母は関西生まれ関西育ち。三人姉妹の末っ子に生まれた。と、思っていたら、どうやら四人姉妹だったということがだいぶ後でわかった。子供の頃に両親を相次いで亡くし、姉たちが親代わりだったようだ。中学を卒業して、看護師の学校に入り、やがて勤め先の病院で父と出会った。
まず、母が生まれ育った県は知っているが、詳しい地名を全く知らない。いつ母の両親が亡くなったかも知らない。その私の祖父母にあたる人たちがどんな仕事をしてどんな人たちだったかも知らない。戦争中にどんな生活をしていたかも知らない。そして、ずっと三人姉妹だと思っていた。それも、ただ二人の伯母に会ったからそう思っていただけ。そういえば、母方の祖父母の墓参りにも行ったことがない。どこにお墓があるかも知らない。
父がどこで生まれて、戦争中の疎開先、戦後に住んだ場所を知っている。父方の祖父は戦前に亡くなっていて、名前も知っている。毎年墓参りにもいく。曽祖父、曽祖母の名前も人柄も、どうして亡くなったかも知っている。父の姉、つまり伯母にもしょっちゅう連絡をしている。
母については結構知らないことが多いのだ。小学生の私には難しいと思って言わなかったのか。
母の一番上の姉、つまり伯母には一年に何回も会っていたが、そういう昔の話は一度も聞いたことがない…たぶん。二番めの姉は関西に住んでいたので滅多に会わなかった。
伯母は夫と、そして私たちよりもだいぶ年上のいとこたちと都内に住んでいた。母には実家のようなものだったから、母はその家ではのびのびと振る舞っていた。私たちを放っておいて、伯母と楽しそうにおしゃべりをしていた。私は何故か雨戸を閉め切った暗い洋間に入り込み、昔いとこたちが読んでいた漫画を読みふけっていた。小さな弟はいとこたちにマスコットのように可愛がられていた。
伯母は私たちを孫のように可愛がってくれて、母には作れない豪華な料理を作ってくれたり、欲しいおもちゃを買ってくれたりした。夜は母がいとこたちとおしゃべりをしているので、伯母が私たちを寝かしつけた。すごく居心地のいい家だった。初めてコカコーラを飲んだのもその家だった。
両親が離婚した時、あの家に行けなくなり、伯母にも会えなくなることだけが、すごく残念だった。
今から10年ほど前に、久しぶりにその家から連絡があった。伯母がもう長いことはなく、私たちに会いたがっているから、会いに来て欲しいということだった。父と二人悩んだが、後悔するよりは、と行くことにした。但し、母とは会いたくないとはっきりと言った。
伯父は私たちがその家に行かなくなった直後に亡くなっていた。伯母は全身に癌が広がり、病院に行った時は手遅れだったそうだ。居心地のよかった伯母の家は、いとこ三姉妹の三女夫婦が伯母を看るために一緒に住んでいた。
久しぶりに降りた最寄駅は高架になり、家の前の雨が降ると水たまりがたくさんできた道は舗装されていた。空き地だった場所に建て売りらしい家が建ち、鬱蒼としていた雑木林は潰されて住宅街になっていた。でも、伯母の家は少しも変わっていなかった。
いや正確に言えばたぶん、夜中に行くのが嫌だった汲み取り式のトイレは水洗になっていただろうし、母と親子三人で入った小さな石がタイルの様に敷き詰められた風呂も、もっと便利になっていたかもしれない。トイレは借りなかったし、風呂に入る必要は無かったから見なかったけれど。
私が漫画を読みふけっていた閉め切られていた洋間は、いとこの娘さんの部屋になっているようで、父と私が居間に落ち着いた時にその部屋から、若い娘さんが出てきた。アルバイトに行くというので、私たちにペコリと頭を下げて玄関に歩いて行った。
あの子は私の両親が離婚しなければ、今頃は知らない仲ではなく、ちゃんと赤ちゃんから見守って親戚付き合いをしていただろうなあと見送りながら思った。
伯母は朝から調子が悪く、薬を飲んでいるためにボーッとしていて、話があまり出来なかった。でも、私の顔を見てニコニコとしていた。ここで初めていとこの長女が、実は母にもう一人姉がいたことを言った。彼女も最近知ったらしかった。やはり母の過去は秘密が多いなと感じた。
帰りにもう二度と敷居を跨ぐことはない家を振り返って見た。私もこの家に普通に毎年来ていたかったなと、ふと思った。母のことはもう嫌いでも好きでもないけれど、居心地の良かったこの家を母の実家として、毎年思い出を作って行きたかったなと思った。いとこの娘さんと仲良くしたかったな。離婚が無ければ、こんな寂しく切ない経験はしないで済んだのに、と子供時代以来久しぶりに思った。
伯母は私たちに会った一ヶ月ほど後に亡くなった。伯母の美味しいお稲荷さんをもう一度食べたかったな。