教育に限らず、多くの場面においてハイステークステストは適応されている。
ハイステークステストとは、ある基準(テスト)を用いて対象を計り、一定以上の成績を収めたものには合格や報酬が、そうでないものには不合格や罰則が与えられるというもの。
わかりやすいものは運転免許証等の国家資格の試験だが、今回は特に2001年の落ちこぼれ防止法により制定された米国の教育策を取り上げることとする。
これは(日本で言う)中学高校を対象としたもので、基準となるテストの成績を学校単位で集計、参加生徒の平均値が一定以上であれば教師などにボーナスが入り、一定以下であれば教師に追加講習などのペナルティを課すというものだ。
また、俗にいう高卒認定試験も導入され、これに合格しなければ高校を卒業することができないものとした。
諸々の提唱で生徒の成績低下を危惧した米国政府が、生徒の成績低下の原因を生徒・教員の意欲低下にあるものとし、こういった基準を設けることで無理やり責任感や意欲を抱かせ成績向上を図ったらしいのだが……
果たして、ハイステークステストに成績向上の効果はあったのだろうか?
結論だけ言えばテストに指定されたところは僅かな向上が見込めるが、損失のほうが大きいという。
確かに、理由は何であれ学習が促されているので、テスト範囲の成績は向上する。
単一の指標を持ちいることで、生徒の評価がしやすくなるというメリットもあるだろう。
だが、教員と生徒の行く先が決まるほどに結果が重いテストに順応するため学校はカリキュラムの変更を余儀なくされ、必然的にテスト外の教科が切り捨てられる事態が発生する。
これにより学習の幅が狭まり、「これからの人生を豊かにする」ための学校という場所が、テスト特化・合格優先の短絡的な場所になりかねない。テスト以外の能力に焦点は当てられず、適当な教育が施されない可能性もある。
テスト特化・合格優先の短絡的なカリキュラムはその他の学習を担保するものではなく、「テストだけ成績がいい」なんて事態も起こりうる。
また、外部からの命令による動機は学習継続を促すには不適応であり、その関係性は無視できるレベルだ。別の論文によれば、外部からの命令による動機は個人の興味関心の効果を削ぐことが示唆されている。
そもそも成績は複数の要因が複雑怪奇に入り乱れることで顕在化するものであり、単一のテストによる介入では効果量の分散が激しくなる。ハイステークステストによるものとされてきた効果が、実は「ハイステークステストを受けて州が制定した独自の救済」による効果でしたとなる可能性が非常に高く、その場合、ハイステークステストは無用の長物となる。
そして、ハイステークステストは特定のテストの信頼性に一存されており、短期的には好調でも長期的には形骸化し混乱をもたらしかねない。
このお話は賛否両論で議論の争点も多く、要点だけを連ねてもこれだけの情報量となる。
が、「局所的には利をもたらすかもしれないが、総合的には害となる」という結論は一貫して見られる。
1つのテストで図れるほど、教育は甘くないのだ。
明日以降、議論の要点ごとに補足記事を投稿する予定である。
1つの記事で語れるほど、この論争は甘くないのだ。
参考文献
AL Amrein, DC Berliner et al. (2002) High-stakes testing, uncertainty, and student learning.
Barak Rosenshine (2003) High-stakes Testing Another Analysis.
Finbarr C. Sloane and Anthony E. Kelly (2010) Issues in High-Stakes Testing Programs.
National Research Council (2011) Incentives and test-based accountability in education.
Wayne Au (2007) High-Stakes Testing and Curricular Control A Qualitative Metasynthesis.
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