コロナ感染者の増加が止まらない。
そんな中、政府は、これまで入院で対応してきた中等症患者や宿泊療養を原則としていた軽症患者を「自宅療養を基本」にするという方針を決定し、各方面からの批判が殺到している。
菅首相は目指す社会像として「自助、共助、公助」を掲げている。これらは、並列ではなく、順序が大事だそうである。
今回の突然の方針転換もその一環なのか?
さて、自助というのは「他人の力によらず、自分の力だけで事を成し遂げること」と辞書にある。
自分のことは自分でやるということに異論はない。
しかしながら、菅氏の言動には成功者が陥りがちな「自分はこんなに頑張ったから、今日がある」という精神論が垣間見える。
「成せばなる、成さねばならぬ何事も」というわけだ。
(その昔、"成せばなる、成さねばならぬ、ナセルはアラブの大統領"なんて言っていたけど、分かんないだろうなあ)
「自助、共助、公助」というのは並列ではないかと私には思われるのである。
時と場合、事情によって、まず公助、あるいは共助があって、それから自助にということも大いにあり得る。
人命に関わること、ましてやコロナ禍というパンデミックの状況下で、公助を投げ打つと思われるような自助政策は無責任極まりない。
人命は戻っては来ません。
自らの例をひとつ上げる。
認知症の母を介護しているのだが、夜中にトイレに何度も起きる。
その度に転倒防止、熱中症防止のための水分補給、着替えのために起きていなければならない。
当初は、母のベッドの近くに寝ていて、母が目覚めたら起きるということで対応していた。
自宅介護で、それは仕方ないことだと思い、ずーっと続けていく覚悟をしていた。
頑張れるだけ頑張ろうと。
しばらくして、母の診察で病院に付き添った際、そのことを担当医師に話すと、「そんなことは長続きしない、共倒れになる。ケアマネに相談しなさい」とお叱りを受けた。
今は、介護保険で家族コールを利用し、自分のベッドで寝ることができるている。
コールが鳴ったら起きなければならないのは変わりないが。
まずは、「公助・共助」でどこまで出来るかをした知った上で、自分はここまでなら頑張ることが可能性と判断すべきなのである。
どこまで出来るのか、出来ないのかを個人の判断に委ねるべきではない。
自らの例で言うと、母が起きたのを気づかず、転倒したり熱中症になったとしたら、「後期高齢者医療保険」(共助?公助?)に莫大な医療費が発生していることになる。
また、介護者がずーっと仮眠する状況から抜け出せないとしたら、共倒れとなり国民医療保険にしわ寄せが行くことに。
「公助」には、これまでの貴重な経験が積み上げられていて、各方面の専門家の力と工夫で、最適な解を求めることが可能なのである。
政府は、その邪魔をしてはならない。
国家は時の政府のためにあるのではない。
単なる、思い付きや精神論では犠牲者を生むことになってしまう。
そのことを恐れている。
責任者はどなたですか?
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます