十八世紀後半から十九世紀初頭の関東の農村を見ると、博徒、地芝居、遊日
の増加や無宿の横行などの深刻な治安問題を抱えていた。
近世社会の刑罰は、村制裁も幕府の刑罰も共同体からの排除が基本であり、
排除された者たちが新しい犯罪予備群を形成してゆくという悪循環の、
構造をもっていた。
無宿や博徒などの逸脱的社会層は、十八世紀末から明治十年代までの間、
かなりの厚さで存在しつづけ、絶えず社会秩序と権力支配を脅かしたのである
(安丸良夫「『監獄』の誕生」)より引用。
博徒の集団は互いに盃をかわす親分・子分の強固な関係を結びながら、
貸元である親分が「縄張り」(賭場を開く勢力範囲)を拡げ、縄張り争いが博徒集団の
衝突の原因となった。十九世紀前半の上州では、大前田栄五郎、国定忠治、島村の伊三郎などの
博徒の集団が、地域社会に一定の影響力を持っていたのである。
犯罪者の捜査や逮捕の実際面を担ったのは目明しであり、犯罪事情に通じた。
犯罪者のネットワークを利用していた。
近世後期の目明しは同心の私的な使用人であり、警察権を笠に着た地域の顔役、
寄生的存在であり、博突の寺銭、密通訴件に介入して礼銭を受け取っていたのである。
玉村宿改革組合村には様々な犯罪者がいたが、川井村の無宿政吉はその典型
であろう。前述したように、問屋の新右衛門が火附盗賊改同心の手先秀吉を
「似せ役」と叫び、萬屋佐十郎親子、関松屋三右衛門、その他大勢で打擲し、
秀吉を岩鼻役所へ引き立て牢屋へ入れてしまったのである。
召し捕らえられるはずの無宿の政古が逆に秀吉に縄をかけてしまうのである。
政吉は一八四五(弘化二年九月中に付から出てゆき、
火附盗賊改水野甲子二郎組の堀良輔に召し捕らえられ、
一八四六年に村の人別帳から外されている。道案内萬屋佐十郎の子分となり、
一八五三(嘉永六年)一月三日の夜、下茂木村佐市方へ盗みに入り
一三の品物を盗んでいる。六日に道案内の関根屋三右衛門が致吉を玉村宿の
圈に入れるのであるが、縄をかけずに入れた。
そして、政吉の悪事が次々に明らかになる。玉村宿六丁目の借家小松屋は、
前年(嘉永万年)政占に繭代一両二朱を盗まれた。