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"跡" を 辿って。

加美中新田駅・中新田駅 跡 | 仙台鉄道

2015-06-30 15:00:00 | 鉄道跡・廃線


仙台鉄道 加美中新田駅 ( 宮城県加美郡加美町町裏180-1 )



JA四つ葉 の 葬祭センターのある所が、加美中新田駅。ここに以前は エンドーチェーン 中新田店( 西友 中新田店 ) があり、加美郡一帯の住民の食と暮らしを支えた。中新田高校に通う生徒達も大いに利用したと思う。





【 エンドーチェーン 】について参照

〈東照宮駅 跡〉 〈吉岡駅 跡〉






仙台鉄道 廃止後の路線は、宮城交通バスに引き継がれている事が多いが、仙台駅~吉岡~中新田 の 鈍行バス がつい最近まで運行され学生達の足を支えていた。現在でも 高速バス、仙台駅~加美・小野田 線が継続して運行されている。







城生柵

加美中新田駅の北西にある 国史跡。「菜切谷廃寺跡」の発掘によって存在が明らかになった「 」だそうだ。 往時は何と呼ばれていたかは不明なため、地域名が付けられた。

」とは、中央政府公認の移民が暮らすようになる住宅団地のようなもので、移民達には政府直轄の仕事が課せられていた。

前出の「 色麻柵 」は『 続日本紀 』にあるように、出羽国を攻め易くするための道路( 鍋越峠 )の開削・整備と言う指名を帯びていた。 ここ「 城生柵 」は何もかもが不明。しかしもしかすると、色麻柵 からさらに 鍋越峠 に近づいた場所に移転して作業を進め易くするためだったのではなかろうかと勝手に推察する。










仙台鉄道 中新田駅 ( 宮城県大崎市古川新堀旭町 )





駅前のタバコ屋 は、キザワ商店( 宮城県大崎市古川新堀旭町457)かな。奥の JR西古川駅 左手の住宅地となっている所が 終着中新田駅 だ。旧古川市に所在するのに 中新田 としたのにはかなりの拘りがあったためとか。物流として荷物は JR に引き継ぎ、加美農(加美農業高等学校)や 中新田高校、古川市内の高校に通学する学生たちがたくさん利用した。



ちなみに 加美農 は、2011年3月11日の東日本大震災で津波被災した名取市の 宮農(宮城県農業高等学校)の学生たちを受け入れて授業をしていた。



▪️ 参考資料
〈 中新田駅 車両 〉


……



四竃駅・鳴瀬川駅 跡 | 仙台鉄道

2015-06-25 15:00:29 | 鉄道跡・廃線

仙台鉄道 四竃駅 ( 宮城県加美郡色麻町四枛木町 )



駅前のタバコ屋 は、廃業に近いようだが Google Map 上にも記載のある 佐々木たばこ店( 宮城県加美郡色麻町四竃北谷地61-1 )と見える。 そして駅跡は、農協の倉庫 が現存、今となっては美しくさえある。JA四つ葉 と 色麻町役場の西側の道路は "線路"?


















仙台鉄道 鳴瀬川駅 ( 宮城県加美郡加美町赤塚 )







線路は鳴瀬川に架かる国道 457号線の橋より東側を通って川を渡り、鳴瀬川駅 に到着する。 駅舎は現在の「ミニストップ中新田赤塚店(宮城県加美郡加美町赤塚367-1) 」の南にあった。 最近まで橋脚跡が残っていたらしいのだが、今はもうきれいさっぱり何もない。





加美農に通う生徒が沢山利用したらしい。汽車の不具合や滑りが起きれば、加美農の生徒が降りて汽車を押したり線路を歩いて通学したりしたそうだ。





四竃駅 後の向かい、タバコ屋のある色麻町役場の場所には、【 四竃館 】と言う城跡があったらしい。 今となっては遺構は少しも確認されない状態だが。




……

王城寺原駅・加美一ノ関駅 跡 | 仙台鉄道

2015-06-20 15:00:49 | 鉄道跡・廃線

仙台鉄道 王城寺原 ( 宮城県加美郡色麻町大下新町北 )



新町駅 を出た 線路 は田圃を北東へと走り抜け、色麻町 北大村 地区の 王城寺原駅 に到着する。出羽街道・国道 457号線沿いには 農協の倉庫 や 鶏卵出荷施設など JA の施設が集積しているが、駅跡からは若干離れているのでいくばくかの不自然感を覚える。( 今の「 ローソン色麻上新町店 」周辺、宮城県加美郡色麻町色麻町大上新町147-1 )



しかし、この駅は 物流拠点 と言うよりは 人の輸送が主体であったと考えられる。 不確かではあるが、今の 積水ハウス(株)東北工場 のある場所に昔は 陸上自衛隊 の 宿舎 があって、出張や帰省に頻繁に使われたらしい。 人の往来の多い所に経済活動は集中する。 宿舎自体がひとつの街のようになっており、さらに宿舎で働くスタッフも地元から雇用され、かなりの人が往来していたと思われる。








仙台鉄道 加美一ノ関駅 ( 宮城県加美郡色麻町一の関台通 )



駅前の タバコ屋 は、出羽街道・国道 457号線 筋の、竹荒商店(宮城県加美郡色麻町一の関台通11)だろう、駅はここより西側にあった。 この集落は、河童伝説 で有名、駅東側の「 磯良神社 」には、河童のミイラ化した腕 と言われる物体が保存されている。 実際に河童が人馬に悪さをしていたと言い伝わる川に架かる橋の欄干には、河童の石像が飾られている。



ところで、王城寺原駅 と 加美一ノ関駅 の間はさもない田園風景が広がるだけだが実は、凄い遺跡跡なのである!





色麻柵

宮城県内で 奈良時代の遺跡 というと、多賀城(宮城郡多賀城市)、郡山遺跡(仙台市太白区郡山)、吉岡東官衙遺跡(黒川郡大和町吉岡東)の 3つが思い浮かぶが、色麻柵 もそのもうひとつに数えられるそうだ。

『柵』は「き」 と 読み 『城』も「き」と読んだ。 『柵戸』とも表現され「さくこ」・「きのと」・「キヘ」・「キノへ」などと呼ばれていたらしい。

色麻柵 は要は、中央政府の者だと名乗る大勢の余所者が勝手にやって来て、地元民の土地だったところに勝手にキャンプを張って居座り役所 みたいなものまで作って、挙げ句の果てに連れて来た兵士達の住居まで建てて要らんのに周囲を開拓し出し…。 次第には大昔から住んでいたかのように地元に馴染んでいってしまった、というもののようだ。

多賀城 は 政府の支店だが、色麻柵 は 支店の分店の出張所 みたいなものだったと思う。 ここで働いた 武装開拓移民(鎮兵)は、現代で言う 出稼 の 土方 とか、奈良時代版の 屯田兵、みたいな。 宮城と山形を結ぶ 出羽街道( 鍋越峠 ) の開発・整備がメインの仕事だったようだ。 大半が 土着 したのだろうと思う。( 昭和の戦後も、満州帰りの開拓民が入植している土地柄でもある。)

そんな当時の 色麻 は、リアルタイムに全国的に紹介されている。 記録が少なくつい最近のことですら分からない事が多い東北の歴史の中で、奈良時代 に編纂された 日本国の正式書物 続日本紀 』に 記載があるのだから物凄いことだ。 715年(霊亀元年)に 関東で起こった大地震による難民をここを含めた東北全域に移住させようとした話や、蝦夷対策に朝廷が 多賀城 を置くその前哨として 播磨飾磨 (兵庫県姫路市)の住民をここに移住させたので、飾磨繋がりで 色麻 と命名されたのだろう話などが読み解けるらしい。

色麻柵 は、この 加美一ノ関駅 の南側、愛宕山( 宮城県加美郡色麻町四竃東原1-40 )の 北斜面から駅東側の田圃までの広大敷地にあったらしいが、さすがに往時を彷彿とさせるような遺構などある訳はない。 ただ、色麻町 を含む加美郡民のルーツの一部が 関西 にあるなんて何だか不思議な気がする。


北側斜面頂上付近から南側を望む。グラウンドゴルフコースや人工芝サッカーグラウンドがある。北側は採石場。





大衡駅・本町駅 跡 | 仙台鉄道

2015-06-15 15:00:48 | 鉄道跡・廃線


仙台鉄道 大衡駅 ( 宮城県黒川郡大衡村大衡字河原 )



大童駅 を発した 線路 は、保存状態の良いまま、地元 people に 文字通り " 線路 " と呼ばれたまま、田園の中をより安全な通学路( 車両進入禁止路 )として毎日利用され親しまれている。 Google Map では 途中 途切れ途切れで表示されている "線路" だが、実際通行してみればきちんと 人 と 二輪車 は通行できる。


さて、そうこうしているうちに 大衡駅 へ到着。ここの駅跡もまた、農協の倉庫 らしき施設がある( 改築された米の冷蔵庫?)。





大衡駅 前 と 奥州街道 ( 国道 4号線 )を結ぶ道。ここの空中を、亜炭が飛んでいた( 空中輸送 )というから、どれだけモーレツな活気を帯びていたんだろうかと往時を思えばワクワクする。 駅の並びの住宅のひとつに、大童駅 同様、簡易郵便局 が置かれていたらしい( 株式会社 松川土木 向かい、現在は国道 4号線 桜井輪業向かいに移転 )。 それほど ここも 集落の中心地だったのだろうが、今はその面影すら全くない。





大衡駅 前、廃業して暫くなる今も " タバコ屋さん " と地元民に呼ばれる家が、駅向かいにあった( クリームの外壁の家 )。何となく 路面側に、商店だった間取りの面影が継承されている気がする。





大衡駅 を過ぎると、線路 跡 は 田圃の中に消える。 左に視線をやると、針薬師堂 が見えた。





849年(嘉祥2)悪病が蔓延するこの里に 東北巡鍚中 の 慈覚大師円仁 )が立ち寄り、波利山妙法寺 を開山。自ら彫った 薬師瑠璃光如来 を安置し祈祷して救済したとの伝説が残っているらしい。 慈覚大師 と言えば、山形の 立石寺・平泉の 中尊寺・松島の 瑞巌寺 など有名な寺を数々開山した高僧。847年に唐の修行から帰国したようだが、その 2年後には辺境の地・東北を行脚しているとは本当ならばもの凄いことだ。





国道 4号線沿いに、大衡村立大衡小学校 針分校 跡 を見つけた。今となっては珍しく貴重な 二宮金次郎 像 も残されていた。







……



仙台鉄道 本町駅 ( 宮城県加美郡色麻町大永嶋 )



大衡駅 を 過ぎ 加美郡色麻町 に入ると 駅 は、出羽街道沿いの 色麻町 と 加美町 の主要な集落( 旧村中心部近く )に置かれる。



本町駅 跡は、大村浄化センター(宮城県加美郡色麻町大永嶋102-3)の北にある鉄塔のある所にあった。 昭和後期の 空撮写真 には不自然な畦の形がのこっており建造物があったことを物語っていたようだが、今は農地改良が進んでおり、ただの田圃、見る影もない。往時は新町地区の住民が中新田までの通学や買い物に出るので使われ賑わっていたらしい。



ここから用水路に沿うように、王城寺原駅 へと線路は進む。




大童駅 跡 | 仙台鉄道

2015-06-10 15:00:48 | 鉄道跡・廃線



仙台鉄道 大童駅
( 宮城県黒川郡大衡村大衡字大童55 )



吉岡宿 を出てすぐ 奥州街道 から分岐した 出羽街道( 国道 457号線 )と、線路 は斜め交差して 大童駅 に到着する。 ここに踏切があったと想像すると( 無かったかもしれないが )楽しい。 駅跡 手前にはこれまた例外なく タバコ屋( 酒屋、石川茂平商店 )も現存、駅務もこなしていたらしい。










ここが、駅。石川茂平商店向かい。 駅の東側地区 にある 出羽街道 筋 の廃業した商店を指して、「 あの旧酒店は昔から "茶屋" と呼ばれていたんだよ、簡易郵便局もその辺にあったし。」と見知らぬ人に教えていただいた。 なるほど、出羽街道 から来た人たちにとっては、ここは 奥州街道 へ合流する前の 一休み処 だったろうし、奥州街道から来た人たちにとっては、登坂(難所)前の 一休み処 だったのだろう。駅が置かれるほどこの集落が栄えていたことは、学校があったことからも容易に推察できる。







駅向かいの 旧大衡小学校跡。グラウンドにはバックネットらしきものと得点盤があるが、マウンドの跡形もない。つい最近まで残されていたと言うプール(村民プール)跡には、新しくコミュニティーセンターが作られたのだとか。校門は前述の茶屋のすぐ前辺りにあったらしい。






線路 を挟んで 石川茂平商店 に隣接する(当時として)垢抜けた古民家は 空き家のようだった。往時、駅における人や物の流れによる恩恵は如何程だったろうか。 ページ冒頭の写真は、保福寺 裏手の藪から出る 線路 跡 だが、大童駅 以北も同様に保存状態の良い 線路 跡 が続く。







どこかで見たサイトでは " 木製橋 として健在 " していたころの写真が掲載されていた 木師橋 跡。この橋の手前に 大童簡易郵便局 は新設移転(プレハブ的)されていた。







写真中央は、大衡村立 大衡中学校。杢師橋 は、近くに出来た 黒川消防署大衡出張所 の安全網を考慮して、車両が通れるように架替られたそうだ。ゆえにここだけ、線路 から少しばかりズレている。 しばし田圃の中を行く 線路 跡 をそのまま歩き、ふと 大童駅 方面へ振り返ると、左手に 大衡城跡 が見えた。











ちなみに、2016年6月10日、NHK BS の 人気番組「 日本縦断 こころ旅 」の とうちゃこ版放映されましたが、主演の、火野正平さんがここを、この線路跡を通られました。 スタッフの方々はここがアイオン台風でダメになった線路跡で、今は通学路専用道路となっていることを知らなかったでしょうし、googleのマップも、途切れ途切れで表示されているので、サブ的な通行路も考えられていたと思います。けれども、結果的にここを通行してくれたこと、なんだか、感慨深いです。映像も大変キレイでした。


……