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箱根駅伝~名選手紹介②~

2024-12-10 20:44:51 | 日記
櫛部静二
私が箱根駅伝、陸上競技にのめり込むきっかけとなった人物の一人。

城西大学経営学部教授、城西大学男子駅伝部監督。
1時間走の日本記録保持者。山口県宇部市生まれ。
宇部鴻城高等学校・早稲田大学人間科学部スポーツ科学科卒業、日本体育大学大学院修了。

 宇部鴻城高等学校3年時の1989年、インターハイ3000メートル障害において、8分54秒27の大会新で優勝。同年スーパー陸上で8分44秒77の高校記録樹立(三浦龍司が更新するまで30年間保持)。
 1990年、早稲田大学人間科学部に入学し、同期の武井隆次、花田勝彦らと共に早大三羽烏と呼ばれた。
 同大学競走部在籍1年目の1991年から箱根駅伝2区走者として抜擢される。トップでタスキを受けながらも、後半大失速するというアクシデントに見舞われる。大失速した理由として、折からの体調不良により脱水症状に陥ったと言われていた。実際は、前年末に合宿所にOBから刺身が差し入れられたものの、自身はその時外出中で食べる事が出来ず、翌日に残っていたものを食べてしまった結果、軽い食中毒になってしまったため。
 また、この時は前半から靴紐がほどけたまま走っている姿をテレビ中継の早い段階から指摘されており、大丈夫かと心配されながらの後半大失速であった。トップから14位に転落し、フラフラになりながら右に左に蛇行し、時に歩きだしたり、立ち止まり両手で顔を覆うシーンがテレビで生中継され、この大会での思い出深いシーンとなった。
 結局、次走者の花田勝彦へなんとか中継に成功。しかし、その失敗をバネに、1992年の全日本インターカレッジ10000mにおいて28分52秒25で優勝し、翌々年1993年の3年時、箱根駅伝1区(21.4km)で1時間02分09秒の区間新記録をマークし区間賞を獲得し、同期の武井隆次、花田勝彦や、その年入学した渡辺康幸とともにチームの往路優勝、総合優勝に貢献した。

 きっかけの一人と表現したのは、「トップから14位に転落」とあるように、一番は臙脂にWのユニフォームがトップで中継したこと、その格好良さからなのですよね。
 その年、「Wが一番だ~、格好良い!」といった感じで、その後は外出してしまい、フラフラになってしまった様子を直接はテレビで観ていないのですよね。
 帰宅後、祖母からその事実を知らされ、めちゃくちゃ驚いたことを今でも鮮明に覚えています。なんで???何が起こった???と。

 「臙脂に白地のW」
 このユニフォームが一番で中継した時の格好良さ(しかも区間新記録)、フラフラになりながらもタスキを繋いだ責任感など、駅伝の魅力にとりつかれるきっかけになったのが、1991年の箱根駅伝なのです。
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