出来なかった。でも、私の顔を見てニコニコとしていた。ここで初めていとこの長女が、実は母にもう一人姉がいたことを言った。彼女も最近知ったらしかった。やはり母の過去は秘密が多いなと感じた。

帰りにもう二度と敷居を跨ぐことはない家を振り返って見た。私もこの家に普通に毎年来ていたかったなと、ふと思った。母のことはもう嫌いでも好きでもないけれど、居心地の良かったこの家を母の実家として、毎年思い出を作って行きたかったなと思った。いとこの娘さんと仲良くしたかったな。離婚が無ければ、こんな寂しく切ない経験はしないで済んだのに、と子供時代以来久しぶりに思った。  

伯母は私たちに会った一ヶ月ほど後に亡くなった。伯母の美味しいお稲荷さんをもう一度食べたかったな。




リコンの時のこどもの気持ち1

2020-02-20 21:16:00 | 日記
時々ふと「母は今元気なんだろうか?」と
思うことがある。私が小学生の時に両親が離婚して約40年。会わなくなって何十年になるだろう?最後に母の声だけを聞いたのが、20代前半くらいだったかな?

離婚の原因はたぶん嫁姑問題だと思う。母はだいぶ気を遣っていたけれど、気難しい祖母とは合わなかったのは、小学生の目から見てもよくわかった。

今の家を買いローンを払うために、両親は共働きをすることにした。母は結婚する前は看護師をしていた。結婚してからはずっと専業主婦だったけれど、また看護師に戻ることになった。私たちが子供の頃はまだまだ今より平和だったのだから、私と弟なんて学童保育に放り込んでくれればよかったのに、父は一人暮らしをしていた祖母をわざわざ呼び寄せた。母と気が合わないのはわかっていたのに。

たぶん、母は祖母と一緒に暮らすのはものすごく嫌だったんだと思う。新しい家に引っ越す直前は夫婦喧嘩が多かった。

で、結局引っ越してから半年後に離婚することになった。原因は祖母だけではない。母にも原因はあった。母は再び看護師として働き始めた時に、何故かアマチュア劇団に入ってしまった。久しぶりに働き始めて何かが弾けてしまったのか、子供心にも意味がわからなかった。そして、なんとある夜、引っ越したばかりの新居に劇団の人たちを10人ほど連れて来て、台詞の練習を始めてしまったのだ。祖母はこれに激怒し、それが離婚の一因になった。

それと、もう一つ。母は勤めていた病院の患者さんに祖母の悪口を言ってしまった。軽い気持ちだったのだろう。うちの義母も大変なんですよーくらいの。しかしそのせいで、ある事件が起こった。詳しくは言えないけれど、それでまたもや祖母が激怒してしまった。

ある日小学校から帰って来たら、まだ日が高いというのに母に風呂に入ろうと言われた。その頃はもう私は一人で入っていたのに。母と二人、久しぶりにいろいろと話しながら入った記憶がある。その時に母が急に「お父さんとお母さんはしばらく離れて暮らすことにした」という話をし始めた。

小学生の私にはピンとこなかった。ただ離れて暮らすだけなのだ。いつかまた母は帰って来るに違いないと私は思った。ほとぼりが冷めたらきっと母は帰ってくる。しかし、次の日に母は小さな段ボール箱を数個、大事にしていた文机一つを運び出すと、それっきり家の敷居を跨ぐことはなかった。

それから何度か母に会った。友達なのか彼氏なのか男性と一緒のこともあった。母と会うと今までは絶対に買ってもらえなかったおもちゃや漫画を買ってくれたので、私と弟は母と会うのが楽しみだったのだが、ある日突然祖母にもう母と会ってはいけない、と言われた。

それは、弟が「おじさんと一緒だった」と言ってしまってからだった。そのせいかどうかははっきりとは分からないが、「お母さんは浮気していたのよ!」と強い口調で祖母に言われた。子供にそんなこと言うかなあ(笑)

母と会えなくなるのはショックだったが、正直ホッとしていた部分もあった。なぜならば、母と会って帰ってくると、祖母の機嫌がものすごく悪くて、なんとなく後ろめたい気がしていたのだ。そこから家では母の話はタブーになった。

そこからしばらく母と会うことはなかった。後で聞いたところによると、父は母をどこかの喫茶店に呼び出し、子供たちに会わないで欲しいと告げたところ、母に水をかけられたそうだ。

中学生になってからのこと。吹奏楽部に入り、土曜日の放課後も部活で忙しくなったていたある土曜日、授業を終えてから部活の前に近所のスーパーにあるパン屋に部員達と昼食を買いに出かけた。買い物をして帰ってきて校門に入ろうとすると、後ろから声をかけられた。

振り向くと、そこには引っ越す前に住んでいた団地で隣の家に住んでいたおばさんが立っていた。「今、ちょっといい?」おばさんが言った途端に私は母だ!と直感した。私の不穏な感じを察してくれたのか、友人が「今、急いでるんです!」と私の手を引いて校舎まで一緒に走ってくれた。

走りながらチラッと振り返って見ると、植え込みの陰にいる母がこちらを見ていた。しばらく経って、もう帰っただろうとトイレに行くふりをして廊下の窓から外を見ると、二人は校門から道路を隔てた向こう側の植え込みに体を隠すようにして、私を待っていた。

夕方になってもう一度覗いて見ると、もう姿は見えなかったが、念のため帰りは校門とは反対側のグラウンドを横切った場所にある門から出た。このことはもちろん、祖母と父には言わなかった。言ったら最後、心配症の祖母が騒ぎ出して学校まで付いてくると言い出すかもしれない。その前にせっかく一応平和になりつつある我が家の空気を壊すかもしれない。

私は母を鬱陶しく思い始めていた。祖母は漸く私と弟にガミガミと言わなくなりつつあり、私たちも祖母のやり方に慣れていっていた頃だった。

子供は住む場所を自分で選べない。引き取られたその場所に合わせて生きていくしかない。祖母に従わなければ私たちは嫌われて、そしてもし祖母が出ていけば父が仕事に行っている間、誰も面倒を見てくれない。空気を悪くしたら私と弟の居場所が無くなる。

そして母はいろいろな人を巻き込んで私たちに会おうとした。   

つづく