岐阜多治見テニス練習会 Ⅱ

うたかたや

心も体も弾む時間、そこへは自分の歩みで到達してこそ意味がある。否、その試みでの挫折からの復調と再出発、ここにこそ価値がある。自力だけではなし得ない、縁の領域がある。なせばなるのか、なるようにしかならないのか、多分、この二つの世界観が交わる領域において、人は自らの歩を進めて行くのだろう。

足が震えるような外側の悍ましい現実と内側の悍ましい現実。そういうものに直面したら、凡人は、何も考えずに震えて眠るしかない。泰然自若などあり得ない。泣きながら死んでいくのも一つの形。世にある形は、まさに様々。

絶望の淵を覗かないと、今にも切れそうな希望の細い糸に縋って天命を待つという生き方はできない。「生き方」と言えば、「方向」と同じで、一つだけではない。信じられないような、驚くような生き方もある。平凡な、或いは、愚昧な生き方もある。いずれにしろ、人生は、灰となるまでの間の、束の間の刻苦・恪勤だ。

崇拝している次元から超越の次元へ。愛の対象を局限せずに有りの儘の、言わば自分の所有する宇宙との合一の次元へ。自らの小さな物語、ここに自らの存在理由を見出さずに、どこに見出すのか。体験は鏡。人は蒙昧にもなれば、幸福にもなる。それらの逆もある。変貌できるのは心底に死よりも恐ろしい不安を閉じ込めている間だけだ。

自らの一度きりの死の体験については、誰もその混沌と痙攣を味わうだけで叙述することはできない。側溝の中で息絶えている僕を見ている者は誰か他人だ。生と死の境界を越える間は、ただひたすら耐え忍ぶだけだ。有って無いような境界だ。「越えた」という実感は当事者として絶対に持ち得ないからだ。

見る物すべてを「幻」の一語に置換する愚を脱却せよ。この世に同じ物は一つとしてないと言ったのはモーパッサンだったか。確かに「気分」は幾つかの型に分類出来る。否、幾つかの型に分類できるものしか僕らは「気分」と名付けられない。典型的な「気分」の範疇に属さない心の模様は物語るしかないか。

定義にもよるが、僕には体験が不足している。デルタイの生の哲学を齧れば、対象への主体の働きかけが体験には必須だ。橋上の夕暮に自己喪失感のために揺れるのは現実世界での働きかけを伴った体験不足が原因か。生きた内的経験を伴わない単なる型通りの模倣の次元を突き破り、自分の思惟を媒介にせよ。

その幻こそが、しかし、僕らの脆弱な、有るか無きかの存在に根源的な彩りを添えるのだ。幻も百様だ。ほんの一瞬間しか目に映らない幻であれ、死ぬまで心に残る幻であれ、自分の外部に陽炎のように偶然現れる幻であれ、自己自身と同一体である幻であれ、僕らはその束の間の響きに、その煌きに縋るのだ。

〈懐かしい自分〉なんて幻だろう。自己像は超越されるべきものだ。側溝に倒れて死んでいる自分を見ようとしても僕には何も見えない。現実の諸関係の中で時を超越して疾走している自分から日常に戻らされても、僕は逆に時の速さを感じるだけで何の変化もない。僕が開ける玉手箱の中は物語があるだけか。

絶巓を目指す登山者はたとえ道に迷ってもどこを目指しているかについては迷っていない。村里や都会では僕はどこを目指して行けば良いのか途方に暮れることがある。情報のジャングルの中に立ち迷うこともある。瞑目して細く長い呼吸を試みれば、いつか出会った懐かしい自分に再会する寧静を得られるか。

喧騒の町から深山へ。もう人と出会うことはない。細い峠道を越えると、一軒の茅屋から煙が立ち昇っている。両手で灌木を掻き分けながら、「こんな山奥にまで人が住んでいるとは」と呟く。桑原武夫も小島烏水も驚いた。なぜこんな山奥に肌の透き通った美しい清楚な娘がいるのかと。泉の精の化身だろう。

有明のつれなく見えし別れより暁ばかり憂きものはなし。古今集。90歳の母が今日施設で「死んでかんならん。憂いこっちゃ」と言った。痴呆症があるが、普通の会話ができる場面もある。暁ばかりが憂きものでないと分かる次元への到達は、誰にとっても難しくはない。真実は身に染みて発見するものだ。

僕が耳を澄まして聴きたいのは身体固有の自己讃歌だった。しかし、生まれた瞬間から死へ死へと〈時の大河〉は流れて止まない。身体は自らの讃歌を熱唱する時も、どこかで病んでいる。否、見方は百様だと自らに言い聞かせるべきだ。絶え間なく病んでいるからこそ、自己讃歌の泡沫の中にも沈潜するのだ。

一つの計算問題に対する解答は、正解か不正解の二通りしかない。この二項対比しかない次元に足を踏み入れてしまうと、劣等生は心身ともに萎縮してしまう。この二項対比の次元は、しかし、娑婆では特殊に属する。娑婆では、言わば多項混在型の現実が流動している。一つの解が絶対性を帯びることは稀だ。

裁判官は現実を問う。真実と真実以外のものとの間に境界線を引く。黒から白だけを掬い取る作業をするために、彼らは明晰な論理を構築する。僕には現実の諸関係を言わば腑分けする能力がない。自ら選択している個人的事象についてさえ意味付け、価値付けをする自信がない。故に僕は物語に接近するのか。

僕の心の中を問うな。悪鬼もいる。耳に響く言葉を真に受けるな。僕の語る真実には無数の虚妄性が混ざっている。今まで僕が何をしたか、否、現実の諸関係の中でどんな問題に取り組み、それに対してどんな解を見出し、その解を周囲の当事者はどう評価したか。この事を過去に遡り問う方法が有るだろうか?

相互関係の中で変貌するのが人間だ。諂いを拒む。覇権を求めない。情動に左右される。仁、徳、礼、智、勇を体現することもある。利己主義にも生きる。非情な殺戮者が、或る日、他人のために犠牲的精神を発揮する。同じ一つの内的契機が一人の人間を善人にも悪人にもする。自己像は超越されるべきだ。

人間は相互関係の中で変貌する。諂う。覇権を競い合う。冷静な合理主義者になる。狂いや愚かさを屎尿のように排泄する。隣人愛にも生きる。虫も殺さぬような者が、或る日、非情な殺戮者になる。同じ一人の人間が多面的に豹変する契機を内包している。人間界とは何と愉快な、おぞましさを孕んだ混沌か。

灰も神仏になる。僕は一神教に依拠して生きるよりは多神教の世界に漂いたい。どこに神を見るか(或いは、見ないか)は、人それぞれだろう。執刀医を尊崇する人も、黄金の前に帰伏する人も、恩愛の絆を絶対視する人も、虚空と全存在とを同一視する人もいるだろう。自分と宗教との境界も有るようで無い。

神仏も灰になる、自分の身体内部の、解き明かせない謎としてのメカニズムを神仏に擬するならば。僕はいずれは世界の突端に立ち、自分の身体を包む全宇宙に対して徒手空拳で立ち向かうだろう。霞を食べ、水と共に流れ、雲に乗り、自分の世界を駆け巡るだろう。快川紹喜のように「心頭を滅却」できるか。

神仏も死ぬ、自分の身体内部の、解き明かせない謎としてのメカニズムを神仏に擬するならば。その人智を超越した生命現象は、自分の身体であるにもかかわらず、見る僕の精神をまるで無縁の存在であるかのように突き放す。傘のような形が縦に連なっている僕の背骨。何とまあ愛想のない、冷やかな印象か。

身体の問題が僕らの憂鬱を解き放つと言えば、多くの闘病者は首を傾げる。身体的苦痛は地獄だ。僕が耳を澄まして聴きたいのは、言わば身体固有の自己讃歌だ。自分の神仏は神殿や仏殿の奥にいるのではなく、自分の骨や五臓六腑に潜んでいる。女は子宮で考えると言ったのは誰だったか。心だけで考えるな。

境界を越えると、方向喪失感と不毛の悔恨とに包まれることが多い。舌を外部に出せば、母胎離脱に似た浮遊感を味わう羽目になり、内側に沈潜すれば、母胎回帰への意識下の流離が始まる。君はどの森から来たのか。僕は蝶になる。君の好きな食草を見つけたら、僕はどんな境界をも飛び越えて行くだろうか。

「出来る」ことと「する」こととは重ならない。「する」ことと「したい」こととの間にも荒海が横たわる。「する」ことの連続と堆積が、僕らをどんな次元(「ここ」とは違う世界)へ導くか。到達する前には決して予見できない未来の世界と現時点との境界は、有るようで無い。越えなければ無い。区切れ。

死が袋小路ならば、生が放恣放漫に流れても宣なるかな。美に縁取られた醜か、醜に縁取られた美か、そんな言葉遊びに現を抜かす凡俗も背丈を越す草叢の奥へ消え去ると、足跡だに残らない。次には何が出現するか分からない僕ら一人一人の混沌たる夢舞台。脈絡や意味を紡ぎ出すにはどんな明鏡が必要か。

終局を見ることに何の意味があるか。終わることのない地雷撤去に日々の労力を捧げる人は、どこにでも自分の人生を構築できる人だろう。此岸における日々の〈この行動〉、〈この希望〉、〈この判断〉にこそ自分を創り出す言わば契機が潜んでいる。程々に諦観に達し、程々に凡愚になれたら、中の上か。

土中の蚯蚓や土竜の日常生活を想像すると、なぜか僕は憂鬱になる。ここには人間中心の物の考え方・感じ方の偏向が潜んでいる。雨はいつかは上がる。時の流れの微小区間を切り取れば、何とでも世界を組み立てられる。人の数だけ世界は出現するだろう。悲憤しても微笑しても百年。後は闇さえ超えた無。

「おめでとうございます」とか「大事に至らなくて良かったですね」とか挨拶することがある。誰にもそれなりに栄光の、或いは、平穏な日がある。濃い闇から薄い闇へ抜け出すましな時がある。人生の節目節目を切り取ると、色々な挨拶が必要になる。切り取らずに、その本質を連続的に見ると、どうなるか。

青臭い哲学に蓋をする物の一つに自らの心身の不調がある。他人の眼差しや評価は妥当であればあるほど僕に自己像の修正を迫る。僕らは或る時は孤独の中で、或る時は取り巻く諸関係の中で、いずれは行かざるを得ない未来に向かって意志決定する。往生するとは自己を取り巻く最悪の状況を一擲することか。

或る日、人はどこかの側溝でうつ伏せに倒れて死ぬ。「だから、今ここで、何をすべきかを問え」とは自らに命じない。僕ならば、何か一つの具体的な、言わば「理解ゲーム」をすることを選ぶ。例えば、漢和辞典を 繙き、「踶跂」、「踶躇」等の密林に迷い込む。社会に有用な人物など一絡げには描けない。

なぜ「ここ」にいるのかという自問に対する自答は砂糖味を帯びる。恋人と一緒に行えば、哲学の時間もまた無上の幸福に包まれるだろう。僕は呟かない。僕は歌わない。僕は物語らない。と、呟きながら、僕は歌うことや物語ることを夢見る。この行動や意味の二重性、この螺旋状に続く肯定と否定の捩りよ。

仏法僧とは無縁のままに誰でも往生できる。往く者とは、人であれ野獣であれ野花であれ、生き終え、無化する者である。この生死の秩序の単純さ、狂いのなさ。或る意味で非情な摂理が僕らを包んでいる。煩悩も、愚劣さも、醜悪さも、否、まさしく森羅万象が一定の物語性を帯びつつ生滅を繰り返すのだ。

死の前の忘我状態において、僕らはあらゆる煩悩から超脱し、軽々と彼岸の世界へと抜ける道を見出す。娑婆苦も様々な悦楽も幻と言えば幻、一回きりの現実と言えば現実。時の流れの不可逆性を嘆くか、不条理性を歌うか。それにしても、何と相似た型押しされたような日々の連続か。欲望が生むのは欲望だ。

何かが残りそうな予感を追い求めて、越えようとする限り、その境界の向こう側には自分と君がいつもいるような気がした。誰かが床に円を描き、出入りを繰り返す仕掛けを作って遊んでいた。空虚な空間と虚無感に満ちた時間に祝福を。僕らは放り出されている、葉上を転がる一粒の露のような運命と共に。

人は心の旅路を歩む。どこにも通じてはいない抜け道を、どこにも通じてはいないと知らないままに、ただ「ここ」という場所に留まっていたくないために歩く。風景は変わる。知らない人と知り合うことにもなる。異文化に触れて驚くこともある。しかし、入ってくるものは出てゆくものだ。残るものは何か。

或る日、人はどこかの側溝でうつ伏せに倒れて死ぬ。その脇で「それまでが人生なのです」と解説すべきか、「これからが真の人生なのです」と予言すべきか。誰もがはまり込みやすいその側溝は、出口であると同時に入口でもある。人生に意味を与える境界など無い。否、旅人が越えようと試みれば有る。

自分の心の中に悪魔がいるという気付き、ここから自立の孤独な旅が始まる。

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