宮城県黒川郡大和町吉岡字館下88 ・ 大和町吉田字一ノ坂28 ・ 大和町吉岡字天王寺184-20
別名 なし
築城・廃城年 1616年~幕末
主な城主 伊達宗清( 政宗の三男、1616年〜 )〜但木土佐成行
知行等 38,000石( 宗清時 )〜1500石( 奥山氏・但木氏 )
近隣河川 洞堀川・吉田川(吉田川-鳴瀬川水系)
最寄街道 奥州街道・出羽街道・松島街道(分岐点)
構成 不明
主な遺構 なし
井戸跡 不明
下草古城 から移転して新たに構えたのがここ、吉岡城だ。元和2年(1616年)のことである。
まさに江戸初期である 1616年(元和2年)に、伊達政宗の三男・伊達宗清が石高 3万8000石で築城。周辺に侍屋敷、足軽屋敷を整備し寺社も移転、その他町割を上町、中町、下町、伝馬町として設置するなど城下町を宿場町として、体裁を整えたらしい。( ちなみに 岩出山城 は 四男が領主 )
城跡の標識が立つのは、おそらくの本丸跡。 町民のための複合施設「陽だまりの丘」地内だ。 ここは現在大和町役場近くに立地して郡部を管轄する大病院・旧黒川病院の、跡地だったとのことだ。同地内は字名が「館下」で、館(やかた)の下町的な意味合いを示すが、ここ周辺の町内会名に「城内」や「館(やかた)」があって、城域はかなりの広さであったことがうかがえる。( はたまた、もっと古い時代の城域の構成が字名になっているのか。いやいや、周辺を考えると標高や地形的、井戸的にも難しい気がするのだが、どうだろう。)
ひだまりの丘中心部
仮称本丸跡の西側にあり 字名・古舘 に立地する 大和町民研修センター(体育館など)の、道路を挟んで西隣は、陸上自衛隊大和駐屯地 並びに 官舎が並ぶ。このような広大な敷地を確保する施設が建設しやすかったのは、城跡に民家が進出しづらかったからではないかと推察される。
そして館下の南側は、広範囲になだらかな坂になっている。下草古城側から見れば「良い丘」( = 吉岡 )に見えたに違いない。この坂の下かつ城跡標識の南域には、隅櫓を模した建物のある(「城内大堤公園」)公園があるが、この建物はあくまでイメージして建てられたものだ。園内の池は水堀とも言われているが、近隣に用水路や 洞堀川 が流れているので、ここは普通に池でもあったのではと感じる。公園の東隣は馬回しをしていたような場所の地名が字名として残っていたとの情報もあり、( 東下蔵・西下蔵 なども近くにある )さらにその東、宿場街との境には、武家屋敷の名残を思わせる立派な民家が残っている。
そうそう、写真は取らなかったが、先程の研修センター北西の地域の一角には、道祖神たちが集められていた。そこから北側は、坂を降って宿場町外となり、奥州街道と出羽街道との分岐点へと誘われる。 町の境、それが如実に表現されている場所というような気がした。
吉岡宿・殿、利息でござる!
一方、城の東側は、奥州街道のなかでも県内ではかなり大きな宿場町・吉岡宿 である。近年、映画化された「 殿、利息でござる! 」 ( wikipdia=殿、利息でござる! )でも有名だ。
宿場南口には奥州街道から松島街道へ至る街道の分岐がここにもある。そして町内を通る街道の鍵型は三つもあって相当な街並みが構成されたことが伺える。家並みや各戸の敷地の様子は今なお宿場のそれを色濃く残すが、令和になって、住み替えが顕在化し、アパートが立ち並ぶようになったようだ。
こんな城と街の主人・伊達宗清 は若くして(34歳)で死去し、城下・宿場町ともに南東にある 天皇寺 に、殉職されたお供の方々とともに葬られた。彼は側室の息子としては次男であり、彼の兄・長男は、伊達政宗の長男でもあったが側室の息子であったため 初代・宇和島藩主 として分家となった 伊達秀宗 である。ふたりの母は、「飯坂の局」とも「新造の方」とも言われる。いずれも別人で前者は吉岡にて(~1634、66歳)没し、後者は江戸屋敷で(~1612)没しているが、NHK大河ドラマ「独眼竜政宗」 の 原作者・山岡荘八 によって政宗の寵愛を受けた「猫御前」として一緒くたに描かれた。実はこの天皇寺、猫御前の墓として地元の方々に愛されてるそうだ。……「 猫御前 」???
猫御前いや飯坂の局の墓
こちらが伊達宗清の墓
あっ、そうそう。 "利息でこざる" には伊達家の殿様として 羽生結弦 さんが出演されているが、吉岡城の伊達家の殿様・宗清は1代で若くして亡くなっているよね、じゃ、羽生結弦選手の役って何者…??? 「国恩記」は、今から250年ほど前の話だというから、1770前後。明治元年は今から150年ぐらい前だから、ほぼ江戸末期の話だね。 もう、江戸のシステムは効かなくなってきていたから起こってきた話なんだろうなあ、じゃ、羽生結弦さんの役は、吉岡城主(但木氏)でなく仙台藩主の方じゃないのさ。(そりゃ、そうだよね。。。) すごいじゃん、「国恩記」。。。
(追記 ; 天皇寺にある池、実は豊臣時代の土木技術として残されてるのがとても珍しいらしい。詳しくは現地看板にて。また、庫裡も相当すごい文化財で、要は炭素年代を測ると江戸時代になるってんだから、この町の文化財は意外にすごい。。。庫裡としては松島・瑞巌寺に次ぐものであるとのこと。)
但木土佐成行
ところで、江戸後期の吉岡を納めていたのは 但木氏で、幕末の城主は、但木土佐成行。彼は仙台藩の奉行です、かなり偉い人物、奉行にもなったりやめたりを3度も繰り返していて、要するに、藩主から「やっぱり」と乞われて就任することになってる優秀な人物と言えます。彼は、戊辰戦争に詳しい方なら別方面の意味で知られていますよね、え??? 新選組・榎本武明・河合継之助ら とはもちろん違いますよ、奥羽越列藩同盟側の実務の方、です。 明治になって死刑となっています、痛ましいですが……。
但木氏の現代の末代は、但木敬一氏(在任2006〜2008年、第三次小泉内閣指名)。彼もほぼ毎年命日の祭礼におとずれているここは、吉岡城主・奥山常辰により建立とあるから、但木よりも前、"奥山"時代の創建なんですね。この山門も当時からのものらしいですよ、何気にこっちもすごいですね。
土佐成行招魂碑は、表は、勝海舟 の手によるもの。(裏は 富田鐵之助 ……幕末の仙台藩士で明治期の外交官・実業家・日銀第二代総裁・東京府知事) 敵に味方に、いろいろな方面から暗に明に気遣われていたのだろうことがうかがえる。
保福寺蔵の肖像画
しかしまあ、なぜ会津は譲らなかったのだろう、松平容保が頑なだったのか、それとも側近か、いや幹部全員か。 いずれにしても、東北は会津を守るために奔走した気がする。 それがいかなる結果をもたらすことになったとして、歴史の大転換期に力を尽くした但木土佐の気持ちは無駄ではなかったと思いたい。 流れは変えられなかったし、変えたとしてどうなったものではない気がする。
勝海舟の筆による招魂碑
辞世の句にある雅号の意味は、七つ森の木こり。 彼の幼少に関しては何も残されてはいないが、そう称するほど地元の山々を愛してたに違いなことが伝わってくる。( 七ツ森 に関しては、この記事のコラムが詳しいので参照されたし )
雲水の 行衛は何処 武蔵野を 只吹く風に まかせたらなん < 七峯樵夫 >
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