アラ還のズボラ日記

鈍頭は、煙と同じで上に上がる。

国定忠治の時代の世界では?

2017年12月13日 06時44分07秒 | 近世歴史の裏側

義賊伝説は世界中にある。ロビン・フッド伝説もその一つである。

十二~十三紀頃のイギリスにおける伝説上の義賊の一人で、緑の服を着て、

シャーウッドの森で愉快な仲間たちと暮らし、悪代官を懲らしめ弱いものを助けるために

颯爽と現われる。現存する最古の説話は、「ロビン・フッドの事績」16世紀前半の刊本)であるが、

実在の人物であるという確認はされていない。

E・J・ホブズボウム『匪賊の社会史』は、民衆にとっての義賊のイメージを次のように

規定している。

①不当な罪ゆえにアウト・ローになった。

②悪を正す。

③豊かな者から奪い、貧しい者に与える。

 

①正当防衛または正当な復讐以外に殺人をしない。

⑤許されるならば共同体に迎え入れられる。

 

⑥民衆に賞賛され、助けられ、支援される。

 

⑦裏切りによってのみ死ぬ。

⑧姿を見せず、不死身である。

⑨国王や皇帝には敵対しない(悪いのは在地の支配者、聖職者である)。

 

 このように、義賊のイメージは、自由、ヒロイズム、正義の夢、自由で平等

な仲間関係、権威に対する無頓着さ、そして弱き者、虐げられた者、欺かれた

者の擁護者などである。そこには、民衆の正義の感情あるいは正当性観念が表

われている。南塚信吾『義賊伝説』(岩波新書)は、民衆の義賊観を民衆の正義観、

権力観を示すものとして捉え、義賊を民衆・地域権力の相互関係のなかでイギ

リス型、ラテン・アメリカ型、東欧・ハンガリー型の三つの類型化を試みている。


国定忠治時代背景 1

2017年12月12日 07時56分47秒 | 近世歴史の裏側

十八世紀後半から十九世紀初頭の関東の農村を見ると、博徒、地芝居、遊日

の増加や無宿の横行などの深刻な治安問題を抱えていた。

近世社会の刑罰は、村制裁も幕府の刑罰も共同体からの排除が基本であり、

排除された者たちが新しい犯罪予備群を形成してゆくという悪循環の、

構造をもっていた。

無宿や博徒などの逸脱的社会層は、十八世紀末から明治十年代までの間、

かなりの厚さで存在しつづけ、絶えず社会秩序と権力支配を脅かしたのである

(安丸良夫「『監獄』の誕生」)より引用。

 博徒の集団は互いに盃をかわす親分・子分の強固な関係を結びながら、

貸元である親分が「縄張り」(賭場を開く勢力範囲)を拡げ、縄張り争いが博徒集団の

衝突の原因となった。十九世紀前半の上州では、大前田栄五郎、国定忠治、島村の伊三郎などの

博徒の集団が、地域社会に一定の影響力を持っていたのである。

犯罪者の捜査や逮捕の実際面を担ったのは目明しであり、犯罪事情に通じた。

犯罪者のネットワークを利用していた。

近世後期の目明しは同心の私的な使用人であり、警察権を笠に着た地域の顔役、

寄生的存在であり、博突の寺銭、密通訴件に介入して礼銭を受け取っていたのである。

 玉村宿改革組合村には様々な犯罪者がいたが、川井村の無宿政吉はその典型

であろう。前述したように、問屋の新右衛門が火附盗賊改同心の手先秀吉を

「似せ役」と叫び、萬屋佐十郎親子、関松屋三右衛門、その他大勢で打擲し、

秀吉を岩鼻役所へ引き立て牢屋へ入れてしまったのである。

召し捕らえられるはずの無宿の政古が逆に秀吉に縄をかけてしまうのである。

政吉は一八四五(弘化二年九月中に付から出てゆき、

火附盗賊改水野甲子二郎組の堀良輔に召し捕らえられ、

一八四六年に村の人別帳から外されている。道案内萬屋佐十郎の子分となり、

一八五三(嘉永六年)一月三日の夜、下茂木村佐市方へ盗みに入り

一三の品物を盗んでいる。六日に道案内の関根屋三右衛門が致吉を玉村宿の

圈に入れるのであるが、縄をかけずに入れた。

 そして、政吉の悪事が次々に明らかになる。玉村宿六丁目の借家小松屋は、

前年(嘉永万年)政占に繭代一両二朱を盗まれた。

 


竹島問題

2017年12月06日 07時35分32秒 | 近世歴史の裏側

中国で1882年に作られた韓国の歴史や地理などをまとめた書物「東藩(とうはん)紀要」に、

わが国固有の領土で韓国が不法占拠する竹島(島根県隠岐の島町)の記載がないことが、

県竹島問題研究会の調査で明らかになった。

研究会は「当時の李氏朝鮮の宗主国だった清が、竹島を李氏朝鮮の領土と認識していなかったことが分かる」と話している。
 研究会などによると、当時の韓国は李氏朝鮮の時代で、宗主国の清と君臣関係にあった。

書物は、李氏朝鮮の内乱後、清が支配を強化しようと、清の役人が李氏朝鮮の地理、

歴史、制度などの資料を集めて編纂(へんさん)。研究会関係者が昨秋、

台湾の出版社が1972年に出版した復刻版を入手した。
 韓国は、昔の地図にある「于山(ウサン)」が現在の竹島と主張。

同書にある地図「朝鮮輿地(よち)図」と「江原道(カンウォンド)図」では、

朝鮮半島の東側にある鬱陵島のすぐ東に「于山」が描かれ、

同書の説明で「鬱陵島旁有于山」と鬱陵島の近くに于山があるとした。

しかし、実際の竹島は鬱陵島の南東約90キロと離れており、位置や方角も異なる。

また、同書で示す朝鮮の範囲とする経度では、竹島は入らないという。