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"跡" を 辿って。

若林城 跡 | 伊達氏 の 居城

2016-08-10 13:00:00 | 城館跡等

宮城県仙台市若林区古城2丁目3




別名       仙台屋敷構( 幕府造営許可名 )
築城・廃城年   1627〜1636年( 寛永4〜13 )
主な城主     伊達政宗


近隣河川     平渡戸川( ひらわたどのかわ = 梅田川 )・広瀬川 ( 名取川水系 )
最寄街道     東街道( 奥州街道 )、石巻・塩釜街道( 原町、水運関係有 )

 
構成       南の丸、西曲輪、出曲輪、山里( 的場・築山 )、櫓
主な遺構     土塁、水堀の一部、臥龍梅




たった 8年 しか使われなかった豪壮優雅な城、それが 若林城 だ。 " 仙台輪中( 城下町 )" の外、田畑や草原の中に円墳・前方後円墳等 古代からの遺跡が点々と残るド田舎の朴訥な風景、その中に 仙台藩祖伊達政宗 は自らの 隠居城 を設けた。 " 一国一城令 " そんなもの知らぬと言わんばかり、盛り上げた 土塁 は 高さ 約 6m(二丈余)、の幅 約 54m(三十間、二重・三重と設けていたようでおそらく大外の堀のサイズと思われる)。 隠匿 と 拒絶 を 強く意識した造りと見て良さそうだ。 " 仙台屋敷構 " であると幕府に造営を願い出たのは機転の利く官僚のなせる技だろう、その書類・図面上には表現していないニュアンスで竣工させていると思われるのは「 館の西に杉を植え堀一重を残して田畑にすべし 」という政宗の遺言にも明らか。 西は大手口、残した最内の堀は用水路並のショボい規模だったであろう、城は実際に見られてはいけない様だったに違いない。





近世初頭の城郭技術の到達点 にあると言われる同城、東西約300m・南北約520mとさすが広大だ。前述の通り 大手口 は 西側、内枡形 の典型的な形態・塀 2mの高さで守りを固める。そこを無事通過すると面前には張り出した形で玄関が迫り来る、履物を脱いで建物に上がればそこは政治の表舞台・西曲輪 だ。そのまま東進して突き当たると東南方向には短い渡り廊下で繋がる小型の建物が設けられている。そこからさらに短い渡り廊下を経て南進すると、生活の場・南の丸 に到着だ。 西辺と南辺にを設え、西からまたさらに短い渡り廊下で繋がる別棟が用意されている。なんだか東側は昼間用、西側は夜用と言わんばかりのイメージ、建物と塀との間は " 白洲 " 、一面に玉砂利が敷かれていた。警備の面での機能性も計算され尽くされていたように感じる。





さて、建物群の北側、いやおそらく正確には 北東域 は、的場築山 のある 山里 と呼ばれた、ある意味娯楽スペースだったらしい。野点 等の出来るちょっとした高台は石垣を用いてまで作られた程の凝りようだったそうだ。その南には今も毎春に花を咲かせる 臥龍梅 があり、南の丸東側の借景を彩っていたであろう。ダイニングがここにあったらさぞと思われるレイアウトである。








ところで、政治の舞台・西曲輪 は何故中心的な存在であるにも拘らず 西 と呼ばれたのだろうか。 推理するに、本丸・二の丸と呼称しないことで城であることを表向き否認、並びに西が大手なのでそこからすぐ入れる屋敷だから西曲輪。南の丸は単にその南にあるとの意図だと思う。





政宗はここに住まう以前( 慶長年間 )、花壇 (青葉区花壇) に居を構えていた。 仙台城 は 山城、普段の生活で往来するのはやはり面倒だし疲れるのだ。 2代目・忠宗 に表向きな政権を委譲したことも手伝って、以前の領主である 国分氏 が 古来から隠居の地とした 小泉村 のこの地に住まう事にしたのだろう。


政宗の転居に伴って家臣たちも 若林城 周辺に移転した、ゆえに商人たちも移ってくる。若林城下には直ぐに街が出来、奉行所が置かれる程の成熟を見せた。 若林城 は南北列が 11° ばかり東に触れている、今でも地図を見ると、北は 連坊小路、南は 南材木町・河原町、東は 遠見塚古墳の西側・中倉、西は 荒町 までが 東に 11° 程触れており、若林城を基準とした町割りであった事が明確である。




さて、政宗没後 遺言通りにするため後世代たちはどう処したのだろうか。




まず、西曲輪。 主要な建物は、仙台城二の丸 の 大台所 に移築したらしいことが度々の発掘調査を経て裏付けられたそうだ。 大手口より外に設けられた山門は 松音寺(仙台市若林区新寺)の山門として移築、他の門(北か東かの何れか)は 家臣の 茂庭氏 が 拝領、 西曲輪にあったかもしれない 某書院 は 政宗廟・瑞鳳殿 の御供所に?、黒書院 は 泉屋庄右衛門( 解体移築の功労大工? )の屋敷へ移築されたそうだ。








突貫で田畑を装った城跡は 44年の月日を経て 1680年(延宝8)、藩の漢方薬の栽培畑である 御薬園 に指定された。発掘調査では、17世紀前半の陶器( 志野・織部・瀬戸・美濃・唐津・備前 )、肥前の磁器等の高級品の出土とともに、御薬園の畑の畝と思われる遺構も確認されている。小泉村 に属するもずっと藩の管理下にあって一般の立ち入りは厳しく制限されていたが 1742年(寛保2)になって漸く " 仙台輪中 " に編入、城下の飛び地として昇格した。翌1743年(寛保3)と 1856年(安政3)に 堀の北側( 南側は既に溜池化 )の 修理 を幕府に願い出ている。そして明治維新後も伊達家の所有地となっていたが、1879年(明治12)宮城集治監 の敷地として接収され、宮城刑務所 の現在に至っている。















臥龍梅

国指定(昭和17)天然記念物「 朝鮮ウメ 」。政宗 が 朝鮮出兵文禄の役、1953年・文禄2 )の際に持ち帰ったとされる。樹齢は220年以上、360年とも推定されている。この古木の兄弟分や子孫が宮城県内各所にあるとのこと。







瑞巌寺 境内 造営時、政宗が手植え。左白・右紅( 臥龍八房 )、宮城県天然記念物
瑞鳳殿 再建の際、若林城の臥龍梅から接木
大願寺 瑞巌寺の後継寺で政宗の灰塚がある(青葉区子平町)
・ 高等裁判所 (家臣邸跡?、のちに原田甲斐邸跡地)
・ 西公園 櫻岡大神宮付近(家臣邸跡?)
・ 片平公園 (家臣邸跡?、正確な場所不明)
・ 青葉区柏木の個人宅(家臣邸跡?)
・ 聖ウルスラ学園敷地内(法領塚古墳有、若林城下家臣邸跡?)










登場文献 『 政宗記 』、『 若林所々御普請之覚 』、『 治家記録引証記 』、『 古御城絵図 』、
『 木村右衛門覚書 』、『 節翁古談 』


解説設備     ほぼなし
整備状況     なし、宮城刑務所敷地


発掘調査     1984〜2006年(昭和59〜平成18)までに8回、仙台市教育委員会、他




ちなみに今回の画像は、ブラタモリ #13 仙台 「杜」と「都」( 2015年7月18日放送 )放映にインスピレーションを得ている。




【 その他参考資料 】行人塚( 現・古城神社 )




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