以下は「ザ・リバティWeb・5月9日付クリップ」より抜粋。
さかのぼれば、琉球王国は1609年頃、薩摩藩が攻め込んで薩摩藩の属領となった。当時、琉球王国は清朝にも朝貢しており、日本と中国の2国を事実上の宗主国としていた。
明治初期、宮古島の住民が台湾に漂着し、うち54人が原住民に殺されたことを受け、日本政府は清に訴えたが、清が取り合わなかったため台湾へ出兵した。その後、日清は正式に「琉球は日本の領土、台湾は清の領土」と取り決めた。結果として日本は1879年の「琉球処分」で、琉球王国を沖縄県として組みこんでいる。戦後の1972年には沖縄県はアメリカから正式に返還され、日本の領土であることに異論を唱える余地はゼロだ。
また、以下の記事も「ザ・リバティWeb」最近の記事からの抜粋で、
読めば分かりますが、現在の日本の状況と酷似!!
元の脅しに屈することなく、果敢に迎え撃った北条時宗
日本滅亡の危機だった2度にわたる「元寇」。当時世界最大・最強の元帝国が、小国日本を占領しようと大軍隊を送ったが見事に撃退した。その勝利の背景には何があったのか。
まず、元寇の経緯を振り返ってみよう。
軍隊を送る前段階として、元の皇帝フビライ・ハンは数回にわたり日本に国書を送り、恭順を促し、「従わねば軍を送る」と脅しをかけてきた。
1268年に元からの最初の国書を受け取ったのは、執権に就任したばかりの北条時宗。このとき満17歳という若さだった。朝廷側はどう対応すべきか毎日評定を続け、返書を書いたが、時宗はこれを拒否し、一切返答を送らなかった。その一方で、元軍の襲来に備えて九州の守りを固めた。超大国の元に対し一歩も領土を譲らないという気概を示したのだ。
業を煮やしたフビライは、軍船約900隻、約3万の兵を日本に向け出陣させた。これが「文永の役」(1274年)である。
まず元軍は圧倒的な兵力をもって対馬、壱岐を侵略し、多くの島民を殺害した。その際、捕虜にした男女の手のひらに穴をあけ、ロープで船壁に並べるという残虐な仕打ちを行ったということが、史実として遺っている。
続いて元軍は、10月16日から17日にかけて平戸・能古島・鷹島を襲撃。20日には博多湾に上陸した。対する日本の武士たちは果敢に応戦する。日本軍は約1万人で元軍の3分の1の兵力、しかも「てつはう(鉄火砲)」という火薬兵器まで元軍は持っていた。だが、武士たちはそんな新兵器に対しても臆することなく突進し、陣を破られても破られても、意気衰えることなく立ち向かっていく。その勇敢さは元軍を震え上がらせたという。
一日で元軍は水城まで進軍したが、日暮れとともに夜襲を恐れて兵を退き、船に帰還した。
翌21日朝、驚いたことに元軍は博多湾から姿を消していた。夜間に暴風雨が起き、多くの軍船が衝突、沈没し、生き残った軍船もあわてて本国に引き返したのだ。