Are you Wimpy?

次々と心に浮かぶ景色と音。
そこからは絶対に逃げられないんだ。

★「ネット小説大賞」にもチャレンジ中★

18.決別

2020年01月31日 | 日記
牧師が乗船の手続きをしている間,僕は待合室のベンチで7upをちびちびと飲みながら寛いでいた。

目の前にあった公衆電話にテレフォンカードを入れたり出したりしながら険しい表情でドイツ人らしき親子4人が揉めている。

とうとう父親が大きな声を出して2人の娘と奥方相手に騒ぎ始めたので,見かねた僕はお節介を焼きに立ち上がった。英語で話しかけたが反応がなかったので,スロットカバーを閉じてプッシュボタンの方を指差してやるとようやく理解できたらしく,満面の笑みで礼を言ってきた。

僕にフランスのテレフォンカードの使い方を教えてくれた円山さんの笑顔が一瞬浮かんですぐに消えた。

ラースに習った「テュース」という挨拶を思い出して言うと,親子の笑顔が更に強みを帯びて嬉しそうに「テュース,テュース」と繰り返してくれた。

言葉が上手く通じなくてもこんな単純なやり取りだけで幸福が広がりを見せるのに,どうしてあの場所では同じ言葉を話しているかつての隣人同士が殺し合っているのだろう。

僕は元の場所に戻って,背中を丸めながら深く腰かけるとポケットにしまってあったお守りを取り出して両手で優しく愛でた。ガトウィックで別れる時に僕がアジャにあげた紫色のお守りには彼女の血液が染み付いていて所々痛々しく黒く変色していた。

7月と今回の2度のミッションでアジャやイレイナ,そして円山さんに会うことも叶わず失意のどん底にいた僕は,自分でも焦れったくなるくらい,まだ未練がましくもがいていた。少しでも気を抜くと,耳鳴りのように爆音と悲鳴が甦ってきて気が変になりそうだった。記憶から逃げる様にして耳を塞いで踞っていると,牧師が戻ってきて優しく背中を摩りながら出発の時間を伝えてくれた。

既に火曜日の午後になっていたがフェリーはそれほどは混んでいなかった。

僕は船尾のオープンラウンジのベンチに腰掛けフェリーを追って来る無数の海鳥たちを見上げていた。両親が投げたクッキーの欠片にまとわりつく鳥たちの様子に興奮して幼い兄弟が天使のような歓声を上げている。なぜか底知れぬ怒りと悲しみが込み上がってきた僕は突き抜ける様な秋空を睨み付けて,さっき取り出したお守りを力一杯握りしめた。

すると突然アジャの幸せそうな横顔が目の前に現れた。それはまるで幻想ではないくらいはっきりとしていて,僕は慌てて顔を自分の膝の上に伏せた。すると今度は耳元でアジャの声がはっきりと聞こえた。

「ありがとう,ソーヤン」
ガトウィックで別れ際にこのお守りを手渡した時の彼女の声だった。

「さよなら」
彼女はあの時そう言ってから唇にキスをしてくれた。

僕はしばらく声を殺しながら泣いていたが,海風が背中を優しく撫でる様に流れたと同時に船の汽笛が鳴って,ふと我に返った。

顔を上げるとさっきの子供たちが楽しそうに騒いでいる。それを幸福そうな笑顔で見守る両親や周囲の乗客たち。僕の脳みそを冷却するみたいに風が耳の中に迷い込んできて,その向こう側で船が波を掻き分けて力強く進む音とカモメの鳴き声が混ざった。空はどこまでも青く,浮かぶ真っ白な雲は僕たちの後をゆっくりと迫ってくる。僕の怒りや哀しみが急激に冷まされ温かな気持ちに変わっていった。

僕は何かに引っ張られたみたいにすっと立ち上がってラウンジの端っこまで移動した。そして操られているマリオネットの様に無意識に右手で握りしめていたお守りを顔の前まで掲げてからキスをしてそのまま空中に放った。柵の下には船が立てた白波が力強く流れて消えて行くのが望めた。紫色のお守りは風に煽られながら白波の中へ吸い込まれた。

「アジャ,ありがとう」

僕もあの時と同じように優しく囁いた。

「さようなら」

その時偶然また汽笛が鳴った。

僕は今度こそきちんとアジャを見送ることができたんだと確信した。

それ以来もう涙は溢れなかったし,あの場所から持ち帰ったはずの爆音や悲鳴は小さくなっていった。


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