「ロッジ山旅」のご主人に玄関で迎えられ、私はいつもの部屋106号室の鍵を手渡された。施設は老朽化が進んでいる。足を踏み込むと廊下の床がミシッと陥没する場所もある。ご主人が山の専門家でなければ、誰も宿泊しないだろう。2010年8月3日(火)、私は午後5時半頃、「ロッジ山旅」の玄関入口のドアを一年振りに開けた。ご主人はいつものように頭を包むようにバンダナを巻いていた。
ご主人が夕食の準備について尋ねると、奥さんは午後6時15分頃用意出来ると答えた。私はそれまで近辺を散策することにした。狭く湿っぽい部屋に一人で何もしないで待つことに苦痛を感じたからだ。まだ私はご主人に面と向かって施設設備の悪口を言えるほどの関係にないが、たとえ言ったとしても、ご主人は山男だからきっと「私も出来れば、むさくるしい中にいるよりは外に出ていたいですよ」と応じるだろう。あるいは、もっと怜悧な、気が利いたセリフを吐くだろう。私は部屋の鍵を返して雑木林の中の道を下って行った。
大泉は八ヶ岳山麓にある町だ。「ロッジ山旅」周辺も坂道が多い。下って行けば、帰途は上り坂だ。40分ほど歩いた。少し汗ばんだ。その日の朝は雨が降っていたので登山の計画は取りやめた。午前中は仕方なく、付近の山道をぶらつくことにした。八ヶ岳の鉢巻き道路の小荒間の交差点から八ヶ嶽神社周辺まで登った。往復2時間ほどだった。午後は、「美しの森」周辺の林道を2時間程度歩いた。午前の山歩きでは、柔らかに降る霧雨に濡れながら、斜面一面のおびただしい熊笹の波に囲まれて歩いた。霧雨に濡れた、清らかな草色の熊笹の世界。私は即興で作曲したメロディーを口笛で吹きながら歩いた。汚れのない空気を吸うために深呼吸を何度もした。辺りは時に野鳥が鳴く程度で静かだった。私の心の中では、しかし、心細さや恐怖感が泡立っていた。山の中に一人でいると、いつも臆病神に取りつかれる。山伏にはなれそうにもない。奥深く登るに従って聖なる領域に入り込むような感覚が心の中に生じる。私は警戒心を高めて幾度も周囲の様子を窺った。振り返っても、耳を澄ましても、近くに人間がいる気配はなかった。自分だけだ。ツキノワグマが出たらどうしよう。自らの生と娑婆に対する執着心が湧き起る。これも煩悩か。だとするならば、煩悩とは何と自然なものでもあることか。8月3日は初めから頂上へは行くつもりはなかった。私は八ヶ嶽神社から観音平へ行く途中から引き返すことにした。
午後は小荒間から美しの森の方へ場所を変えて林道を歩くことにした。道幅が広かったせいか、午後は臆病神に取りつかれることもなく美味しい山道をじっくりと味わった。途中、天女山方面へ行く分岐点を通過した。頂上を目指さずに山麓を彷徨するだけでも楽しいものだな。私はそう自分に言い聞かせた。天から恵まれた貴重な私の一日、その一日の存在の有意義な仕様をつかめなくて、単なる時間潰しの彷徨を行ったのか。そうとも解釈できる。が、単独行動はいかようにも解釈できる。〈足慣らしだ〉と思えば、一見無意味で無駄な一日の行動も俄に正当な意味を帯びる。私はその日の一日の意義を失いたくなくて、心の中で努めてそう整理することにした。自分を取り巻く場所が神域であろうとなかろうと、どうせ自分自身は地獄でのたうつ凡愚なのだ。身勝手な自己評価を行って自己満足に陥っても他人の不満足を買いはしないだろう。私は〈その日八ヶ岳山麓で黙々と鍛錬をした〉のだ。
計画性のない山歩きの後、宿の近くの温泉「パノラマの湯」に入ってガラス越しに見上げると、浮雲の屏風の右端から優美な裾野の線が見えた。そそり立つ富士山だ。露天風呂に移動し、富士山の真正面に浸かると、段々と富士山が雲を追い払いその全容を見せ始めた。北杜市に来て三日目でようやく私は富士山の姿を拝むことができた。頂上付近も含めて雪の色はなく、全体が鼠色を帯びていた。いつ見ても富士山は高く、威厳が漂っている。
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露天風呂横の板敷きの休憩スペースにはプラスチック製の丸テーブルとイスが置いてあった。着替えた後、私は新聞を持って行ってそのテーブルに広げた。富士山を眺めながら、新聞を読んだ。すると、私の後方から左前方に若い女が突然現れ出て、柵に凭れながら携帯電話のカメラで富士山を撮影し出した。後ろ姿に清潔感と気品が漂っていた。彼女が立ち去る時、ほんの一瞬左の頬の一部と鼻筋が見えた。いや、見えたのではなく、意識的に私が見た。私の考えでは、物腰や物言いに気品が漂う女性には希少価値がある。小さな泡のように生まれた憧憬の心が、広げた新聞紙の表面を滑り飛び、富士山の裾野を天辺まで駆け上って行って、消え果てた。
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霧雨が白っぽく舞うだけの誰もいない山中。私は八ヶ嶽神社の手前の細い道を登っていた。熊笹の波や雑木林に取り囲まれていると、日頃自分の心の中の全空間を占めているような欲望や気掛かりも、なぜか小さな、取るに足りないものに見えてくる。逆に、日頃の取るに足りない、小さな幸せが、なぜか掛け替えのない絶対的なものに見えてくる。山中では自分の感じ方や考え方に変化が起きる。自分など小さな存在だという思いが強くなる。名もない人間の名もない虚無感など、たとえ声高に歌っても誰も耳を傾けない。私はしかし、息を詰めないように、長く息を吐くようにしなければならない。私は幾度も深呼吸をした。私が信じるところによれば、深呼吸と虚無感とは連結しない。
「ロッジ山旅」のご主人に玄関で迎えられ、私はいつもの部屋106号室の鍵を手渡された。一年振りだった。宿帳に記名した後、猫も食わない虚無感を押し込んだバッグをぶら下げて、私は廊下の突き当たりの106号室のドアを開けた。内部は暗く湿っぽく、歓喜とは無縁の部屋だった。窓から外の景色を見ても、まばゆい光の散乱があるわけではなく、私はバッグを椅子の上に投げ捨てると、夕飯の時刻まで散歩することにした。私はリトマス紙のように湿った部屋に反応していた。気を紛らせたかった。
夕食は庶民向けの家庭料理だった。庶民のくせに、いや、庶民だからこそ私は旅先ではいつも御馳走を食べることに意を用いた。身の程知らずの愚者だ。「ロッジ山旅」の夕食を目の前にすると、いつも私は自分の本来の身分に戻る。本来の自分も仮の自分も、他者と自分との間の関係で決まる。身分や階級は、私が勝手に色付けできない客観的な自分の印だ。他者との関係である程度決まる自分の属性、そういったものに依拠して生きる時間というものもあっていいだろう。付け髭一つでも人の心は変わり得る。人は、私が私の内に私の幻を見ているように、私の外観に自分の幻を張り付けて見ているだろう。
私が夕食を食べている間、ご主人は話し相手になってくれた。いつものことだが、それはご主人の大事な仕事だった。
「最近、通勤電車の中で、小島烏水の本を読んだんですけど、難しい漢字が多いので、読むのに時間がかかりました」藪から棒に私は言った。
「そりゃ、そうでしょう。小島烏水は初めは漢文体で書きましたから。後には口語体で書くようになりましたけど」
実際に、このように私とご主人との間に会話がなされたかどうかは定かではない。そんな会話があったような記憶があるだけだ。
ご主人は書棚から小島烏水の「日本アルプス」全4巻のうちの第一巻を取り出して、私に見せてくれた。
「これでしょ?読まれたのは?」
「はい」
「これは復刻版ですけどね。ページはまだ切ってないです」
昔の本はペーパーナイフでページを切って読む。私は袋状になったページの中を覗いた。歴史的仮名遣いだった。こうなると、「日本アルプス」はますます険峻になり、ますます高嶺の花になった。
「バブルの頃は、百万円の値が付いていましたよ」
「へえー、そうですか」
ご主人はいつものように「部屋に持って行って読んでもいいですよ」とは言わなかった。
私が食べ終わった頃だった。隣の席に宿泊客が席に着いた。その日の宿泊客は全部で三人だった。神戸からの二人連れの客は、私に「一人勝ち」という名の焼酎を振る舞ってくれた。甲斐駒ケ岳に登ってきたと彼らはご主人に話していた。豊富な山登りの経験がありそうな話し振りだった。夫婦のようでもあり、そうでないようでもあった。彼らは時々、互いにですます体を用いて話していた。夫婦でも丁寧語か、上品でいいな。私は一つの良いお手本を密かに観察していた。
夜中に何度もトイレに行った。頻尿だ。夕食時にビールを2本飲んだせいか。窓を閉め、布団を被って寝た。クーラーなしでは寝られない多治見では考えられない寝方だった。
2010年8月4日(水)、7時に朝食。私は前夜のご主人の勧めに従い、編笠山に登ることにした。隣の神戸から来た登山家は、編笠山は数え切れないくらい登っていると言った。連れの女性は、「上の方はちょっと急坂になっているけど、あれぐらいはないと山として面白くない」と言った。
勘定を済ませた後、私は「神戸のご出身ですので、一つだけお伺いします。昔、六甲山を下駄で登ったという人がいますが、本当に下駄で登れますか。」と言った。連れの女性は、「加藤文太郎の話でしょ?あれは彼だけの話。下駄では無理ですよ」と答えた。私はマダムの上半身と顔をまともに見た。お洒落な洋服を着ていた。若いころはさぞ美しく、魅力的だったに違いない。私はヒントだけで加藤文太郎の名を出したマダムの博識と勘の良さに驚いた。このロッジは自分のようなペンペン草が来る所ではないのかもしれない。私は二人連れに謝意を表して立ち去った。
「ロッジ山旅」のご主人が言った通り、私は3時間で編笠山の頂上に立った。後半の30分ほどがきついだけで、確かに登りやすい山だった。空は曇り空。ほとんど下界は見えなかった。頂上では雲間から少しだけ景色が見えた。頂上に到達した時の喜び、達成感は、やはり何度味わっても大きい。自分が味わう喜びや達成感は、自分が乗り越えた困難の大きさに比例するような気がする。それゆえに、人は人生を山登りに譬えるのだろう。
この横で桃を齧った
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雲間から見えた下界
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頂上では、地元の桃を2個食べた。重くても、果物は持って行くべきだ。八ヶ岳山頂で食べる瑞々しい桃の美味しさは何と言えば良いか。一齧りするたびに甘い汁が口の中にほとばしり、甘い幸せに疲れも遠のき、体の奥から再び活力が湧き上がってくるようだった。夏山の友は桃に限る。
編笠山山頂からは青年小屋方面に降り、押手川辺りで元の道に合流し、延命水の駐車場に戻った。青年小屋ではラーメンを食べた。こんにちはと奥の方に声を掛けると、純情可憐な娘が出てきた。どうしてこんな山小屋にこんな可愛い娘がいるのか。いつものことながら驚く。ラーメンを待っている間、壁の写真を見ていると、H皇太子が青年小屋の正面で山小屋のスタッフに取り囲まれている写真が飾ってあった。平成20年9月に宿泊された時の記念写真だ。私は皇太子がお立ちになった石の上に立って、付近にいた登山客に頼んで写真を撮ってもらった。
眼下に見える青年小屋
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青年小屋で食べたラーメン
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いかにも山小屋の壁面
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「山際さんの足なら、登りは3時間、下りは2時間で行けますよ」
「ロッジ山旅」のご主人が言った通り、帰路は2時間かかった。朝8時15分頃、延命水の駐車場を出発し、11時頃山頂に着き、11時50分頃下り始め、14時20分頃駐車場に戻った。もし青年小屋に立ち寄って鼻の下を伸ばしたり、ラーメンを食べていなかったら、2時間で戻れただろう。
もし「ロッジ山旅」のご主人のお勧めに従わず、編笠山登山をせずに多治見に帰っていたら、今私の心の中にあるこの充実感はなかった。神戸の二人連れは私に「ぜひ北岳に登ってください」と勧めてくれた。まだ見ぬ北岳への憧れが私をいつ引っ張り出すだろうか。この心の中が、新たな充実感を求めずにはいられないほど空しくなった時だろうか。
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編笠山山頂で仰向きに寝ながら見た雲
青空に溶けていったのは
私の心の中のわだかまりだった