おひとり様てるこの日記

てることいいます。50歳過ぎましたが気ままに生きてます。人生の危機感ゼロ。

リコンの時の子供の気持ち4

2020-03-02 10:53:00 | 日記
高校を卒業し、東京の専門学校に行き、そしてある会社に就職した。新入社員生活を送り始めた頃に一通の手紙が届いた。いかにも若い人が使いそうな可愛い花柄のレターセットだったのを覚えている。差出人は全く知らない人だった。しかし、普段鈍い私が、この時は何故か勘が働いた。

慌てて自分の部屋に行き、封を開けた。母の友人からだった。やっぱり。あなたのお母さんが連絡して欲しいと言っているので、以下の電話番号に連絡して欲しいと書いてあった。私はため息をついた。

実はAちゃん一家と連絡を取るのをやめてから、母は別の人たちに頼んで私たちに連絡をしようとしていた。しかも直接家に連絡をしてくるようになった。高校から帰って来ると、祖母が電話をしながら怒っていることがよくあった。素知らぬふりをしながら自分の部屋へ行き耳をすましていると、「○子さん(母の名)が何を言おうと子供たちには会わせないとお伝えください!」と言ってガチャン!と電話を切っていた。

また、ポストに父宛ての手紙が届いていて、こっそりと差出人を見ると、昔よく母のところに遊びに来ていた人だったりした。しかし、私はそれを見て見ぬふりをしていた。そして祖母と父もそういう話を私と弟にしなかった。私たちは母がどんなに頑張っても、母の存在を消そうとしていたのだ。

漸くそんなことがなくなって来た時だったのに。だが、何故か私はその電話番号に電話をしてみようと思った。何故だかわからない。話をしてみたかっただけなのかもしれない。

翌日、仕事の休憩時間に、近くの公衆電話からその番号にかけてみた(携帯電話なんか無い時代)。すぐに受話器の向こうから母の声が聞こえてきた。久しぶりに聞いた母の声は嬉しそうだった。母はとても親しげに話してきたけれど、私は固く冷たく返事をした。

その時どんなふうに会話をしたか、はっきりと覚えてはいないのだが、母が私に会いたいと言ったので、社会人になり忙しいし毎日疲れているというようなことを言ったと思う。そして「私から会いに行くから」と母が言ったので、私は咄嗟に「来なくていい」と言ってしまった。

次の瞬間、今まで嬉しそうに話していた母が嘘のように泣き声が混ざった怒り声になり、「なんでそんなことを言うんだ。もういいっ!」と電話を切ってしまった。

重い受話器を置きながら、来なくていいと言ってしまったことに、自分でびっくりしていた。そんなことを言うつもりはなかった。ただ、話をしたかっただけなのに。来なくていいというのは私の本心だったのかもしれない。

でもそれで母は諦めたわけではなかったらしい。私はその電話の後、パッタリと母からの連絡は来なくなったと勝手に思い込んでいた。

私が40代前半の頃、祖母が亡くなった。通夜、葬式が終わったある日、祖母の遺品を整理していた。祖母が大切にしていた物をまとめてしまっていた引き出しを開けると、そこに手紙が二通入っているのを見つけた。二通とも祖母宛てで、一通の差出人は母方のいとこ、前にこのブログで書いた母の一番上の姉の娘たちの長女からで、もう一通は以前家族ぐるみで付き合いがあり、一緒に家族旅行に行ったりした父の同僚の奥さんからだった。

読もうかどうか迷った。祖母宛ての手紙を果たして私が読んでいいものかどうか。しかし、これは家族の問題であり、私にも知る権利があると無理やり理由をつけて、手紙を開いた。

二通ともだいぶ前に出されていた。消印を見ると私が20代の頃。まだまだ祖母が元気だった時だ。もちろん母が私たちに会いたがっていることが書いてあり、そこには母の住所も書いてあった。さっさと捨ててしまえばいいのに、なぜ祖母はこの手紙を取っていたのだろう?高校時代に私が見た手紙とは差出人が違うから、これ以外にも何通か手紙が来ていたのではないだろうか?

母は私たちに会いたいために、いろいろな人を巻き込んでいた。母の友人たち、母方のいとこたち、そして父の同僚の奥さんまでも。本当にたくさんの人に迷惑をかけていた。

ある時、祖母が「お母さんは頭がおかしいのよ」って言ったことがあったのだけど、こうやっていろいろな人を巻き込んででも私たちに会おうとしていたからなんだ。(祖母ははっきりとものを言う人なのでそういうことを子供に平気で言った)

最近はもう、こういう手紙も電話も来なくなった。母は父とそう歳が変わらないので、さすがに気力も体力も無くなったのだろう。あるいはもしかしたら、もうこの世にいないのかなと思うこともある。

もうかなり前のことになるが、ある時、珍しく離婚をした時の話を父としたことがあった。後にも先にもこの一回だけだったが。私が「大人も大変だったけど、子供にもすごいストレスだった」と言った。すると父が「俺が一番大変だった」と答えた。

母が中学校まで来たことや、Aちゃんの家で母に会ったことを言ってやろうかと思ったけれどやめた。今さらそんな昔のことを話しても仕方がない。

大人が離婚にものすごく体力と気力を使うのは当たり前だ。金銭的にも大変なことがある人もいるだろう。

しかし、離婚によって大変なストレスを抱えているのは大人だけではない。何も知らないような顔をして、子供は本当はとてもよくわかっている。子供には選択肢はない。お父さんにつく、お母さんにつく、という選択肢があるじゃないかと言われる人もいるかもしれないが、それは無理矢理選択させられているだけだ。結局、子供は居場所を自分で選べない。選べないから、置かれた場所で気を遣って生きていくしかない。

私の場合、祖母が機嫌を損ねることが一番怖かった。父は私たちを庇わない。祖母が言うことが一番なのだ。その中でストーカーのように私に会いに来る母。それを秘密にしておかなければいけない私。本当にそれがストレスだった。

離婚しないのが一番いいけれど、それをどうしても回避できない時もある。DVが理由など命に関わる離婚は別として、互いに話し合いができるはずなのにしない。話し合わないから会う条件が一方的になり、子供が混乱する。子供に説明もなく一方的に向こうが悪いから嫌え、と言われた子供は悲しい。時間が経っても癒えない傷になる。

離婚しようと決めたら、二人の間にいる子供たちについてまず話し合って欲しい。これからどうするのか、会いたいのか、会わなくてもいいのか、会うとしたらどの程度会うのか。できたら子供にもうきちんと話をしてほしい。子供の意見も聞いて欲しい。

離婚で傷つくのは大人だけではないということをわかって欲しい。










リコンの時の子供の気持ち3

2020-03-02 00:42:00 | 日記
話は中学生の頃に戻る。

母が中学校に来てから、私は母を警戒して、暫く正式な校門を使わないで、校庭を横切ったところにある門を使った。部活の昼ごはんを買いに行く時は必ず友人と行った。でも母は中学校にはもう現れることはなかった。今度は違う方法で私と弟の前に現れたのだ。

ある日、祖母からAちゃんから電話があって新居に遊びに来ないかと言ってたよ、と言われた。Aちゃんは幼なじみで、同じ団地に住んでいた時は家族ぐるみで付き合いがあった。私たちより先にその団地を出て、建て売りの一軒家に引っ越していて、何度か遊びに来るよう誘われていた。しかし、両親の離婚のゴタゴタなどで、ずっと新居に遊びに行けないでいたのだ。

早速私はAちゃんに連絡をして、土日に泊まりに行くことを約束し、弟も一緒に行くことになった。家族ぐるみで付き合いがあったので、弟も誘われたことを少しも疑問に思わなかった。

Aちゃん一家は素敵な一軒家に住んでいた。ずっと団地暮らしで一軒家に憧れていた私は、ワクワクしていた。友達のママ達の中で、唯一戦後生まれで若くてオシャレだったAちゃんのお母さんはインテリアもきっと素敵に違いないと思っていた。そしてきっと素敵に飾られているリビングに通された途端、私はびっくりして立ち止まった。

趣味のいいインテリアの真ん中で母がソファに座っていたからだった。

この人は!!私たちにまた嘘をつかせるつもりなのか!母に会ってはいけないと言われているのをわかっているのになんでこんな卑怯な手を使って私たちに会おうとするのか。母に会ったことを知ったら、祖母の機嫌が悪くなる。父だって私たちに対する態度を変えるかもしれない。せっかく母がいない生活に慣れてきて、私と弟も母のことを口にしなくなって、平和になったのに。私たちはまた祖母と父に対して、母に会ったことを黙っているという嘘をつかなければいけなくなる。そうしないと祖母から嫌われる。もしこのことがバレて、私たちの意志で母とこっそり会っていると思われたらどうしてくれるんだ!!

大人だったらうまく言えたかもしれないが、まだ子供の私はしれっとソファに座っている母に怒りを爆発させるしかなかった。泣きながら「帰る!いやあんたが帰れ!弟に会うな!」と叫び始めた私に周囲の大人たちはびっくりして、私を宥め始めた。どうやら母がいたことにびっくりして泣き始めたと思ったらしい。

大人たちに宥められてなんとか泣き止んだが、その日はずっと母を無視していた。母は私のそんな態度に戸惑っていたが、嬉しそうに弟の面倒を見ていた。弟も普通に接していた。そんな母を見て、私はAちゃんの家に来たことを後悔していた。弟を連れて早く帰りたかった。

その夜は母と同じ部屋で川の字で寝るように言われたが、Aちゃんとおしゃべりをするんだ、と言い訳をしてAちゃんの部屋に寝た。

翌日はみんなで遊園地に行った。私は前の日と打って変わって、母と話を積極的にした。でも、私の中でもう決めていた。

二度と母とは会わない。

やっと訪れた平和な時間を乱す母には二度と会わない。

今思えば、母だけが悪いから離婚したわけではないことはよくわかる。父も祖母も大人として話し合いをするべきだった。特に父は気難しい祖母の言いなりだったし、母を庇うということがほとんど無かった。突然、気が合わない二人が一緒に暮らすなんて不可能だし、私たちを世話する人が必要と思うならば、学童保育があったし、いろいろ考えなきゃいけなかったと思うんだけど。

しかし、そんなことは大人になったからわかることで、子供の私にはそこまで考えは及ばないどころか想像もできない。関係ない。とにかく、自分たちが母と会っていることがバレたら、祖母の機嫌がまた悪くなり、最悪怒って家を出てしまうかもしれないし、そうしたら父も私たちに怒るかもしれないし、家の空気は悪くなるだろうし。

帰り道、家の最寄駅まで送ると言う母を拒否して、電車に弟と二人で乗った。母は私たちを抱きしめるとかそんな肌の触れ合いとかも一切なく、私たちを見送った。電車の中で弟に、家に帰ったら母に会ったことは絶対に言うなと釘を刺した。小学生低学年の弟はたぶんわからないなりに私の気持ちを察したのか、父と祖母が待つ家に帰っても、母のことはひとことも言わなかった。

Aちゃん一家はそれから何回か一緒に遊びに行こうとか、家に泊まりに来いとか誘って来たが、何かと理由をつけて断り続けた。私が高校に入学した時は、どこの高校に入ったのか教えて欲しい、という感じの手紙をAちゃんが書いて送ってきたが、返事は書かなかった。

そこからAちゃん一家からの連絡は無くなっていき、私もいつの間にかAちゃん一家のことは忘れていったのだった。