僕は優しい丘に向かって歩いていた。季節がいつだったかも、もう思い出せない。あるいは最初から季節などなかったかもしれない。白い地面には影法師が映っていたかもしれない。正面を見ると、大木の太い幹の前に坐禅を組むような姿勢で座っている老人がいた。白い布を一枚身にまとっていた。白くて長い髭は(あるいは、髪だったかもしれない)地面にまで達するほどで、よく見ると、その髭は老人の周囲の地面の中に根をおろしていた。右手にはところどころにねじれのある木の杖を握っていた。白い布は陽に輝きながら、ゆったりと襞を作っていた。僕らは何かを語り合った。その最後に、その老人は僕に「決して後ろを振り向かずにまっすぐ行け」と命じた。「もし後ろを振り向いたら、悪いことが起きるだろう」と言った。どこかで聞いたような話だなと思いつつも、胸騒ぎを抑えることは出来なかった。何のことか見当もつかなかった。恐る恐る僕はまっすぐ前だけを向いて歩いて行った。最初は振り向くつもりなど毛頭なかったが、なぜか、結果としては、振り向いてしまった。地獄を見たいという好奇心からか。誰も見ないものを自分一人だけは見ておきたいという気持ちからだったか。僕は振り向いた。すると、突然、ある家の白い壁に突き刺さったナイフから赤い血が流れ出した。僕の眼に映ったのはその光景だけだった。少年時代の忘れがたい唯一の奇妙な出来事だった。その後、老人がどうなったのか、その後、僕がどうなったのか、誰も知らない。
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