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"跡" を 辿って。

和田氏( 朝比奈氏 ) | 桓武平氏三浦氏流

2015-08-10 13:00:00 | 氏族 考察
城         不明( 鎌倉の杉本城? )
所領        相模国三浦郡和田・和泉国和田・安房国和田などの説
役職        鎌倉幕府の初代侍所別当 


時代        鎌倉初期(1100年代)〜1213年



家紋        七曜紋
著名な人物     初代・和田義盛、朝比奈三郎義秀



登場文献      『 曽我物語 』、『 吾妻鏡 』、他
研究文献(系図等) 不詳
棟札等記録     不詳




和田氏は、桓武平氏三浦氏流。三浦半島を本拠とした氏族だろうか、平姓直系なのは確からしいが、祖は良文流なのか良兼流なのか特定が極めて困難だそうだ。和田氏の祖はその三浦義明の嫡男・杉本義宗で、彼は横須賀市衣笠町にあった山城・衣笠城を出て六浦路・三浦路を抑える要衝である鎌倉の杉本に城を構えたようだ。杉本城は義宗の次男・義茂が継いだ。




義宗の長男・義盛は三浦郡和田に拠点を構えて和田氏を名乗った。どういうことか、当時サムライたちの系統を増やすためか、関東は特に長子分家にして名前をどんどん増やしている気がする。(時代は違うが足利氏なんかもそうだよね?)




和田義盛源頼朝 の挙兵に従い戦功を挙げて幕府の有力な御家人となり、三代将軍・源実朝( 二代執権・北条義時〜鎌倉殿 )の頃まで側近としてサムライの長官(侍所別当)として地位を確立しており、実朝が整備した体制・13人合議制のひとりでもあった。つまり長老で武力のトップ。

















そろそろ義秀が後進に道を譲ろうかという 1213年(建暦3)、9年前( 1204年 )に暗殺された鎌倉幕府二代将軍・源頼家 の忘れ形見を担ぐ計画のウワサが持ち上がる。なんとその謀反の首謀者は、和田義盛の一族中の数人であるとのこと。義盛本人は全く関係がないが、事の重大さやこの頃の家督相続、権力争いの凄まじさを加味してなのか、立場上この責任を取らされる形で鎌倉殿・北条義時 の屋敷を襲うことを余儀なくされ、さらに鎌倉では市街戦を展開するなど、壮絶な2日間の "和田合戦" をするに至った。




この時、和田義盛 の三男・朝比奈三郎義秀 が奮戦している。朝比奈氏を名乗っているのは安房国朝夷郡を領地としたかららしい。一族中彼だけなぜか鎌倉時代の歴史書 「 吾妻鏡 」や 他の軍記物 にも記述があり、また 木曽義仲 の妾で 超有名な女性の武将・ 巴御前 の孫にあたるという説もあって実在らしからぬ様相を呈している。二代将軍・頼家の面前では海へ潜って三匹ものサメを捕らえたり、自分の兄(和田常盛)との相撲対決を披露する関係だったことなどが何かのマイナス要因としてプラスされたろうか。それこそ和田合戦時には謀反人扱いの和田家だ、朝比奈自身数々の友人や従兄弟などと戦場で合間見えると討ち取ってしまうこととなり、それはそれは悲痛だったろう。最後に弟や父が戦場に倒れると、自分は船6艘500騎の共とともに敗走脱出したという。





その後の彼の消息は不明と言われている。( しかし 500騎弱とともに安房には流れ着いているはず、味方に逃がされたに違いない。高麗へと逃れたとする公式文書もあるらしいが、それは隠遁させるための大袈裟な目眩ましにしか見えない。)和田氏〜朝比奈氏は一応ここに全滅したこととなった。












確かに 和田合戦 で落ち延びた和田氏一族の中には、越後黒川氏 となった系統(桓武平氏系)があるそうだから、これが朝比奈と共に逃げた一行なのかもしれない。不思議だがそれとは地域別の 陸奥黒川氏 (清和源氏系)の本拠地周辺( 日本三景・松島 の近隣地域 )には、朝比奈三郎義秀 が伝説となって超人的人物として現代までに語り継がれているのである。( ちなみに朝比奈の父・和田義盛は、奥州合戦の褒賞として仙台市南部の名取市辺りを拝領していた。)









伝説はこうだ。他所から来たある若者は自然災害で米の収穫に恵まれないこの地域を嘆き、ある日ある時沼を掘り西側の土地へその土を捨てた。来る日も来る日も繰り返すうち若者は徐々に巨大化し大男となった。


その若者こそ 朝比奈三郎。沼は品井沼となり、足跡は吉田川(鳴瀬川支流)、捨てた土は七ツ森となった。そしていつしか力尽きた大男は横たわりカラダは周辺の里山と一体化して消え失せた。背負っていた籠は、七ツ森の中の一番小さな独立峰的な山・たがら森になったという。





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ここに、朝比奈三郎が作ったとされる七ツ森のほぼ全景が( 店の借景として )取り上げられている。七つポコポコと小高い山が連なっていて、なんともほのぼのしている。伝説が本当だと思えるような姿だ。





品井沼は、現在は存在しない。なぜなら明治期にこの地域の名物村長・鎌田三之助 によって干拓されている。JR東北本線・品井沼駅 近くのちょっとした湿地帯や、河川に施された様々な時代の土木工事跡がその面影を少しだけ今に感じさせてくれるそうだ。( また蛇足だが、宮城県の治水は 伊達政宗 の指示による大規模土木工事により管理されたものが殆どなのが実情である。)


それから、七ツ森は鎌倉時代に出来た訳ではないし、しかも、奥羽山脈のこの地域の最高峰・船形山や泉ヶ岳( いずれも休火山 )よりもかなり古い、それこそ恐竜などの時代に匹敵する地質らしいので念のため。




※  他に、朝比奈三郎 が 薬莱山( 矢喰山 )を作ろうとした時に こぼれた土によって七ツ森が出来たという説もあるようだ。








菩提寺       不明(群馬県長野原町応桑、
           栃木県下都賀郡壬生町上田) 


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