岐阜多治見テニス練習会 Ⅱ

石垣、竹富、波照間紀行

石垣、竹富、波照間紀行
        
                 山際 うりう

離島巡りの拠点、石垣島を目指して、僕らはセントレアから飛び立った。那覇空港ではソーキそばも食べずに乗り継ぎ、石垣空港からは全日空ホテルに直行した。扇形に近いその巨大なホテルの全景は、見た者の記憶に残りやすい。1階の出口からビーチまでは1分もかからない。残念ながら、安全に整備されすぎた人工のマエハマビーチ。裸足で歩いても砂浜には心が躍るような輝きもなく、海の色も(少なくとも、その日は)透明度が低く、水中メガネを付けて海の底を覗いても殺風景だった。テーブルで片手のグラスに黄金色を揺らしても、心を酔わせるような旅愁は湧かず、僕はただ、レストランの窓際の席に座り、外光に照らされた庭に咲くブーゲンビリアの紅や黄色の花を見ていた。窓ガラスの向こうの白い岩石と南国の花々。そこだけが美しくまぶしかった。

朝、飛行機の中で飲んだシャンペンや日本酒、ワインの酔いが消えないうちに、僕はそのレストランでビールと遅い昼飯を注文した。明るい昼の庭には清浄な光が満ち溢れていた。印象派絵画のような風景は僕に憂鬱気分とは反対の気分をもたらした。僕は給仕人に「こんな素敵な所で働けるのなら、給料要らないでしょう?」と話しかけた。「僕なら要らないですね」とも言った。半分冗談だったが、半分は本気だった。午後3時過ぎまで頭の中だけが軽く酔って濁った状態が続いた。

マエハマビーチで少しシュノーケリングをしたが、2、3の小魚を見ただけで何の感興も湧かず、気も乗らなかった。海の中は諦めた。夕食まで暇だったので、二人乗りのカヤックに挑戦することにした。座ったまま左右交互にオールを海に突っ込んで漕ぐ腕がすぐ疲れたが、何もせずにただまっすぐ伸ばしておかねばならない足がそれ以上に疲れた。5分も経たないうちに我慢できなくなった。胡坐をかくような形に両足を曲げると、少しだけ楽になった。

翌日、2008年9月24日水曜日、石垣港から竹富島へ行った。石垣島から高速船でわずか10分だ。しかし、このわずか10分の水上の移動後に僕が見た風景は、遠い過去の風景であると同時に遠い未来の風景でもあるべきものだった。砂の細い道。化石の無造作な堆積のように見える石垣に囲まれた家。その柿色の屋根瓦の、円柱を縦に半分に切ったような形。瓦の色は黒であってはならない。柿色がいい。統一された瓦の色に美しさを見出したのはここが初めてだった。僕らは竹富島の集落の中を自転車で走り回った。幸福感にすっぽりと包まれた自分には、しかし、なぜか出会えなかった。集落の中心に向かって、走っても、走っても、どこか周縁の外で途方に暮れているような自分にしか出会えなかった。大都会の片隅で感じる疎外感とは違うもの、たとえば無縁さとも言うべきものを、僕はこの島の風景と自分の心との間に感じた。集落のどの四つ辻に立っても、自分のような汚れた存在が侵入してはいけない領域のように映った。竹富島には御嶽(うたき)と呼ばれる神聖な場所が多くあるが、僕の心にとっては、島全体が御嶽だった。通俗的に、風景によって「心が癒される」と言ってしまうだけでは何かが欠落してしまう気分を、どう表現すればいいだろうか。数時間の滞在では辿り着けない深い奥行きのある島だということだけは、凡俗の僕にも分かった。

ここは、しかし、北緯24度15分に位置する南国だった。強烈な日差しの下に立ち止まって甲斐なく考え込むことは愚の骨頂だった。僕らは自転車に乗り、集落から離れ、外縁を走った。灌木に挟まれた、軽自動車でも通れないような狭い砂道を走った。車と衝突する心配がない道。やっぱり自然の中がいい。僕は身体が行動する小さな幸福感に酔った。動けば、風景が一新する。心も同時に新しい刺激に晒される。こういうのが極楽なんだ。果敢無いゆえに極楽なんだ。何もかも移って行き、消え去って行くのだ。それでいいのだ。悟れなくても悟れてもいいのだ。道端のバナナやパイナップルの木、そして畑のサトウキビの繁茂、それらは僕にnonではなく、言わば「超絶のoui」を囁いてくれた。命と引き換えに遥かな南の果てまで波の煌めきを見に行く旅というのも悪くはないだろう。

安里屋クヤマの墓という標示があった。僕らは灌木の間の細い砂道を自転車で走って行った。砂が厚く溜まっている所ではタイヤが埋まり、こけそうになった。石碑があった。聞き覚えのある民謡の一節が書いてあった。マタハーリチンダラカヌシャマヨー。辺りは畑や雑木林で、誰もいないのが良かった。碑文を読んだ。悲話は悲歌になる。悲歌は時を超えて歌い継がれる。僕は石碑の前で歌った。すると、そこに一人の女性観光客が自転車でやってきた。

僕らは自転車に乗っては降り、降りては乗った。井戸の遺跡だけが草むらに残っている場所に行った。すると、そこに先ほどの女性がまたやってきた。僕らは3人で少し立ち話をした。彼女は、東京から来た、竹富島には5年前にも来たことがある、この島の民宿に泊まっていると言った。観光地だから観光客同士の擦れ違いは路上で頻繁に起きた。島民との出会いは、しかし、意外にも困難だった。その姿を見かけることさえなかなか出来なかった。僕が島民と話したのは、貸自転車屋のおばさんとアイスクリームを買った小さな店のおばさんの二人だけだった。観光客にしか出会えない観光客のままで島の表面をただ漂うことの寂しさを、僕は感じた。

昼時になった。小奇麗な食堂に入って、800円の豆腐チャンプルーを注文した。満足できる味だった。うまさの秘密を知りたくて、勘定を払う時、僕らは調理法を尋ねた。特別な調理法はなく、特別の調味料も使っていなかった。ただ味醂を入れるという話だけだった。味醂だけであの味が生まれるのだろうか。何にしても確かに食べることは人生の楽しみだ。

コンドイビーチは遠浅だった。海底には大型のナマコが足の踏み場もないほどいた。

竹富島から石垣島に戻り、前夜に引き継ぎ、美食を重ねた。美食の連続は、しかし、飽きがくる。見るのも嫌になる。漬物とお茶漬けのほうがいい。運動不足のせいもあったが、9月25日木曜の朝には食欲もなくなってきた。食べる楽しみがなくなったら、人生は終わりだ。

その人生が終わりかけた朝、僕らは午前8時半の船で波照間島に向かった。石垣港からの所要時間は高速船で約1時間だ。西表島を右側に見ながら船は走った。満員だ。波照間島に行く時は、必ず船の予約をしておく必要がある。波照間港に着くと、「ペンション最南端」の人が車で迎えに来てくれていた。「ペンション最南端」はニシ浜にあった。ビーチは目の前にあった。目の前の海の向こうには西表島が右に、左には海鳥の繁殖地として有名な無人島の仲の神島が黒っぽく見えた。

僕らはまた自転車を借りて走り回ることにした。しかし、波照間島の道は平坦ではなかった。原付か軽自動車を借りるべきだった。道に迷った。サトウキビ畑に座り込んで、サトウキビの茎を20センチ程の長さに切る作業をしている老農婦に、「最南端はどちらですか?」と尋ねた。おばさんは一言も喋らずに、ただ手を伸ばして指し示した。磁石に従ってただ南へ行けばいいものではないのか。僕らは自分の磁石が示す南の方向とは逆の道を教えられた通りに走った。

道に迷いながらも辿り着いた日本最南端の地。観光客は若者ばかりだった。その最南端の断崖絶壁から見下ろす青い海の美しさは、僕に「こりゃ南仏にも負けないな」と思わせた。海の青もまた七変化する神秘の色だ。僕は絶壁の上に腰を下ろして海を眺めた。黒褐色の断崖にぶつかっては四方八方に砕け散る白波の花火は美しかった。

ニシ浜も遠浅でシュノーケリングに適していた。潮の干満によって、海の中の陸地が出現したり隠れたりするのが面白かった。生態系破壊に繋がる所業だったかもしれないが、海中で餌をばら撒くと2、30匹の魚が体の周りに群がってきた。魚を捕まえようとしたが、魚は上手に僕の手と手の間をすばしこくすり抜けて行った。

夕食時、「ペンション最南端」の主人が僕らのテーブルのそばに来た。メモ用紙を片手に、膝を折って僕らの顔の高さと合わせた上で、「今夜8時半から牛小屋で三線ライブがありますが、行きますか?2000円で飲み放題です」と尋ねてきた。「牛小屋で?蚊がいないですか?」と僕が聞くと、主人は「夜遅いですから、蚊はもういないです」と答えた。この時はあまり乗り気でなかったが、結果として行って良かった。あの時行かなかったら、今回の旅の感激は半分以下になっていたことだろう。今も思い出す。本物の牛小屋を。その牛小屋の入り口の扉は開いていた。覗くと、僕の席の10メートル前方に牛が4頭ほどいた。牛を見ながらの三線鑑賞とは!島の民謡歌手後富底周二さんは自作のテーブルの上に泡盛と駄菓子とを並べた。幻の酒「泡波」が5本ほどあった。誰もが「泡波」を胸に抱き、記念写真を撮った。客は民宿やペンションの泊まり客で30人ほどだった。若い男女ばかりだった。周二さんは偶然にもその夜最初に安里屋クヤマの民謡を歌ってくれた後、休憩をはさみながら11時半まで歌ってくれた。予定より1時間長かった。さて、いよいよ語らねばならないハイライトシーンだ。若者たちが「ワァー」と叫んだ。周二さんが牛小屋の電灯を全部消した時だ。周囲は畑や林だ。明かりは他に一つもない。漆黒の闇と満天の星の輝き。これがこの世なのか。この世に対する神々の賛歌がこれなのか。誰もが酔った、右側の東京から来た青年たちも、左側の小牧市から来た女性グループも、前側のカップルたちも。見上げると、乳を流したような天の川が見えた。南十字星の見える季節ではなかったが、僕らの耳にそれぞれの星座がそれぞれの名をキラキラと告げていた。僕は輝く星空を美しいと思って眺めた。周二さんは真っ暗闇の中で、三線を弾き、島の歌を歌った。時々、周二さんの三線を引く腕が僕の背中に触れた。若者たちは皆、自分が知っている歌は一緒に歌っていた。

牛小屋でのライブ終了後、僕らは周二さんの車で、定員超過状態でペンションまで送ってもらった。部屋には行かず、僕らはすぐ屋上に上り、折りたたみ式の簡易ベッドを組み立て、仰向けに横たわり、飽きることなく星空を眺めた。一人の用意周到な女の子が小型ライトを持っていたので、僕は彼女に照らしてもらいながらベッドを組み立てた。恋に小道具は不可欠だ。僕がもう少し若かったならば、僕はその夜彼女の瞳の中に星の輝きを見ただろう。郷土料理を食べたり、遺跡巡りをしたり、美しいビーチで泳いだりすることだけが旅ではない。女の瞳の中にも旅はある。

9月26日金曜、僕らは2泊目を断念した。台風15号が接近していた。一度欠航になると、3日くらいは船が出ない。27日土曜の朝は船が出るかどうかは分からない。ペンションの主人の助言に従い、その日金曜日の午後4時過ぎの船で石垣島に戻ることにした。出航時刻まで僕らはゆっくりと波照間島の海と光と風を味わった。白いプラスチック製の椅子に腰掛けて、何時間も海の青の色調を味わった。肌に突き刺さる日差しを木陰に避けて、キビ畑を見ながらオリオンビールを飲んだ。台風が来る気配などどこにも感じ取れなかった。

26日夕、石垣島に戻り、2008年にオープンしたばかりの某ホテルに泊まった。夕食は街に出て取ることにした。なかなか予約席が取れない居酒屋に入った。人気がある理由はすぐ分かった。旨いのに値段が高くない。安室奈美恵の妹風の女の子が、運よく僕らの給仕係として付いてくれた。僕は「黒真珠」を注文して飲んだ。

波照間島から戻ると、石垣島が大都会のように感じられた。居酒屋から出た後、僕らは街角から街角へ歩いた。僕は「泡波」を探した。有るはずがないと思いながらも、探した。有るはずがないものが、あった。初め小さな瓶入りを発見した。注文すると、店員が高い壁の方を指差し、600mlもありますよと言った。今年9月の瓶詰めだった。僕は買った。僥倖だった。台風15号の影響を受けなかったら、僕は「泡波」を買うことは出来なかっただろう。

27日土曜、最終日、那覇行きの飛行機が出るまで、レンタカーを借りて石垣島一周をすることにした。前回は川平湾までしかドライブしなかったが、今回は北の灯台まで行くことにした。灯台付近の高みに登ると、崖下まで吹き飛ばされそうな強風が吹いていた。若い女性たちは時々、岩陰に寄り合って蹲って風を避けていた。

その後、無事、僕らは那覇に到着し、ソーキそばも食べずに乗り継ぎ、セントレアに向かった。午後9時過ぎ、自宅に着いた。セントレアから自宅までの道は今回で3回目の走りだが、今回もやはり道に迷った。一度覚える気で覚えてみようか、この道も、そして、それ以外の様々な道についても。

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