宮城県仙台市泉区実沢字六堂屋敷
別名 山邑城?
築城・廃城年 不明~1570年(永禄13・元亀元)
主な城主 不明
近隣河川 七北田川
最寄街道 八乙女~実沢・根白石間
構成 不明
主な遺構 曲輪、他
井戸跡 不明
『 仙台領古城書上 』によれば、山内須藤刑部 が 1558~1570年(永禄元~13・元亀元)に居城とあるようだ。 山内須藤氏 とはいかなる人物か。 東には 長命館、西に 八乙女館、北には 八乙女氏の菩提寺の 熊野神社 が立地している。いずれもごく至近であり、単独の領主であるとは地政上も理解し難い。八乙女氏 同様 国分氏 家臣なのだろうか。
山内須藤(山内首藤)氏
藤原北家 秀郷流 首藤(須藤)氏 一門、後三年の役でも活躍した 鎌倉幕府 御家人。
土佐 山内氏 を筆頭に、日本全国に子孫が散らばっている。
奥州の 山内須藤(山内首藤)氏 は、葛西氏 に滅ぼされた系統と、蘆名氏 傘下の系統、伊達氏 傘下の系統の大きく 3つに分けられる、らしい。
仙台市史・仙台市 HP 掲載の史実によれば( 若干 "盛られてるな" と主観的に思う部分を除くと )、1584年(天正12)に 山内須藤刑部 は 根岸城(大年寺山、仙台市太白区茂ヶ崎2丁目)で 結城七郎 と戦い、山野内館・杭城館 へ敗走、福岡( 仙台市泉区、杭城館近隣 )で自刃したとある。
宮城郡誌 によれば、山内須藤刑部 は 源頼朝 の家臣で、定安 の子孫・定信 が 結城氏朝 との戦いを繰り広げて 1586年(天正14)に自刃したとあるそうだ。
他に、山内須藤刑部少輔定信 の生没を 1558~1592年(弘治4~天正20)とするものもあるらしい。
一方、葛西氏 の一族・末永氏 を考察していると見られるブログ には、1511~1513年(永正8~10)に起きた 永正合戦 で 葛西氏 と 山内須藤(山内首藤)氏 が(桃生郡/旧河北町で) 領地を巡って争った形跡が描かれており、ここで 山内須藤氏 は滅び、落ち延びた者が 国分領 に亡命したとか 寺崎氏( ←大崎氏の誤植?) を頼ったとか その後の諸説 を挙げている。
他方、会津側を見てみれば、蘆名氏 は、あいも変わらず家内の統率に苦心していた。16代当主・盛氏 亡き後の 1584年(天正12)、政宗 が家督を継いだ 伊達氏 の南進にも脅かされている最中、後継が側近に暗殺されるという大事件が起こった。そして 蘆名氏 が名実共に滅ぶ 摺上原の戦い は、この僅か後 1589年(天正17)のことである。
会津の 山内須藤氏・嫡流の 氏勝 は、1589年(天正17)の 摺上原の戦い では、蘆名氏 が 佐竹氏側に落ち延びてから軍を動かすなどしたり、それ以前の小競り合いにも参戦しなかったりしており、その微妙にタイミングをずらしたり無視したりする具合から、蘆名氏 には完全服従していなかった様子も窺える。
因みに、藤姓国分氏 の祖先である 陸奥長沼氏 が所領したのが 陸奥長江荘 の 現 会津田島(南会津町)。会津の 山内須藤氏 が所領したのが 同じく 陸奥長江荘 の 現 只見町・金山町・三島町である。
さて、ここまで列挙した説のどの辺の 山内須藤氏・庶流 がこの城に " 関係 " したかは自由に想像するとして、実際に居住していたか否かについてここでは疑義を呈しておきたいと思う。
『 山内須藤刑部 は、(行き着く先の)根岸城 辺りで戦闘したものの戦局芳しくなく 山野内館 にて戦陣を立て直そうとしたが失敗、山深い 杭城館 へ逃れたが敢え無く玉砕、首だけは取られまいとしたのか、泉ケ岳方面(仙台市泉区福岡)へ分け入り自害(須藤坂)した。亡骸は近くの 林泉寺 に葬られている。』
尚、城跡北西には 万人渕 がある。明治26年の調査で良質な炭酸が湧き出ている事が分かり、大正時代にはラムネ工場の 大日本鉱泉(株)が稼働していた。(昭和15年には飛行機の消化剤を製造する軍工場に。) 現在の登城口付近には工場で使われていた井戸跡も残っているらしい。伝説では、山内須藤刑部 が敗走した後投身した家中子女らの恨みが泡となって出続けていると言われるが、後付けの話でしかないだろう。敵に追われているというのにわざわざ招き入れるかの如く居城に戻るバカな殿様はいないのではないだろうか。
登場文献 『 安永風土記 』、『 封内風土記 』、『 奥羽観蹟聞老志 』
解説設備 情報標識若干有り
整備状況 山林、階段状登山道若干有り
発掘調査 不明
参考 site 「 山内氏勝の墓について 」みちのく悠々万歩計 より
「 昭和村の歴史 」(福島県大沼郡)
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