サロン・ド・クロノ分社

Harmony中国茶&SpiritualCareサロン 埋蔵LOG

菩薩

2009年09月21日 | 徒然

自分の理解できないもの、
見たくないもの、
異質と感じるもの、

その怖れを感じた時、
人のとる行動はさまざま。

人間は、太古の昔から
「人種が違うから」
「思想が違うから」
「自分の思考を脅かすから」
「自分に理解できないから」
というだけの理由で

他者を拒絶し、
そしてそれだけに飽き足らずその命さえも抹消してきた。

民族紛争然り、
戦争然り、
ユダヤの血を持つ同胞を殲滅しようとしたアドルフ然り・・・(史実では否定されている)


現代はどうだ。

実際に命奪わぬまでも
相手の心を意図的に傷つけ、引き裂くことは容易い。

その一番効果的なやり方はいたって簡単、
相手の聖域を汚せばなんなくそれは事為せるのである。

そして人が人を攻撃する時の心理的一因、
「見透かされる惧れ」

真実の自分ではなく、
相手に演じていたい自分を保てなくなった時、
人は時に相手を全否定することで自己保身へと繋ぐ。


日本の誇るアニメ文化の作品には
珠玉のメッセージがわかりやすく籠められたものが多々ある。

そこからナニを受け取り
ドウ受け取るかも
読み手の「ドウ読みたいか」によりさまざま。
同じ作品でさえも、
それを読む読み手がどこに立ち、どこにフォーカスするかにより
全くその姿を変えるのだ。


すべてはその「人となり」を映し出す鏡。


そして人は

その映し出された己の姿を見つめる時、
色眼鏡無しに
等身大の自分を受け入れることが
果たしてできるのだろうか・・・


ここにきて
人の心の脆さというものを
改めて見せられている気がする。

だがしかし
もともと人とは強い心を持ったものであったのか、

否、

それが持てないからこそのこれまでの人類の歴史。。。

さまざまな怖れに対する行動パターンの
その膨大な記録こそが
人類が刻んできた歴史ともいえる。

さすれば今
時代は移り、稀有なるタイムラインに入ったといわれる今ここで
一体ナニを観させられているのであるか

“心の弱さを恥ずべきものとして己の存在そのものを否定するのは終わりに”



人は敢えて弱さをこそ持ちて生まれ
学び、体験するためにこそ今ここに在るのであると。


感情の奔流に任せた後訪れた一筋の光明



自らの身を持ちて

他者に気付きを齎し成長を促す働きに奔走し、

菩薩行する存在の

尊き魂に感謝を。

魂の本質に敬意を。


自ずと己の内に在る嵐を呼ぶエネルギーも存在理由を失う。


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