居館 岩切城、利府城 → 一関城・金ヶ崎城、水沢城
所領変遷 宮城県仙塩地域 → 岩手県一関・水沢地域
知行 20,000石(18代 政景、1604年 : 慶長9)
時代 平安後期(1187)~
家祖 伊沢 左近将監 家景
代々 初代~18代 + 水沢伊達氏 12代( 30代 留守邦寧 )
出自(本姓) 藤原北家 道兼流
家紋 菊桐
通字 家、(宗・村)
著名な人物 9代 家任、12代 詮家、18代 (伊達)政景
内訌 12代 詮家、17代 顕宗
入嗣 伊達家( 14代 郡宗、16代 景宗、18代 政景、22代 村任、23代 村景 )
水系 七北田川水系 → 磐井川(北上川水系)
隣接領主 黒川氏、葛西氏、国分氏/南部氏
登場文献 『 吾妻鏡 』
研究文献(系図等) 『 平姓国分系図 』、『 古内氏系図 』
棟札等記録 不詳
家祖の
家景 は、
藤原道長 の兄・道兼の五世末裔と伝わる。 家景 については 『
吾妻鏡 』の 1187年(文治3)2月28日の条に、
「 右近将監家景、昨日京都より参着す。文筆に携わる者なり 」
とあるらしい。
源頼朝 が
奥州藤原氏 を討伐する
奥州合戦 の 2年前、京都から 多賀の国府 に、
陸奥留守職 (
官僚 )として赴任した。 子の 2代 : 家元 から
留守 を名乗った。
南北朝時代、留守氏は当初南朝方だったがあっさり
北朝方 に転ずる。
鎌倉幕府以前の朝廷から遣わされた立場である事を思い出したとか、北東で隣接する
葛西氏 が鎌倉幕府と懇意であったことも影響しているかも知れない。 1351年(観応2)、
観応の擾乱 が起こると 8代 :
家冬 は
足利尊氏(北朝側)に就いていたゆえにホームの
岩切城 に
畠山高国・国氏 父子を 迎え南朝方の
吉良貞家 と 戦う、が惜しくも陥落。
この
観応の擾乱 以降、留守氏は
平姓国分氏 と小競り合いを続けたと理解されているようだがどうだろうか。
平姓国分氏 は 南朝方だ、下向して土着していたら 尊氏 の政権下、駆逐されていてもおかしく無いのではないか。同じく 南朝方 であった北の
葛西氏 を一掃しようという勢いで 尊氏 は 1354年(文和3/正平9)、
斯波氏(
大崎氏 )を送り込んでいる。
1353年(文和2)南北朝時代の史料( 8/29付 奥州管領・
斯波家兼 の下僚が命じた文書 )に現れる「
国分淡路守 」は 現在、
平姓国分氏 を指したと考える説がほとんどだが、情報化社会の今とは違う当たり前の混乱であろうと感じる。ここに出る
淡路守 は、
留守氏 のことではないだろうか。 留守氏 は、国の施設である
多賀城 や
陸奥国分寺 も管轄させれられていた職、家督が 淡路守 を名乗る事が多かったが、東北版 観応の擾乱 の勝者である 国分氏 と 名が取り違えられただけと言う気がする。
さて時を経て、伊達家からの 3度目の養子に 伊達政宗の父 :
輝宗 の弟( 18代 :
政景 )が迎えられて遂に留守氏は
伊達氏 を名乗るようになる一方、
奥州仕置 で 領地は没収。 政宗の補佐役・重臣を務めて数々の功績を挙げ、1604年(慶長9)
一関 2万石 を与えられた。 19代 :
宗利 時代には
金ヶ崎城・
水沢城 も拝領、
水沢伊達氏の祖 となった。
幕末を迎えたのは 通算 30代 :
邦寧 の時。
水沢伊達家 は
陪臣(幕府から数えて家臣の家臣)だからと
士族籍 を許されず
帰農 を命ぜられた上に、
水沢城 も明け渡すことに( 水沢県庁 )。
留守 へ 復姓 した 邦寧 は病身のため仙台に残ったが、せめて 士分 を保つためにと家中一同は北海道開拓へ。現在の 札幌市豊平区平岸 に入植した。
尚、仙台市内の住宅街には今も 留守 と表札のある民家が散見される。そういえば、米どころ・水どころの宮城を代表する酒蔵のひとつ、
勝山酒造 の代々は、
伊沢家、何か関係があるのかもしれない。
菩提寺 大安寺( 岩手県奥州市水沢区東町2、18代 : 政景 )
※
虎哉宗乙 賛 による 珍しい肖像画が収蔵されているらしい。
戒名 18代 : 政景/大安寺殿高嶽玄登大居士
22代 : 村任 は、子の 23代 : 村景 に家督を譲って 新設の 中津山 城主 に転出している。 中津山領 は現在の石巻市(旧 桃生町 の 中津山・寺崎・城内・新田・給人町・神取・高須賀)、気仙道 沿いで 寺崎宿 があった街だそうだ。
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