QUESTION by R.S.: 私は、なかなか物が捨てられず、そういう時に行動に移すのが遅いのですが、そんな時は自分に対して、「それで良いのよ。じゃなくて、時には、喝を入れることも大切なのではないだろうか?」と思っています。
ANSWER by Sachiko: 喝という言葉は恐れを使って何かをさせることという印象があります。もしそれが恐れでないのなら、それは何も悪いことではないと思いますが。私はその理由で喝と言う言葉は使いません。何かをしたくて、でもそれに対して不安がある、でもその事を考えるとどきどきワクワクしてしまう。そう言う時に不安を持っている自分を受けとめ、「そう言う自分もそれでよし」とまずは自分を受けとめる。それだけで不安はおそらく半分以上取り除かれるでしょう。そしてワクワクどきどきすると言う「うれしい、喜び、愛」のエネルギーを使って、「こわいけどそれでも自分はやる!」と自分を押す事ができればよいのだと思います。それがR.S.さんの言う喝であれば、やってください。恐れで自分をビビらせるのではなく、喜び=愛の力でやるのなら。 恐れている自分をより恐れさせて何かをさせるは自分を愛さない行為。恐れている自分をそれでいいと受けとめ、でも幸せな自分にもっとなれると予感する新しい事に対し、応援して後押しするのが自分を愛する行為だと私は思います。 だから、オールドエイジのやり方の「殴るような喝」は私はちっとも賛同しません。だって、それをやった後に子供性がこわがって、へたをすればトラウマになるという可能性もあると思うんです。ちゃんと子供性のケアをその後にできるのでしたらいいですが。過去っていうのは動きが「乱暴」だったんです。そういうことは私は同意できないということです。暖かく背中を押すっていうのはありだと思いますよ。上記のようにね。 でもこれは私の考えです。私の考えが正しいのではなく、R.S.さんにとって納得いくかどうかが重要です。私はスピリチュアル・コーチで、「私にはとても役に立ったので、試しませんか?」というのがあくまでも私の姿勢です。R.S.さんにとってどうかを見てみてください。
後記:「喝」という言葉に引っ張られて、その話になってしまい、「物を捨てられずにいる」という話が置いてきぼりになった感がありますね。物を捨てられないは、やはりどこかで「必要性」を感じている自分がいるはずですから、その自分をみつけ、捨てられない理由を聞いてみるという事はやりたいことだと思います。私は過去、職場に於いて、自分がやってきた仕事の資料をどんと捨てられたことがあります。自分でも大切に思っていた物だったので、ものすごいショックで、自分の一部を切り取られたような感覚になり、肉体的に弱ってしまったことがあります。仕事場の物は自分の私物ではないので、文句の言いようもなかったんですが、それが、私物であるとしたら、やはり悩むのは当然のような気がします。物を捨てられないと簡単に言うけれど、持っていたいという気持ちがある限り、自分の中に何かそれを必要としている理由があるはずです。私の親の世代などは、戦時中の物のない時代に生き、物を捨てられない人たちになっていました。それは心理的なトラウマのせいですよね。そういう親達にとって、戦争が残した傷跡をちゃんと面倒見てくれる社会はあの頃ありませんでした。R.S.さんは捨てられないということが、「おかしいこと。ダメなこと」と言われたりしていますか? 近年「ダンシャリ」が流行っているとは聞いています。でも、物というのは自分が必要だから作り出した物で、それを自分が必要だと思う理由がなくなるまで使い続け、終わった時に捨てるでよいと思うんです。もちろん捨てることの快感、って言うのも確かにありますが、何も崖から飛び降りるような気持ちで物を捨てなくてもいいのではないかと思いますよ。誰かが、これはいい、ということを試してみたいはあってもいいですが、「ダンシャリ」というものが必ずしも自分にとって正しいことかどうかは自分が決めることだと思います。それもタイミングなどもありますし、常にやることではないのではないかと思います。そして、人それぞれが違うニーズを持ち、いろいろな事情を抱えていますから、「ダンシャリ」が心底合っている方がいても不思議はありません。それを見極めるのは自分自身ですね。
ANSWER by Sachiko: 喝という言葉は恐れを使って何かをさせることという印象があります。もしそれが恐れでないのなら、それは何も悪いことではないと思いますが。私はその理由で喝と言う言葉は使いません。何かをしたくて、でもそれに対して不安がある、でもその事を考えるとどきどきワクワクしてしまう。そう言う時に不安を持っている自分を受けとめ、「そう言う自分もそれでよし」とまずは自分を受けとめる。それだけで不安はおそらく半分以上取り除かれるでしょう。そしてワクワクどきどきすると言う「うれしい、喜び、愛」のエネルギーを使って、「こわいけどそれでも自分はやる!」と自分を押す事ができればよいのだと思います。それがR.S.さんの言う喝であれば、やってください。恐れで自分をビビらせるのではなく、喜び=愛の力でやるのなら。 恐れている自分をより恐れさせて何かをさせるは自分を愛さない行為。恐れている自分をそれでいいと受けとめ、でも幸せな自分にもっとなれると予感する新しい事に対し、応援して後押しするのが自分を愛する行為だと私は思います。 だから、オールドエイジのやり方の「殴るような喝」は私はちっとも賛同しません。だって、それをやった後に子供性がこわがって、へたをすればトラウマになるという可能性もあると思うんです。ちゃんと子供性のケアをその後にできるのでしたらいいですが。過去っていうのは動きが「乱暴」だったんです。そういうことは私は同意できないということです。暖かく背中を押すっていうのはありだと思いますよ。上記のようにね。 でもこれは私の考えです。私の考えが正しいのではなく、R.S.さんにとって納得いくかどうかが重要です。私はスピリチュアル・コーチで、「私にはとても役に立ったので、試しませんか?」というのがあくまでも私の姿勢です。R.S.さんにとってどうかを見てみてください。
後記:「喝」という言葉に引っ張られて、その話になってしまい、「物を捨てられずにいる」という話が置いてきぼりになった感がありますね。物を捨てられないは、やはりどこかで「必要性」を感じている自分がいるはずですから、その自分をみつけ、捨てられない理由を聞いてみるという事はやりたいことだと思います。私は過去、職場に於いて、自分がやってきた仕事の資料をどんと捨てられたことがあります。自分でも大切に思っていた物だったので、ものすごいショックで、自分の一部を切り取られたような感覚になり、肉体的に弱ってしまったことがあります。仕事場の物は自分の私物ではないので、文句の言いようもなかったんですが、それが、私物であるとしたら、やはり悩むのは当然のような気がします。物を捨てられないと簡単に言うけれど、持っていたいという気持ちがある限り、自分の中に何かそれを必要としている理由があるはずです。私の親の世代などは、戦時中の物のない時代に生き、物を捨てられない人たちになっていました。それは心理的なトラウマのせいですよね。そういう親達にとって、戦争が残した傷跡をちゃんと面倒見てくれる社会はあの頃ありませんでした。R.S.さんは捨てられないということが、「おかしいこと。ダメなこと」と言われたりしていますか? 近年「ダンシャリ」が流行っているとは聞いています。でも、物というのは自分が必要だから作り出した物で、それを自分が必要だと思う理由がなくなるまで使い続け、終わった時に捨てるでよいと思うんです。もちろん捨てることの快感、って言うのも確かにありますが、何も崖から飛び降りるような気持ちで物を捨てなくてもいいのではないかと思いますよ。誰かが、これはいい、ということを試してみたいはあってもいいですが、「ダンシャリ」というものが必ずしも自分にとって正しいことかどうかは自分が決めることだと思います。それもタイミングなどもありますし、常にやることではないのではないかと思います。そして、人それぞれが違うニーズを持ち、いろいろな事情を抱えていますから、「ダンシャリ」が心底合っている方がいても不思議はありません。それを見極めるのは自分自身ですね。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます