「・・・無地との闘争もある。紺の無地に対しては、白旗を上げてしまう。どこにも付け入る透きがない。高貴な香り、凡俗を寄せ付けない気品の高さ、深い精神性、これらが紺の無地の特性だ。たとえ僕が蜜柑色の紙の上において、「菱形と楕円との混在」の試みを重ね、いつかささやかながらも満足を得ることができるとしても、その描線が、その象形が、そしてその冒険心が、果たして無地の紺に対峙できるほどのものになるだろうか。無地は無限の切れ目ない連続性をもって色を奏でる。色は、それが輝く色であれ、沈む色であれ、僕の、風に揺れる波紋のように実体のない無意味な線を塗り込める。白であれ、紺であれ、無地は侮れない。線で描く模様にとっては、天敵のような存在だ。月並みな偶然を打ち破るための反乱の試みが頓挫してしまわないように、僕は無地との妥協点を探らなければならない。
或る夕、僕は帰宅するために地下鉄に乗った。紺の無地を着た女性が隣の車両にいた。紺色の匂いは、周囲の烏合の衆の存在を卑小化しつつ僕の鼻先に漂ってきた。傍に近寄ると、僕の反乱する心は蕩けてしまうだろう。無地の紺の表面に、ブロンボスの洞窟人ならば、どんな模様を刻み付けるだろうか。大小の楕円形を散らすだろうか。ファッションに迷ったら、黒だろうが、紺だろうが、人は無地を選ぶのが賢明だ。部屋の片隅にひっそりと隠れたい場合も、脚光を浴びて自分の主張を周囲に浸透させたい場合も。無地に対しては、共感者は接近してくるだろうし、反発者は回避して遠ざかるだろう。僕の「混在」の試みは今後、無地との闘争を背景に行わなければならなくなるかもしれない。
無地との闘争がある。一人の乗客が着ていた意志の強い無地と比べたら、僕の堂々巡りの模様などは、模糊たる染みか音のない騒擾罪になってしまう。烏合の衆にも無視されてしまう。縦横に線を描けばいいのではない。花模様をスカート一杯に散らせばいいのではない。新奇な模様や過剰な模様も逆効果になる場合が多い。無地の部分を、あるいは何も描かれていない空間をこそ生かす方法を、僕は探さねばならない。青空という名の無地の下でひっそりと咲く小さな野の花を見よ。あの奥床しさと凛々しさだけが、無地との闘争に活路を見出させてくれるヒントを与えてくれる。これは僕の今夜の確信だ。今夜とは、6月26日のことだ。・・・」
こういう僕の戯言を一切転覆させる些細な事件が起きた。平成21年6月28日、即ち、きょうのことだ。今夜は、しかし、何も、語るまい。疲れているからだ。そして、憑かれているからだ、菱形と楕円の幻影に。今夜は、ただ、写真を掲げるだけにする。事件は、すべて、八ヶ岳山麓の平山郁夫美術館への気紛れな入館から始まった。同館は写真撮影禁止だ。僕が撮ったのは、展示作品ではなく、同館内のショップにあった美術雑誌から撮ったものだ。(本当は、雑誌から写真を無断で撮るのもいけないことだろうけれど。頼む、ここに紹介させてくりゃれ)。
布だ。菱形と楕円とを見よ。
このガラス製品は、あまりにも有名な幻の、何とかだが、
度忘れしてしまった。
菱形と楕円形とが離れているが、
一応、「混在」としておこう。
四角四面の世の中を、
丸く渡るも芸のうち。
あぁあ、ズッコイ、ズッコイ。(山際俗歌集より)
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