渡辺康幸
現在、住友電工陸上競技部監督。
千葉市立畑小学校、千葉市立花園中学校、市立船橋高校、早稲田大学人間科学部卒業。
市立船橋高校、早稲田大学のエースとして高校総体、全国高等学校駅伝競走大会、箱根駅伝などの大会で活躍を見せた。大学卒業以降は瀬古利彦の指導を受けて、日本代表として1992年世界ジュニア陸上競技選手権大会10000m3位、1995年世界陸上競技選手権イェーテボリ大会10000m12位、ユニバーシアード福岡大会10000m優勝の成績を収めた。
1996年にエスビー食品へ入社しマラソンで世界を目指した。1996年アトランタオリンピックの10000mはアキレス腱の故障により出場ができなかった。度重なる怪我により2002年に現役を引退した。
その後は指導者へ転身し、当時低迷していた母校早稲田大学競走部長距離部門の育成に取り組み、2004年に監督に就任した。
2010年の第22回出雲全日本大学選抜駅伝競走、第42回全日本大学駅伝対校選手権大会、2011年の第87回東京箱根間往復大学駅伝競走を制した。
2015年3月をもって早稲田大学競走部駅伝監督を退任、2015年4月からは住友電気工業陸上競技部監督を務めている。
高校2年時から高校長距離では無敵を誇り、1990・1991年の国民体育大会少年A10000mを連覇した。3年時には全国高等学校総合体育大会で1500m・5000mの2種目を制した。
12月1日の中央大学記録会10000mにおいて28分35秒8を記録し、櫛部静二(早稲田大学OB)の従来記録を36秒更新する日本高校記録を樹立した。
1992年4月、早稲田大学に入学した渡辺は、エンジのユニフォームに袖を通して、1年春から活躍を見せた。同じ早稲田大学の2年先輩で、三羽烏と呼ばれた武井隆次・櫛部静二・花田勝彦、1年後輩の小林雅幸の他に、山梨学院大学の留学生であるステファン・マヤカなど、渡辺の大学時代には優秀な長距離選手が揃っていた。特に同学年のマヤカとはトラック・駅伝の舞台を問わず熾烈な戦いを繰り広げた。渡辺は後に、関東学生陸上競技対校選手権大会5000m2連覇、10000m3連覇、日本学生陸上競技対校選手権大会5000m2連覇を飾るなど秀でた成績を残している。
記録上でも速い選手でありながら、とにかく強い、「勝負強い」選手でした。留学生と真っ向勝負、ガチンコ勝負を繰り広げることが出来たのは、この人だけではないかと思うほど。
期待されたレースにおいて、期待された、いや、期待された以上の結果を残す。負けない、失敗しない、強靭な選手という印象が強いですね。
まさに、臙脂に白字のWを背負いし、スーパースターと言えるでしょう。
大学駅伝で外したことがなかったですからね。ほんとに強かった。
中本さんの恩師の米重さんも、なかなかの名ランナーでしたね。
米重さんの時代は日体大の黄金時代でしたが、そこの大エースの大塚さんとの名勝負も思い出されますね。
レースのたびに米重さんに勝てなかった大塚さんが、ようやく勝てたレースが箱根の2区。コース変更された年で、その時の記録が区間記録になったが、長らく破られずにいた。この記録を破ったのが渡辺さんというのも面白いね(マヤカさんもだったか・・)。