カサカサの感想ハダで備忘を保てるか

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イェルク・デームスのピアノリサイタル

2014-04-12 18:53:12 | 音楽の話
イェルク・デームスのピアノリサイタルを聴いた。
1928年生まれだから現在85歳か。



プログラムは
・バッハの半音階的幻想曲とフーガニ短調 BWV903
・モーツァルトのアダージョロ短調 KV540
・ベートーヴェンのピアノ・ソナタハ短調 op.111(第32番)
・ショパンのバラード第4番へ短調 op.52
・シューマンのクライスレリアーナ op.16

はじまりに登場して、お辞儀をして、ピアノ椅子に腰掛けて、右足をペダルに乗せる前に手はバッハを弾き始めて、既に彼の世界が展開されていた。

バッハが変な色気を感じさせないでこれほどロマンチックに聴こえるという体験は初めてだったかもしれない。

モーツァルトも同様だった。

ベートーヴェンのソナタは2つの対極的な楽章を、これまた奇をてらうことなく自然な所作で弾き分けるというか、何というか、筆者の語彙力ではこれ以上の表現のし様がない。

聴き入ってしまうほどに集中するし、同時に脱力してリラックスするほどに音は柔らかいし…。

20世紀前半に生まれ、学び、活動し、その中で醸成されたものがそのまま演奏に表出する。その演奏表現・スタイルが古いか新しいかは問題ではないと思った。聴いていて心地がよいのだからそれでいい。
バカボンのパパ風に「これでいいのだ!」で全て完結する。

だから、休憩を挟んでの後半のプログラム(ショパンとシューマン)では、そのことがさらに納得させられる。

舞台の行き来は80代半ばの老人だが、その演奏は全部みずみずしい。

例えば、日本では高齢を迎えた芸能者の熟練の芸を「枯れた芸」と呼んだりして絶賛することがある。

そこには高齢ゆえの身体的な衰えと長年の経験に培われた身体的な記憶とによって無駄がなくなっている状態を指しているのだと思う。

筆者に鍵盤楽器の経験がないのでテクニカルなことは何ともいえないが、おそらく、彼の演奏は往時ほどのパワーはないのかもしれない。

しかし、そういう問題ではなくて、身体的な「枯れ」で無駄がないのではなく、無駄な作為がないから無駄がないような、そんな気がした。

アンコールでドビュッシーまで聴くことができた。1人のリサイタルでこれだけ時代を総なめできるのも贅沢な話である。

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