今のような暮らしには、常にある種の罪悪感が伴います。
それは、殺生という部分にあるのだと思います。
自給自足を目指すと、植物にしろ動物にしろ自分の手でその命を奪うわけですからね。
自分自身もかつて野生動物が市街地に出てくるとすぐに猟友会が出てきて射殺する!
そんな事実に嫌悪感を持っていた一人でした。
山菜を採っていても、薪にする為に木を倒していても、そこには常に幸福感と罪悪感が交錯しています。
ましてや釣や狩猟にはそれ以上の交錯が存在します。
自分で育てた鶏を殺して食べるとかも、してゆこうと思っていますからそこにも越えなければならない心のハードルがあります。
しかし。
豚ばら肉100g98円のバーゲンの肉には罪悪感はありませんよね。
「もっと安くならないの?」とかは思ってもそのお肉の生前の姿を思い描く人は殆どいません。
自分自身が生きてゆく過程で、どれほどの命を奪っているのか?その感覚が希薄なのが都会暮らしです。
今年の冬は根雪が早かったために、餓死する鹿が大量にでました。
山に入れば鹿の死体があちらこちらにあります。
我が家の近くにも確認しただけで10頭以上の死体があります。
その死体のおかげでキツネ、カラス、オオワシなどは楽な冬が越せたのだと思います。
「自然が豊かな場所で暮らす」とは、常に生死を目撃しながら暮らしてゆくことでもあります。
そして自分自身もリアルな生と死の連鎖の中に足を踏み入れてこそ100g98円バーゲン肉の命の重みを理解できるのかな。
日本人はUncleBeeもそうであったように狩猟を嫌います。
でも、自分が嫌いだった理由を考えるとそのリアルさからの「逃げ」だったことに気付きます。
生き物(当然植物も含みます)の命を奪う事を真摯に受け止め感謝し、罪悪感と幸福感の交差の中に生きる事が、実は健全な事なのではなかろうか?と思います。
それは、殺生という部分にあるのだと思います。
自給自足を目指すと、植物にしろ動物にしろ自分の手でその命を奪うわけですからね。
自分自身もかつて野生動物が市街地に出てくるとすぐに猟友会が出てきて射殺する!
そんな事実に嫌悪感を持っていた一人でした。
山菜を採っていても、薪にする為に木を倒していても、そこには常に幸福感と罪悪感が交錯しています。
ましてや釣や狩猟にはそれ以上の交錯が存在します。
自分で育てた鶏を殺して食べるとかも、してゆこうと思っていますからそこにも越えなければならない心のハードルがあります。
しかし。
豚ばら肉100g98円のバーゲンの肉には罪悪感はありませんよね。
「もっと安くならないの?」とかは思ってもそのお肉の生前の姿を思い描く人は殆どいません。
自分自身が生きてゆく過程で、どれほどの命を奪っているのか?その感覚が希薄なのが都会暮らしです。
今年の冬は根雪が早かったために、餓死する鹿が大量にでました。
山に入れば鹿の死体があちらこちらにあります。
我が家の近くにも確認しただけで10頭以上の死体があります。
その死体のおかげでキツネ、カラス、オオワシなどは楽な冬が越せたのだと思います。
「自然が豊かな場所で暮らす」とは、常に生死を目撃しながら暮らしてゆくことでもあります。
そして自分自身もリアルな生と死の連鎖の中に足を踏み入れてこそ100g98円バーゲン肉の命の重みを理解できるのかな。
日本人はUncleBeeもそうであったように狩猟を嫌います。
でも、自分が嫌いだった理由を考えるとそのリアルさからの「逃げ」だったことに気付きます。
生き物(当然植物も含みます)の命を奪う事を真摯に受け止め感謝し、罪悪感と幸福感の交差の中に生きる事が、実は健全な事なのではなかろうか?と思います。
あのスーパーのお肉はどういう過程をたどっているんでしょうか?
昔は場と言う所も、今は食肉加工所というキレイな言葉に変わってしまって、動物を殺すところなんか見たくない反面、見なくていいのか?と責められている気もします。
自給自足の方がまっとうだと思います。
(口ばっかりで私には見ることすらできないけど)
うちの子達はあっけないくらいに逝っちゃいましたから「もっと手が掛かってもよかったのに」って想っています。
こちらの暮らしは、暖房も食事も生き物の命がダイレクトに伝わってきます。
昨日も木を8本ほど倒してるし。
でもね、そのおかげで周りの木に日が当たって森が成長します。
鹿を食べても、鹿たちの食糧不足の緩和になります。
それによって樹皮食いの被害も少なくなり森の被害が少なくなります。
森の被害が少なくなれば鹿や野生動物たちの食料も豊富になります。
ここでは銃弾が森や動物たちを救うんですよ。