2020年4月19日(日)「祈りの家」
竹前 治 牧師
聖 書 マタイによる福音書21章12-17節
それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」
境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」
それから、イエスは彼らと別れ、都を出てベタニアに行き、そこにお泊まりになった。
ある日、主イエスは祈るために神殿に行かれました。神殿とは現在の教会であるといえます。主イエスが神殿の境内に入られると、両替人や鳩を売る人たちが商売をしていたのです。神殿で用いるための犠牲の動物が売られており、神殿の当局もこれらの収益を得ていたのです。
主イエスはこの光景をご覧になられ、商人たちを追い出し、彼らの店をひっくりかえしたのです。商人たちは、神殿当局の承認を得て商売をしていたので憤慨します。主イエスは言われます。「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている」と。主イエスの言葉は、神殿(教会)がどのような場所であるかをはっきりと示しています。それは祈りの家と呼ばれるべきであると。だれがだれに向かって祈るのか。それは人が神様に向かって祈る場所、それが神殿であり教会なのです。
またこの物語にはとても大切な意味が隠されています。商人たちは、神殿に来る人たちに犠牲の動物を売っていた。旧約では罪を犯した時、償いの献げものとして動物が用いられていたのです。犠牲の動物を焼き尽くし神様になだめの供え物をするのです。つまり罪を犯すごとに、繰り返し動物の犠牲を献げていたのです。
しかし主イエスは罪の赦しをお与えになるために、たった一度の完全な犠牲として、ご自身を神の小羊として献げられるのです。この時は、まだ主イエスの十字架、犠牲の時ではないのですが、やがて来たるべきその時には、人間の側からではなく神様の側から一方的に完全な犠牲が献げられるのです。それゆえ、もはや人間からの償いの献げものは必要なくなるのです。
境内での商売を容認し神殿を人間の思い中心としていた神殿当局。しかし主イエスは神殿を、神様中心とするものへと変えようとされたのです。
教会は人間の思いが支配する場所ではなく、主なる神様が支配される場所です。私たちはこの場所(教会)に集められ、神様から恵みの奉仕を受け、私たちは祈りをもってそれに応答していくのです。
礼拝で、教会に招いてくださった神様のみ言葉を聴き、罪の赦しの宣言に感謝の祈りを献げる。そして新たに創造されて新しい歩みへと出発する祈りをします。
礼拝のすべては、祈りによって構成されているのです。
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