カレーです。
[2017.9:草を食べるゴールドシップさん。ビッグレッドファームは見学におすすめ。]
[2017.9:グラスワンダーさん。的場センセーが美少女化に驚いたとはいえ、撮影当時で21歳なのでだいぶお爺ちゃん]
[2017.9:エイシンフラッシュ。現役当時は凄まじいマッチョでした]
[2017.9:アグネスデジタル]
ヘロヘロです。
ほぼ全休みに仕事を突っ込まれて曜日感覚もまるでなく、
観に行ける日程で行きたい興行もあったのに、
久しぶりに体力的な理由で“見”することとなった私は、
動きたくない身体を布団の上に横たえながら、
プロレスの配信をみながらひたすらにスマホゲームをペソペソいじってました。
何をやっていたかといえば、
いきなりフッとTLで話題となっていた「ウマ娘」。
競馬好きのフォロワーの方々が話題にしていたり、
2AWの最上九選手も早速自分のプロフィールに“ウマ娘”を入れ込んだりと
目に付きまして。
まあ、かくいう私、
ウマ娘に関する予備知識は「アニメをやってる」くらいしかなく、
JRAが有馬記念に向けてのプロモーションとして企画した「ウマドンナ」との
違いすらもわかっていないくらいで、
アプリがリリースされたことも、
そもそもそのリリースが遅れに遅れていたことも
存じ上げていませんでした。
しかしまあ、競馬ゲームはダビスタに始まり、
ギャロップレーサー、チョコボスタリオン、ウイニングポストあたりは
手を出していたこともありますので、
話題になっているし、試しにインストールしてみよう…
くらいの軽い気持ちで始めました。
とんだ時間泥棒だった。
ゲームをくまなく進めた訳ではありませんが、
印象としては、
「自分でレースを操作しないギャロップレーサー」
あるいは、
「血統を気にしないでいいウイニングポスト」
あるいは、
「競馬版パワプロ」。
出てくる(美少女化された)競走馬は、
聞いた話によると権利取得に大変な時間がかかっていること、
日本競走馬生産の一大グループである社台グループが加担していないこと等から、
1990年前後〜2010年辺りまでのGI級の馬が主、というところもありますが、
何となく、その競走馬のイメージをしっかり掴んだ“美少女化”が
施されている印象を受けます。
本来のところ、馬は、人ではありません。
ありませんが、こと日本競馬の競走馬については、
その走ってきた過程、実際のレース、その他周辺のエピソードから、
何となくそれぞれの馬について、あたかも“人”であるかのような
ある種の幻想が培われてきたように思います。
(競馬漫画化のよしだみほ先生、「みどりのマキバオー」のつの丸先生が、
競走馬の“人”化に大きく寄与したことは間違いない)
もちろん、そもそも競馬は(公営)ギャンブルな訳で、
お金と人間の欲望に塗れた側面があるのことは逃れようがありません。
しかし、であるが故に、競馬に携わる人々は自身の生活と夢を馬に託し、
競馬を見る人は自身のお金を馬に託し、
恐らくは人間と同じ、はたまた人間以上の想いを、
競走馬たちに乗せてきました。
だから、こうして培われてきた幻想は…
恐らくは多くの人、
特に競馬関係者、競馬ファンにとって、共通のものとして
受け止められているところがあるように思います。
だから、例えばゴールドシップがあまりにエキセントリックなキャラクターに
描かれていることについても、恐らくは違和感がない…
どころか「現実のゴールドシップはもっと酷い」というエピソードが
ゴロゴロ語られてみたり、
ゴールドシップの担当厩務員である今浪さんが
「現実のゴールドシップより難しい」とか言ってみたり、
的場均現調教師が美少女化したグラスワンダーを見せられて
「こんなに可愛くなっちゃって」と驚いたりするわけ(?)ですね。
[2017.9:草を食べるゴールドシップさん。ビッグレッドファームは見学におすすめ。]
[2017.9:グラスワンダーさん。的場センセーが美少女化に驚いたとはいえ、撮影当時で21歳なのでだいぶお爺ちゃん]
[2017.9:エイシンフラッシュ。現役当時は凄まじいマッチョでした]
[2017.9:アグネスデジタル]
培われた幻想は、事実と結びつきながら、
人々の“解釈”によって道筋を紡ぎ、物語となりました。
その物語、幻想の発露の一つとして、
おそらくはこの「ウマ娘」というコンテンツが
生まれたものと想像します。
このコンテンツについて個人的に一つ、
幻想であるからこそ、許されること、
幻想であるからこそ、現実を超えていることがあるとも思っていて。
それは、“IF”が許されること。
サラブレッドは、言ってしまえば“もっと速い生き物を作る”という、
人間のエゴイスティックな希望(とか、欲望という、ある種の人間らしさ)が
生んだ種だとも言えなくもないわけですが、
それ故に生物としての脆さを孕んでおり、
サラブレッドたちの速さを一手に担う“脚”は、
同時に、その生命そのものを担うリスクを負っています。
…サラブレッドの脚は壊れやすく、
そして壊れた脚が元に戻れない重度のものである場合…
その苦痛に晒し続けるわけには行かず、
安楽死処分(予後不良)が取られることが、しばしばあります。
それは、どんなに強い馬であっても例外はなく、
(つの丸先生の「たいようのマキバオー」でのその悲劇の描写がおそらく
一番伝わりやすい)
ターフの上は、多くの“悲劇”にも同時に溢れるものでありました。
しかしながら。
幻想の中であれば、その悲劇の“先”を、
起こり得なかった続く世界の先を、
見ることができる、知ることができる。
ウマ娘の登場キャラクターの中に、
サイレンススズカというキャラクターが出てきますが、
そのウマの迎える“IF”に。
現実には起こり得なかったことだとわかっていても、
何度同じ物語をなぞっても。
…どうしても、私の感情は揺さぶられてしまいます。
一方で、こうした“IF”が許されるのは、
サイレンススズカという馬が、
それだけ多くの人の想いを、夢を、欲を、お金を、
…物語を、託された馬であったからこそ、
許されるものでもあるように思います。
“こうであったらよかったのに”。
その想いが事実と、幻想と、解釈と…
“IF”を紡ぐための“嘘”を紡いで作った、物語。
誰もが見たかった、続編。
人が何か別の対象に想いを乗せること。
これを“応援する”と定義するには、ちょっと乱暴かもしれませんが。
この応援するという行為は、個人的に思うところとしては、
ある種の快楽を伴っているように思います。
そして快楽の本質は、“個の喪失”と“自己の再構築”に
あるんじゃなかろうか、という気がしていて。
競馬も野球もプロレスもその他のスポーツも。
個人的にはやっぱり、没入して応援しているときは、
自分の“個”は失われているように思います。
そしてふと、何かのタイミングで。
…それは勝利かもしれないし敗北かもしれないし、
出来事や事件や技や展開かもしれない。
おそらくは、感情を伴って、自己を、“個”を取り戻し、
しばしばその目の前の出来事を解釈しながら、
その受け止め方なり何なりをアレコレしながら、
“自分”なるものを再構築していく。
…あとは、“自分の正しさ”みたいなものを妙に確認したくなるのも、
やっぱり個人的には最近の傾向としてはある気がしまして。
例えば競馬でレースを外したとき、
「どの考え方はよかった」「この結果になったのは、この見落としがあったからだ」
みたいなことを考えたり、しばしばラインをしたりツイートしたり。
プロレスで応援している選手が敗れたとき、
野球で応援しているチームが敗れたときも、
やっぱりその受け止め方を自分で考え、解釈した上で…
それを誰かに共有してもらう、共感してもらう、肯定してもらう、
…みたいな行動をしばしばとりがちだったり。
そうして、共有の空間から少しずつ少しずつ現実にもどりながら、
“自己”なるものを取り戻していく。
再構築する前よりもより、強固な形で。
…まあいわゆる“集合的沸騰”を雑な解釈であれした説明でした。
こうして培われてきた自己の中には、
見てきたもの、新たに知ったもの、これから知るもの、
応援し続けているもの、
様々な物語を内在しています。
それが過去の事象でも…
こう、言い尽くされた言い方で行ってしまえば、
物語の中で、生きている。
生き続けている。
例えそれが“幻想”であろうとも。
一度は絶たれたその物語が、
ゲームという形でまた紡がれていくことに感謝しながら。
…でも中々勝てないので…
バクシン教の教えに導かれてしまっています…
どこに行った物語…
要約すると、
軽い気持ちで手を出したウマ娘面白いよ
でオッケーです。
継承にまるで恵まれてないけど
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ID 434 060 066
バクシン…
バクシン…(中毒症状)