宮城県黒川郡大和町鶴巣字下草迫
別名 鶴楯城・鶴巣館
築城・廃城年 1530年代~1590年( 奥州仕置 )
主な城主 黒川景氏( 黒川氏 6代 )〜 黒川晴氏( 月舟斎、9代 )
近隣河川 竹林川( 鳴瀬川水系 吉田川支流 )
最寄街道 奥大道( 多賀城〜岩切〜利府〜鶴巣〜吉岡 )・奥州街道
西に分岐/根白石、難波・吉田方面
構成 不明
主な遺構 主郭、他
井戸跡 不明
このあたりの街道は、多賀城開府よりそこを中心に四方八方へ拡がっていたひとつであるが、時代・政府が変わると機能しなくなった役所をすっとばして豊かな街々を結ぶようになる。
坂上田村麻呂 時代 は、塩竈 ~ 利府 ~ 富谷(大亀山)~(大和町)宮床 ~ 吉田 ~(大衡村)大瓜 ~ 柧木(はぬき)~ 楳田 (うるしだ)~ 駒場 ~(大崎市三本木町)伊賀 ~ 三本木 ~ 古川(大崎市)という、橋( 川越え )の出来や状態がわかりやすい道筋だった。 それが次第に平安の時代になると、多賀城府~吉岡官衙とほぼまっすぐに整備された。そりゃ、物流しやすもんね。御所館 時代はそれで良かったが、時代を経るごとに多賀城は経由せずともよくなり、より平野部の村を結ぶようになっていくのは必然であったろう。根白石 ~ 野村 ~ 宮床 を結ぶ街道に近いここ 鶴巣城 へと移転する方が便宜上よくなったのではなかと思われる。
実は、平安時代から鶴巣城のすぐ下・北部平野に、下草古城 はあった。 おそらく城と一体化した街として。 豊かできらびやかな街であったろうそこは、黒川氏の来る以前から栄えていたものと推測される。 地域の富の象徴である街を眼下に眺める場所に居を移したたのは、御所館の北東に 大衡城 の築城を計画してたことも影響したと思われる。( 大衡 治部大輔 宗氏 は、黒川6代 : 景氏 の次男 )
左側中央部に下草古城の街があった。
下草古城は右側、右端が鶴巣城の山すそ。
黒川景氏( 6代 )
黒川景氏 は、1484年(文明16年)の生まれだが、血筋は黒川氏ではない。 実は 飯坂清宗( 伊達氏庶流 )の子である。当時、東北南部で急速に勢力を拡大していた 伊達稙宗( 仙台藩祖・伊達政宗の曽祖父 )によって、黒川氏第5代当主・黒川氏矩(うじのり)の 養嗣子として1519年(永正16)までには送り込まれていたようだ。 ( 上洛し、景氏の嫡男・稙国に対して将軍・足利義稙より偏諱を賜っていることから、この年(35歳?)までには入嗣していた模様。 )
この景氏は、1536年(天文5)には大崎氏( 当主・義直 の際 )にて 長期にわたる内乱のはじまりが発生し、反乱軍・古川持熈 の拠点・古川城 を 討って滅亡させた。そして大崎氏の家臣である高泉氏 や 氏家氏 を降伏させて内乱を鎮めている。この時、大崎義直 は 伊達稙宗 に事態収拾の援助を随分と前から要請していたのだが、稙宗 は それを放置しており( それにより大崎家中では主人が不在となるなど混乱を増幅させた ) しばらくして 鶴巣城 の 景氏 を派遣することにして事態を収めたのだと思われる。 景氏は派遣当初から、伊達稙宗 の子息・義宣 を 大崎氏 に入嗣させる命をも帯びており、要するに大崎家中の鎮撫の一切を任されるという信頼の厚さで任に当たった。 1542年(天文11)伊達家 で 稙宗・晴宗 親子の数年間に及ぶ争乱、天文の乱( 別名、洞の乱 - うつろのらん)が起こると、景氏は無論 稙宗派に就くものの敗北。しかし同じく稙宗派に就いた 大崎義宣(入嗣した伊達稙宗の子息)や 葛西晴清 らは討たれたり当主の座を奪われたのだが、不思議なもので景氏は実質無罪放免だった。 そんな彼は、その後大崎氏(本家)の 義直 の 実子である 大崎義隆 が家督を継承したこともあってか、大崎氏家臣の 百々氏、高城氏 などに娘を嫁がせ、また高城氏 や 一迫氏 からは娘をもらうなど、ゆきすぎるほどの政略結婚を行って、あちこちに気を配るという一面を見せている。そして景氏は 1552年(天文21)4月15日、享年69で没した。( 家督は嫡男・稙国が相続した。)
黒川晴氏( 9代 )
それから時を経て、9代・黒川晴氏 のときにこの城は最も隆盛を迎えていたのではないだろうか。(7代稙国・晴氏父、8代稙家・晴氏兄) 一方伊達家当主は 晴宗 から 輝宗(仙台藩祖・伊達政宗の父)に移行した頃で、黒川晴氏 は 愛娘・竹乙姫(鳳仙院)を 伊達政景( 留守政景・輝宗弟、晴宗の三男、1567年3月7日・岩切城主 )に嫁がせることに成功していた。また、男児に恵まれなかったため 大崎氏 から養嗣子をもらい、その正室にこれまた 伊達晴宗の弟(亘理元宗)の娘を迎えるというトリッキーな婚姻政策を取るなど、祖父・景氏の配慮手法に倣っていた。これらによって、近隣の勢力である 留守氏・大崎氏 との結びつきをさらに深められている。 かなり平和で豊かな時代だったのではないだろうか。
平和であるのは、自分の才能をも認められたからにほかならないだろう。晴氏は 月舟斎 と号すとともに智勇兼備の将として名高かった。1584年(天正12)に伊達家の家督を 政宗 が相続すると、政宗は父・輝宗 の外交方針に反して 上杉景勝 と結んだことにより母の兄・最上義光 と対立する形となっていた。 黒川氏にとってはつまり、近しい親戚(養嗣子の実家)にある 大崎氏の 大崎義隆 は、最上義光 の義兄に当たるので、これが徐々に微妙な立場になっていくのである。
そんな折だ、大崎氏家臣で伊達氏との連絡窓口である 氏家吉継( 岩手沢(岩出山)城主 )が、政宗 に救済を申し込んでいた。原因は、黒川晴氏の祖父の 景氏 時代の、大崎氏のあの内乱のきっかけである新田頼遠・その一族で 大崎義隆 の側近・新井田刑部。その者を巡って 氏家氏 と 大崎義隆 が対立することになってしまったとのことだった。 1588年(天正16)、政宗は( しぶしぶ??? )内紛鎮圧を決定。( しかしもちろん自らは動かず、)浜田景隆・( 黒川晴氏の娘婿の)留守政景・泉田重光・小山田頼定らに鎮圧出兵を命じた。( それでなんとか落着すると思っていたのだろう。)
伊達の軍勢の出兵を受けて、大崎義隆 は 守将に 南条隆信 を据え 中新田城 を防衛拠点と定めて籠城戦を展開することにした。黒川晴氏は( 伊達家の庶流でもある家柄として養嗣子の大崎でなく )娘婿・留守政景 の応援の立場として一応参戦した。桑折城(大崎市三本木町)にて、第三者視点でもって様子を伺っていたがしかし戦況は思わしくない。 晴氏としてはおそらく " 大崎軍は籠城だ、中新田が消耗するまでは結構かかる、幾分耐えるだろう " と思ってたのではないだろうか。 けれども伊達軍は誰もが全く思わぬ作戦を実行しはじめて勝手に苦戦しはじめるのだ。・・・なんと泉田重光率いる先陣が、あろうことか中新田城にそのまま突っ込んでしまう。天気は大雪、知ってるものは絶対にやらないが、知らないが故に( 調査もせずに安易に )やってしまって思わず目を覆ってしまう笑うに笑えないような状態、低湿地帯で身動きが取れなくなってしまっているのである。 これには籠城している大崎軍もしめしめ、返り討ちをしてくれようと当たり前に反撃に出るものである。 そこから逃げるべく伊達軍が踵を返せば、桑折城は何もしなくても挟み撃ちする格好の位置関係。あらら、大崎方に寝返ったような形になってしまった。潰走して新沼城へ向かう伊達軍に大崎軍は追撃、黒川軍はそれに飲み込まれる形で仕方なくその新沼城を包囲する格好。その包囲された伊達軍の中には娘婿・留守勢が含まれている。・・・こうした経緯で、晴氏は無双な伊達軍に初めて「敗戦」を突き付けることになってしまったのだろう。まぁ仕方ない、泉田重光らなのだから、という訳で敗戦の将である 泉田重光、そして 長江月鑑斎勝景 を人質にして手打ち、戦後処理をすることになり、もちろん娘婿・政景も助け出すことには成功した。
月鑑斎と月舟斎
以上はまったくの私論だ。 泉田は戦法が安易だったので晴氏はとにかく気に入らなく、切り捨てたかったのだろう。しかし 長江月鑑斎勝景 は 留守近隣の領土( 奥州桃生郡南方 - 現石巻市の 深谷保郷 )を 鎌倉時代から治めるきちんとた家柄の知将、年齢を重ね頭も丸めて坊主(僧侶)になっており、人間として達観してる等との噂も届いてただろう、葛西晴信 ・ 相馬義胤 からみた義兄でもある。 もしかすると留守家の家臣から入れ知恵があったのか、それとも本人が過去にトラブルを経験していたのか、相当な因縁か何かがあったのかもしれない。 それに、歳は違うが同時期に名を馳せる 月舟斎 と 月鑑斎 だ。互い何もないわけがない気がする、意識してない知らないという方がおかしい間柄であろう。月舟斎晴氏はその 月鑑斎 を人質として吊るしあげることとなった。
月鑑斎(当時60歳頃)は、最上氏より派遣されこの内乱の戦後処理一切を取り仕切った 延沢満延 の説得に応じて、伊達氏への離反を勧められこれを受諾したとされる。 ん?離反??? 泉田もそれ以外の虜将も、護衛の騎馬兵までつけられて自領へと帰る月鑑斎を見て不思議がっていたようだが、月鑑斎自身はその空気感、不自然さに気づかなかった。この地域の伊達軍の師団長との自負もあったろう。 戦前同様このあとの戦後も、伊達家への気づかいを欠かさず、摺上原の戦い へは 伊達軍援勢として鉄砲隊を送り込んだりもしていたそうだ。そしてそれから随分経って、いつ、どのように、何を知って、どう考えが変わったのだろうか。。。
一方、この地域の武将がほとんどそうせざるを得なかったように月鑑斎の長江家も、小田原征伐 に参戦せず 奥州仕置(1590年)によって没落していった。 その後政宗 が 国替え直前のお披露目のため( という名目で!?)岩出沢城( 岩出山城 )にて宴席を開くという。。。それに 黒川月舟斎晴氏も、長江月鑑斎勝景も、ともに招かれながら、どちらも、( 当然ながら?! 不気味がって?! )断固として、欠席をするのである。
「 " 残れたものども " の嫌味かと、こっちは子々孫々地位も名誉もゼロになり明日食う米も心配というのに。 」そんな気持ちは政宗には届かない。月鑑斎はお迎えも遠くないかなりの高齢にかかわらず、激怒した政宗の命を受けた 秋保氏一族 の 馬場定重・頼重 父子によって捕らえられ幽閉され、そして殺害されるという最期を迎えたのだった。 この点を 月舟斎 とそのまま比べられてしまうのだが、長江月鑑斎勝景 の場合は、葛西・大崎一揆(1590~91年)の主犯人物たちとの関連を取り沙汰され、とばっちりを受けたこともあったと思う。( もしかすると、葛西・大崎一揆 を 伊達政宗の謀略であると豊臣方に告げ口しその証拠とする書状をも偽造した"主犯格"も 月鑑斎 であると、政宗は思い込んだのかもしれない。) 政宗は結局 " 大崎家 " のせいで面倒なことに散々巻き込まれ、先祖代々守ってきた山形・福島の旧伊達領を奪われた、いわばその旧大崎領に国替えさせられるということを、あの宴席で関係者、宮城県勢全員に見せつけたかったのだろうから。( 岩手沢城 はその後 岩出山城と改名、1601年(慶長6)青葉城を築城するまで12年居城した。)
奥州仕置 と 葛西・大崎一揆
あの時代のこの地域にとっては運命の 奥州仕置(1590年)。その後すぐに起こった 葛西・大崎一揆 にて 黒川家は、下草城 を会談の場として差し出している( 正確には黒川領ではなく既に伊達領になってはいるが )。 10月16日蜂起した一揆がすぐに大崎領内全土へと拡大した。豊臣家臣の 浅野長吉(浅野長政)が大崎の新領主(木村氏)の救出を 蒲生氏郷 と 伊達政宗 に命じたため、10月26日に 氏郷 と 政宗 のふたりは 黒川郡 下草城 にて会談、「11月16日より共同で一揆鎮圧にあたる」ことで合意した。ところが、前述の(偽の書状の)混乱が生じて政宗は四苦八苦し、蒲生氏郷も政宗に背後をとられないよう神経を尖らせることを余儀なくされることになった。 ( 政宗が 下草城 にて 氏郷 を毒殺しようとし、氏郷が自ら用意しておいた解毒剤を飲んで助かったとの説も解かれるほど事態は緊迫した状況だった。) 結局政宗は、氏郷が会津へと帰還するために、一門の重臣である 伊達成実(はとこ)・ 国分盛重(叔父・輝宗弟)の両名を人質として差し出さざるを得なくなったのであった。
この事件を境に、黒川郡は完全に 黒川氏 の手を離れ、伊達領として62万石の一翼を担っていく。下草城以外の鶴巣城、大衡城 は廃城となり、吉岡城 に政宗三男の 伊達宗清 が、宮床 には 仙台2代藩主・伊達忠宗の八男の 伊達宗房 が入る。
さて 月舟斎 はどうなっただろうか。 あの時に月鑑斎同様政宗の手の者に捕らえられていたが、伊達家の血筋であり伊達政景(留守政景)の懇願もあり、 西田中( 仙台市泉区西田中、今の泉ビレジや住吉台地区 )へ移封(隠居)となって余生を送ったそうだ( この近く )。 月鑑斎 とはまったく違い、時に政宗が 根白石 の 祖母の墓所 や 鷹狩に立ち寄った際などの話し相手になったとの逸話もちらほら残ってるとか。 争いや出世などから離れのんびりと草花を愛でて過ごしただろう。ここでもそれなりに幸せに過ごせたろうと感じる。
そうそう、根白石 は もうひとつの 白石城 があったとして伊達家にひっそりと伝えられ、城主は 白石参河 として秘されてきた模様だ。 『 宮城郡誌 』には 白石参河 について「 黒川安藝 守晴 氏の弟 」と記されており、この城跡には実は、黒川 月舟斎 晴氏 の孫にあたる 黒川季氏 の墓 もある。 また、永安寺( 泉区福岡字寺下2 )を、仙台2代藩主・忠宗が狩りをした際に眺望絶佳のこの場所を見つけて松島瑞巌寺中興の祖・雲居(うんご)禅師を招いて開基させたのは、有事の際に仙台城裏手から郷六 ~ 根白石 ~ 宮床 ~ 富谷 ~ 大郷 ~ 松島 ~ 北上川 ~ 県北 へと逃れる脱出ルートを整備するためだったとの説も取りざたされる、たぶんその通りだろう。
ちなみに、 根白石 で晩年を過ごした 政宗 の 祖母・裁松院 は、久保姫( 窪姫、笑窪姫 )の名で知られた 岩城重隆 の娘で当時 奥州一の美女 と言われた。当初は結城家(白河)への輿入れが決まっていたが政宗の祖父・伊達晴宗があまりの美しさに強奪して文字通りの略奪婚となったのは有名な話だとか。
登場文献 『 水沢大衡氏系図 』、『 報恩寺旧蔵黒川系図 』、『 宮城郡誌 』
解説設備 特になし
整備状況 山林、若干の獣道が草刈りされ倒れる場合があるらしい
発掘調査 不明
参考資料 鳴瀬町史、矢本町史、伊達政宗に睨まれた二人の老将 他
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