昨日は、友人と一緒に予てよりチケットを入手し、楽しみにしていた「神田伯山独演会」の日であった。
しかし、台風2号の影響で外は「雨」、そろそろ出掛る準備をしなくてはと思っていると、突然の「強風&大雨」が・・・
おまけに「大雨警報」が出た。
そこで、もしかすると ” 公演は中止 ” と思いつつ、会場である「ルネ小平」のTwitterを見ると、16時過ぎ時点では「開催」、「中止」の二文字は見当たらない。
そこで友人にLINE、チケットも無駄にしたくないので、行くことにするが、終演後の「雨」や「交通機関」の動向が心配である。
晴れていれば、時間的にも早いし「自転車」で行くところだが、そういう訳には行きません。
電車だと、乗り換えもあり時間がかかる。
そうこうしていると、時間は17時15分、駅に着くと17時30分前だった。
友人は来ていた。
やがて、電車に乗って会場に到着する。
会場を見渡すと、空席はほゞ無し、皆さん楽しみにしていたんだなぁ~
と言うか、行くかどうか迷っていたのは自分だけ(笑)
時間となり開演となる。(18時30分)
前座は、「神田伯山」の二番子「神田青之丞」、演目は「和田平助」です。
水戸光圀公の家来である和田平助は真の居合の名人である。光圀公が贔屓にするが、同僚の花房平太夫はこれが面白くなく、御前試合を申し込む。試合は座敷で行われる。座敷の中央には大きな碁盤が据えてある。片方の者が碁盤の上に手のひらを置く。もう片方の者は逆手で短刀を持つ。両者同時に気合を掛け、片方の者は手をひっこめようとする、もう片方の者は手のひら目掛けて短刀を振り下ろそうとする。どちらが早いか競うというものである…。
続いて「伯山」が高座へ。
題目は、『天保六花撰~玉子の強請(てんぽうろっかせん~たまごのゆすり)』です。
【解説】
『天保六花撰』は二代目松林伯圓の作の連続物の世話物講談。河内山宗俊、森田屋清蔵、片岡直次郎、金子市之丞、暗闇の丑松、三千歳の六人を中心に話は繰り広げられる。浪曲でも有名である。
この「玉子の強請」はその中の一話で、河内山宗俊の悪党ぶりが主題になる。短く分かりやすい読み物で神田松鯉などが寄席でよく掛ける。
【あらすじ】
江戸城に務めている御数寄屋坊主の河内山宗俊(こうちやまそうしゅん)。ある日のこと吾妻橋を通りかかると、黒山の人だかりである。歳のころ24~25、商人の奉公人体の若い男がずぶ濡れになってしゃがみ込んでいる。大川に身を投げたところを助けてもらったところであった。そこで河内山は下谷練塀小路の自分の屋敷にこの男を連れて行き、話を聞く。男は上野池之端にある上総屋という乾物屋の奉公人で亀吉という。上総屋には11歳の時から勤め、主人はゆくゆくは自分を店の婿にしてくれると言ってくれて一生懸命働いた。しかし25歳になった今、改めて聞くと主人は「娘が嫌がっているので婿にはできない」と言う。そこでお嬢さんの気持ちを確かめようと部屋に入ろうとすると「泥棒!」と叫ぶ。主人が慌てて飛んできて「お前はうちの娘に夜這いをかけるのか」と怒鳴る。「出てけ」と言われ殴ったり蹴ったりされる。故郷に帰ることも出来ない。そこで大川に身を投げて死んでしまおうと思ったと語る。聞いていた河内山は、「上総屋というのは悪党だな」と言う。
翌日上総屋に、絹づくしの立派ななりをした坊主、河内山宗俊が訪れる。番頭が何をお求めですかと聞くと、河内山は友達が病気で見舞いに行くので、栄養・滋養のある生卵を20個ほど折に詰めて欲しいと言う。また古い卵だとかえって健康を害する恐れがあるので新しい卵を選ってくれという。番頭は卵を日向(ひなた)に向けて、卵の新旧を確かめる。番頭は河内山の方を見ていない。この隙に河内山は屋敷から持ってきた卵を袂から取り出し、店先に積まれた卵の山の上に乗せる。しばらくして番頭は河内山の方を向く。今度は河内山はわざと番頭が見えるように、先ほど乗せた卵を手に取り、手の上で転がして、袂の中に入れる。
番頭は卵をひとつお取りになりましたね、お返しくださいと言う。河内山はこの店の卵は取った覚えはないと言葉を返す。なおも番頭は返してくださいと言う。河内山は客に盗人の濡れ衣を着せるのかと怒鳴る。店の奥から主人が出て来た。恐れながら訴えて出ると言う。河内山は主人も濡れ衣を着せるのかと怒る。
この卵のことか、河内山は袂から1個の卵を取り出した。この卵をピシッと土間に叩き付ける。主人も番頭も驚いた。叩き付けたのはゆで卵であった。主人は訴えて出ると言ったではないか、仕度をしろと迫る。店の主人が名を問うと、下谷練塀小路に屋敷を構える御数寄屋坊主、河内山宗俊だと言う。河内山宗俊といえば江戸で知らぬ者はいない、泣く子も黙るという悪党でないか。主人は泣く泣く100両の金を河内山に渡す。河内山はニッコリ笑い、100両を手に屋敷へと戻り、この金を亀吉に与えたのであった。(講談るうむより)
次ぎは「清水の次郎長伝~小政の生い立ち(しみずのじろちょうでん~こまさのおいたち)』
【解説】
小政(1842~1874)は本名・吉川冬吉、別名・山本政五郎といい、清水次郎長の子分として実在した侠客である。「清水二十八人衆」のうちの一人とされ、、同じく次郎長の子分である同姓同名の「山本政五郎」を名乗る「大政」と区別して「小政」と呼ばれる。
【あらすじ】
清水の次郎長がまだ若かったころ、森の石松と伊勢へ参詣しその帰り道で浜松の宿へ通りかかる。若林村というところで、ひとり婆さんのいる茶店で昼食をとる。そこに自分の背丈より長い天秤棒を担いだ形の小さい小僧がやってくる。その小僧はゴザを敷き、サイコロの湯飲みを出し即席のバクチが始まる。こんな小僧がバクチの胴を取るのかと思う次郎長。そこへ年のころ31,32歳のベロンベロンに酔った男が現れる。「いけない奴が来た、逃げろ」、バクチに集まっていた者たちは逃げ、小僧ひとりが残される。小僧は20文を差し出しこれで許してくれというが、なおも男は小僧の懐から金を掠め取ろうとする。「それじゃ、おッ母の薬を買うことが出来ない」。小僧は天秤棒を振り上げるが、それを森の石松が止める。石松がに2分の金をやると男はヨロヨロよろめきながら去っていった。
小僧は次郎長に礼を言う。いくら小僧でも天秤棒で殴れば人が死んでしまうことがある、そうなれば親も嘆くだろうと次郎長は諭す。この小僧は浜松に住む政吉といい、歳は12だという。12歳にしては背丈が小さく、皆は「小政(こまさ)」と呼ぶという。政吉がこの二人について尋ねると、清水から来ており、あってもなくてもいい仕事をしているという。政吉は清水の次郎長だと分かって喜びして、子分にしてくれと言う。さらに病気で母親が寝ているが、倅がバクチ打ちになれなければ死んでも死にきれない、と変なことを話すと言う。
政吉が語るには、彼の父親は浜松の政右衛門という魚屋であったが、飲む・打つ・買うの三道楽のどうしようもない男で、政吉が小さいうちに死んでしまった。それから母親が政吉を育てるが、その母親が病気になり助かる見込みはないと言う。明神様に毎日願掛けをして、その満願の日に寒さのため政吉は倒れてしまい、そこを通りがかった立派なお武家に助けられた。そのお武家様がお奉行様で、孝行の徳によりということで青差五貫文を頂いた。母親は私が死んだらこの子の生末が心配だというが、万一のことがあったら清水湊へいって次郎長の子分になると言って、政吉は母親を励ましている。政吉はボロボロ涙を流す。
嘘で流せる涙ではない。次郎長は、なにかあったら清水の自分の元へ来い、バクチ打ちにはさせず、堅気の商人か職人にでもしてやると言って、2両の金を渡す。石松も財布ごと銭をくれるが、その中身は3文しか入っていない。こうして政吉は、次郎長、石松の二人を見送る。
政吉がこの話を母親にすると、安心したのか3日後には亡くなる。弔いを出して無事に百ヶ日が終わる。ある日のこと、親の代から政吉の面倒を見ている叔父の平兵衛に清水まで行って次郎長の子分になろうとおもっていると相談する。父親と同じく一度言ったら聞かない奴だ。ここは政吉の言う通りにさせてやろう、と平兵衛は思う。政吉が帳面を拵えてくれと言う。道中日誌にでもするのかと思うと、餞別帳にするという。最初には金一両、駿河屋平兵衛、と書いてくれという。それは私の名前ではないか。さらに政吉は「一」の字の上にもう一本棒を足し、二両にする。仕方なしに平兵衛は政吉に二両の金を払う。
こうして政吉こと小政は清水湊まで来た。次郎長は始めは商人、または職人にするつもりだったが、朱に交われば赤くなる、立派なバクチ打ちとなる。清水湊は鬼より怖い、大政、小政の声がする。こうして小政は清水湊の名物男に成長する。
更に続けて、『四谷怪談~お岩誕生(よつやかいだん~おいわたんじょう)』
【解説】
『四谷怪談』は元禄時代に起きたとされる事件を基に、鶴屋南北が『東海道四谷怪談』として創作。日本で一番有名な怪談とも言われる。歌舞伎や映画でもお馴染みの話である。
講談の四谷怪談は、「お化けの貞山」と呼ばれる七代目一龍斎貞山や六代目一龍斎貞水が得意にしてよく演じた。「お岩誕生」はその発端部分で、お岩が数奇な因縁とともに産まれるまでを描く。その後、次々と繰り広げられるお岩の祟りによる惨劇の伏線になる。
【あらすじ】
江戸時代、享保の頃の話、四谷左門町に御先手組の同心屋敷があった。ここに30俵三人扶持に田宮又左衛門という者がいる。禄は少ないが、若い頃から倹約をして金を貯め、蓄えがあるので晩年は裕福に暮らす。一人娘がおり「お綱」といい18歳だが、7歳のときに松皮疱瘡に罹り、顔中がアバタだらけのひどい形相になる。お綱がひそかに思いを寄せていたのが、伝助という住み込みで働いている男である。ある冬のこと、「もし寒かったら布団を持って私の部屋にお出でなさい」とお綱は言う。情にほだされた伝助。2人はいつの間にかいい仲になる。本来は、不義密通で許されないことだが、醜い顔で貰い手のなかったお綱である。こうなったのも何かの縁だと又左衛門は思う。表向きは2人を勘当ということにし、伝助の叔父さんの甚兵衛の力を借りて、2人のために京橋・五郎兵衛町に長屋を借りる。
霞ヶ関に芸州広島安芸守の屋敷があり、伝助は屋敷内の足軽小屋で飯炊きをする。参勤交代で安芸守は国許へ帰り、足軽もみなそのお供をするが、足軽小頭の高田大八郎だけは病気だといって江戸へ残る。一人だけでも飯炊きは必要なので、伝助は相変わらず足軽小屋へと通う。
5月5日、端午の節句の夕方のこと。伝助は遅れて足軽小屋へとやって来た。妻のお綱が産気づいたが、まだ産まれてこないという。伝助は大八郎の着物に血が付いていることに気づいた。猫に付けられた血ではないかと大八郎は言う。また大八郎は掃除したので二階には上がらないように言い付ける。膳の支度をする間、大八郎は風呂へと出かける。
火吹き竹で火を吹きおこしていると、伝助の腕に生あったかい血が天井から垂れてくる。上でドラ猫が鼠を捕まえて遊んでいるに違いない。ホウキを逆さにし天井を突くと、溜まっていた血がダッーと流れ落ち、釜の中に入り、御飯が真っ赤になってしまった。階段を上って二階にいくが、猫などいない。合羽笊(かっぱざる)の中をみると、その中には首と胴とに分かれた男の死骸が横たわっている。
そこへ大八郎が帰ってきた。伝助がいないので2階に駆け上がる。狼狽している伝助に、その死骸は霊岸島川口町伊勢屋重助という金貸しだと言う。三年前に5両借りたが、今では利息が膨らんで15両になっている。今日も大八郎の元を訪れ、金を返せとしつこく言う。両手を付いて頼んでも頑として聞き入れない。大八郎はかっとして、刀でもって伊勢屋を斬りつけた。今度は、大八郎は伝助を殺そうとするが、間もなく産まれてくる子供の顔を見たいと哀願する様をみて助けることにする。助ける代わりに、この死骸をどこかに捨ててくるよう伝助に言い付けて、3両渡した。殺した伊勢屋から奪った金の一部である。
伝助は雨合羽で死骸を包み、それを背負って大名屋敷の裏門から出る。捨てようにも、捨てる場所がなく、あっちこっちをウロウロする。仕方なしに死骸を持ったままお綱の待つ、京橋・五郎兵衛町の我が家へと帰る。お綱は食事をして待っていた。伝助は布団の洗濯を頼まれてきたと言って、押し入れのなかに死骸を入れる。
お綱の顔を見ながら夫婦の情についてあれこれ考える。伊勢屋がいつまでたっても帰らないと妻は心配しているだろう。伊勢屋は殺されたことを彼の妻に知らせようと、伝助は止めるお綱を振り払って家を出る。しかし伊勢屋の妻はすでにこの世の者ではなかった。金を取り立てにいった夫がいつまで経っても戻らない。妻は取り立て先の安芸守の屋敷、足軽小屋へと向かう。この女房は亭主がここへ来たことを知っている、生かしておくわけにはいかない、高田大八郎は伊勢屋の妻を一刀両断に斬って、先ほどまで伊勢屋の死骸の入っていた合羽笊へ放り込む。
いつまで待っても伝助は帰ってこない。残ったお綱は不安でいっぱいである。九つの鐘が鳴り、雨が降り出す。外から声がする。「ごめんくださいまし、霊岸島、伊勢屋重助の家内でございます。宅が訪ねております」。お綱は「どなたもおいでになっていませんよ」と言葉を返す。「押入れのなかにごめんくださいまし」。いつも間にか、顔色の青ざめた女が入ってきた。押入れを開けると、血の滴る生首を取り出してしっかと抱きかかえる。「ここへおりました」。
お綱がギャッーと叫び声をあげる。気を失い、同時に産気づく。こうして産まれたのが女の子である。飛び込んできた長屋の連中は、お綱さんが赤ん坊と生首とを一緒に産んだと大騒ぎである。こっそり戻ってきた伝助は、もはやここには居られないとこの場を逃げ去ってしまう。田宮又左衛門は、知らせを聞いて駆け付けてきたが、まもなくお綱の息が絶える。赤ん坊は又左衛門が引き取り育てることになる。七日目、付けた名前が「お岩」である。このお岩が成長し、母親と同じ松皮疱瘡に罹り、二目とみられない面体になる。縁付く相手がいなかったが、浅草寺で大道易者をする榊原数馬が田宮家の財産目当てで婿入りし、名を田宮伊右衛門と改める。しかし彼こそは、あの足軽小頭、高田大八郎の倅であったのだった。これから数奇な因縁話が始まる。
ココで「中入り」15分となる。
その後は、『万両婿(まんりょうむこ)』
【解説】
落語では『小間物屋政談』という演題でかつては昭和の名人、古今亭志ん生や三遊亭圓生も演じ、現在でも比較的聴く機会の多い噺である。講談では別に『小間物屋政談』という演題の話があるのでややこしい。
京橋・五郎兵衛町に住む小間物屋小四郎。荷を背負って売り歩く背負い小間物屋である。商売熱心な小四郎は女房を江戸へ残して、上方まで商売に出向く。その途中、箱根の山中で追剥に襲われた若狭屋仁兵衛と出会った。小四郎は若狭屋に江戸まで戻る路用として3両、着替え、自分の住所・名前を書いた紙を渡して別れる。江戸へ帰る途中の小田原の宿で、若狭屋はそれまでの心労が祟り死んでしまった…。
【あらすじ】
江戸の京橋・五郎兵衛町に相生屋小四郎という小間物屋がいた。櫛、簪(かんざし)などを背負って売り歩く、俗にいう背負(しょ)い小間物屋である。大変、商売熱心な男で、江戸から上方に珍しい物を持って行って、その逆にまた上方から江戸へ珍しい物を持っていけば良い商いになるだろうと考えた。女房のおときに留守を任せ、江戸を出る。
小田原を過ぎ箱根八里の山の中で、どこからか「もし、お待ちくださいまし」と声を掛けられる。ひょいと振り返ると襦袢(じゅばん)一枚の姿の男がおり、聞くと追剥にやられたという。この男は若狭屋仁兵衛といい、江戸・芝で大きな小間物屋を営む者である。身体の具合があまり良くないのでひとり、箱根に湯治に行く途中この災難にあったという。小四郎は着替えと江戸へ帰る路用として3両の金を若狭屋に与え、自分の住所と名前を認めた紙を渡す。こうして西・東と2人は別れ、小四郎は上方へ、若狭屋は小田原の宿に泊まる。
しかしその晩、若狭屋は宿で苦しみ出しそのまま息を引き取る。宿の方では宿帳を付け忘れていて、この客の身元が分からない。客の遺した物を調べると、財布の中から「江戸京橋五郎兵衛町 家主 喜右衛門店(たな)小間物屋 相生屋小四郎」と書いた紙が見つかる。宿の主は書面に認め、すぐに京橋の小四郎の女房、おときの元へ連絡が届いた。おときは家主・喜右衛門に相談し、家主と藤助ふたりで小田原まで出向くことになった。死骸は近くの寺に仮埋葬されており、掘り起こして棺桶の中を見てみると、確かに着衣は小四郎の物である。なんとなくおかしいところはあるものの、ろくに顔を見ずに、小四郎で間違いないということにしてしまう。火葬にし、葬式を済ませるが、その後もおときは泣いてばかりである。
死んだことにされてしまった小四郎の従兄弟で佐吉という者がいて、やはり小間物屋をしている。佐吉は後見としておときの仕事の手伝いをするようになり、次第に二人は仲が良くなっていく。周囲の者たちに勧められてやがて二人は夫婦になる。
一方、小四郎は上方での商いも無事終え、久しぶりに夜、京橋・五郎兵衛町の我が家に帰ってくる。死んだはずの小四郎が急に現れて「これは幽霊が化けて出た」おときと佐吉は慌てて長屋を飛び出す。大家も驚き、これを見て小四郎は若狭屋仁兵衛と間違えて、自分が死んだことにされてしまったと気づく。さて困った、小四郎という亭主がいるにも関わらずおときと佐吉を夫婦にしてしまった。小四郎も佐吉もおときは自分の女房だと言って譲らない。おときは佐吉と別れようとは思っていない。大家は小四郎に、お前はどこかへ行って死んでしまえと言う。そんな馬鹿なと小四郎は怒る。
小四郎は南町奉行の大岡越前守においそれと訴えて出る。人というのは諦めが肝心。おときは佐吉と一緒にさせ、店も二人に譲り、お前はどこかへ行って死んでしまえと越前守は言う。それでは大家と同じではないか。それでは小四郎があまりに可哀そうだ。ここに若狭屋仁兵衛の妻、およしが現われた。越前守はおよしにこれも何かの縁、小四郎を亭主に迎えたらどうかと言う。およしは器量良しで、年は23歳、しかも身代は3万両、「これは有難い」思わず口走ってしまった小四郎。小四郎、およしとも異存はない。背負い小間物屋から万両の身代の主となった小四郎のことを、人は『万両婿』と呼んだという。
そして閉演は21時10分であった。(何と2時間40分です。)
台風による「大雨」の中、災害等の被害も気になる中であったが、満足感ある楽しい時間を過ごすことが出来た。
行って正解だった(笑)
あの声、そして喋りや間、流石に上手いです。
本来であれば、一杯やって帰る予定でいたが、残念ながらそこは天候不順、速攻で帰還しました。(22時20分)
「ルネ小平」のTwitterには・・
更に「神田伯山」のTwitterを見ると・・
やはり、観客を気遣っていたんだ・・
おまけ
本人ではなく・・
神田伯山の師匠である、人間国宝 神田松鯉で「河内山宗俊 卵のゆすり」