阪神淡路大震災から15年
15年前のあの朝、毎朝出勤前はFMを聞いていたのですが、その日はなんとなくテレビをつけました
飛び込んできた映像に、声も出ませんでした
その頃は東京で働いていて、同じ部署には神戸の関連会社から来ていた同僚もいました
動揺したまま会社に行くと、社内対策本部が情報収集していました
と、そこへ、毎週神戸に帰省していた同僚二人が…
朝、いつものように奥様に車で駅まで送ってもらった後に地震があったものの、新幹線に乗ってきたとのこと…
まずは仕事を一番に考えてしまう世代です
仕事よりも家族、と、もちろんすぐに帰ってもらいました
幸い、ご家族はみなさんご無事でした
あの日から毎日、新聞で伝えられる被害状況に胸がしめつけられました
いつになったら平穏な日が戻るのか…
そんな中でも、前向きに生きようとするみなさんの姿に、ただただ感動していました
震災から数年後、元気になった神戸を見ようと旅行しました
ルミナリエで復興を願い、パワーあふれる街に、逆に元気をもらいました
静岡に生まれ、小さな頃から大きな地震が来ると聞かされて生活してきました
幸いにも、心配されている大地震はまだ起きていません
その間に、静岡以外で大きな地震が起きて、大きな被害が出ています
地震県・静岡の県民として、大切な教訓をいただいたと思っています
「父と息子と」
土砂に埋まって
さいごまで
指と指しかふれられなくて
息子は
ありがとうと言いました
この春 大学卒業だった
「妹と兄と」
まっくらななか
お兄ちゃんの手ひいて逃げました
寒かったけど運動場におりました
お兄ちゃん障害があるんです
それで
わたしが男の子で力もちだったら
お母さん助けられたのに
荷物も出せたのに
「焼け跡の夕焼け」
……オッチャン サッカーしよう
ボールけるで!けりかえしてや
まだ余震 くるんかなあ
もう何も起こらへんなあ
陽がくれたら子どもは恐いねん
もう何も起こらへんなあ
……オッチャン 家は大丈夫やったんか
子どもは助かったんか よかったなあ
ほんまによかったなあ
ボクとこなあ 家 くずれてしもてん
お父ちゃん ボクにかぶさってくれてん
「お父ちゃん」いうて呼んだとき
まだ ほっぺたぬくかったんで
死んだ顔 すこし笑っているように見えた
幸せそうな顔してた
……なんでやわかるか オッチャン
それから火事になってん
高さ三十メートルの炎が巻き上げてなあ
オッチャン見たら思い出してん
お父ちゃんとここで ようサッカーした
死んだお父ちゃんはかわいそうや
けどな
生き残ったボクは もっと苦しいんやで
ボクな 孤りになってしもた
これからひとりで生きていくねん
「母の日には」
母の日にはきびしくやさしい花束を注文しました
その訳を聞いて下さい
あの朝 バイパスを越えてくると 加納町で一変し
一車線は陥没 名物のビルが傾き 倒れて
昨日の街は消えていた
三宮センター街の私の店もつぶれていました
さっそく従業員の安否をたしかめ
出社可能な者は出てほしいと頼んだが 誰もがしぶった
最後に一人……電話口に出た母親は
「ハイ、息子はもう竜が台から歩いて行きましたよ
店がつぶれましたか……商売人がそんな弱気でどないするんです
ビルが商売するんやおまへんで 人が商売をするんです
地べたに新聞紙を敷いてでも物を売りなさい!
あんたは誰です? エッ……」
と 社長の私を叱りつけた
あれから百日余り コンテナの店が再開しました
軒下にツバメも巣を作り 雛鳥がかえりました
花束は あの時の八十歳の母親の心意気に贈るのです
翌年に読んだルポ、草木蓉子さんの『五十年目の戦場・神戸』から、写しておいたものです
こんな悲劇が繰り返されないことを祈るばかりです
万が一のその時、せめてジジの近くにいられますように… 1ジジ1ポチ いつも応援ありがとう
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