「釣りに行ったことはありますか」と聞かれたら、いつも一度だけあると答えている。
小学生のころ、友達に誘われて、近くの川へ釣りに行った。川辺に寝そべって、釣り針をつけた糸だけを垂らした。しばらくしたら、魚がかかった。さっと引き上げたら、釣り針にかかった小さな魚が苦し気にばたばたとしている。ぼくは慌てて糸を離した。
以来、一度も魚釣りをしたことがない。魚釣りをして楽しむ人たちの話を聞くと、「おい、お前は楽しいかもしれないが、魚は楽しくないぞ、苦しいだけだぞ」と言葉には出さないが、心中軽蔑してしまう。
もしも神のような存在があり、時々、人間を釣り上げているとしたら、どうだろうか。稚魚のような若い人が、また、油の乗った働き盛りの人が釣り上げられたりする。いろいろな魚の種類があるように人にもいろいろな人種があって、神が楽し気に言っているかもしれない。「今度はどういう種類の人を釣り上げた」とか、次は「こういう種類の人を釣り上げてみたい」などと言う。そんなことを思っていたとき、金子みすゞの詩「大漁」を読んだ。浜辺では喜んでいても、海の底では葬式だ。
たいりょう
あさやけ こやけだ
たいりょうだ
おおばいわしの
たいりょうだ
はまはまつりの
ようだけど
うみの なかでは
なんまんの
いわしの とむらいするだろう
ようだけど
うみの なかでは
なんまんの
いわしの とむらいするだろう
アイヌの人たちは、熊を狩りながら、熊を神として崇めている。職業として釣りをする人たちは漁を決して楽しんでいるのではない。生きる糧として漁をするのだ。狩猟をスポーツのように楽しむ姿はおぞましい。SF小説には人間が人間を狩猟する時代が来ることを示唆している。人間狩りがスポーツになったら、と想像するだけで恐ろしいと思う。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます