生首
抉り出された内臓
そして、少女についた男性性器
美に対する私の世界観が変わった。
まさに衝撃。
激しく脳を揺り動かされた。
【ヘンリー・ダーガー】
彼は一九八二年シカゴに生まれ、幼くして母親を亡くしているアウトサイダー・アーティストだ。
幼い頃、あまりにも内気なために精神遅滞と間違えられ知的障害者の施設に入れられた過去を持つ。一七歳のとき施設を脱走し、病院の清掃夫として働く。誰とも話さず、誰ともセッションを持たず、彼はただひたすら自分の殻に閉じこもり続けた。
そんなダーガーであったが、家に帰ると一心にある仕事に取り組んだ。
それは、絵を描くこと。
彼の描く絵は、ゴッホ・ダリ・モネなど超一流画家の絵とは明らかに違う。
どう違うか。
それは、彼の絵が、アウトサイダー・アートと呼ばれるジャンルに属すること。
アウトサイダー・アートとは定義として
一、過去に芸術家としての訓練を受けてないこと
二、芸術家としての名声を得ることではなく、あくまでも自発的であること
三、創作の過程で、過去や現在における芸術のモードに影響を受けていないこと
である。
しかし、一般的には
【精神障害者・身体障害者が描いた絵】
のことを言う。
少々語弊はあるが、ヘンリー・ダーガーは精神異常者である。極度の引きこもりに加え、彼の描く男性性器のついた少女たち。並みの精神状態では考えられない。
彼は、十九歳のときに執筆を始め、物語がほぼ完成に近づいたころ、長篇物語『非現実の王国~少女戦士・ヴィヴィアン・ガールズ~』を図解してみようと決心する。
美術教育とは無縁だった彼が考え出した手法は、ゴミ捨て場から宗教図・カレンダー・新聞や広告などを広い、そこから夥しい数の女の子の絵を切り取り、塗絵風の太い輪郭線で女の子をトレーシングしていくことだった。
トレースされた少女たちは裸体にされ、小さな男性性器を加えられた。それぞれの人物イメージはコラージュされ、全体に彩色を施し大きな画面へと構成されていった。
では、彼の代表作(この一作品しかないが)『非現実の王国~少女戦士・ヴィヴィアン・ガールズ~』を分析していこう。
そこに描かれる七人のヴィヴィアン・ガールと名づけられた可愛らしい少女たち。
彼女たちは人間離れした善良さ、勇気と策略の才能を備えて邪悪な大人たちと勇敢に戦い続け、そして歪んだ世界を変えてゆく。
アメリカの南北戦争史の知識を持ったダーガーのこの物語は、奴隷制をめぐる戦いの歴史であり、塗絵から飛び出した可愛らしい少女たちの姿とは、まったくアンバランスな混沌と暴力で覆われた破壊の王国が舞台となっている。
その戦いの中で行われている目を覆いたくなるほどの残虐シーン。
ヴィヴィアン・ガールたちは、大人たちの悪道から子どもを守るため、必死に立ち向かうも上手くはいかず、度々自分たちの非力を嘆く。
しかし、ここで注目したいのは、話のストーリーではなく、彼の描く世にも奇妙な少女たちの体である。物語に登場する女の子は裸の子が多く、しかも必ずと言っていいほど男性性器が付け加えられている。
それはなぜだろう。
これには二つの説がある。
一つ目は、彼、ヘンリー・ダーガーが女性の裸体を見たことがなかったということである。
ダーガーは青春時代を施設で過ごし、その後はひっそりとアパートで一人暮らしをしていた。その間、女性との性的行為はおろか、日常的な会話でさえなかったと言われている。そのため、男性女性の性別関係なく、人間の体には自分と同じようにペニスが付いていると思っていたというのだ。
二つ目は、ダーガーは男女の肉体的性差を重々知っていながらも敢えて少女たちにペニスを施したということだ。
仮に、性差の認識がないとするならば、彼の作品の登場人物が「少女」である必要はないからである。彼は間違えなく男女の違いを知っていた。そのうえで、少女にペニスを描き加えるというところにダーガーの個人的なファンタジーがあり、彼が生きていくために創り上げた「壊れない世界」の必須条件だったに違いない、ということである。
どちらにせよ、確かなことは分かっていない。
ただ、ダーガーのこの作品は、彼のアパートの大家ラーナーが世に公表しなければ一生その存在は私たちに知られることはなかった。アウトサイダー・アートとして研究材料になることも、私が衝撃を受け、美に対する世界観が変わることも。
ダーガーは、もしかしたら一般的に「ひきこもり」と呼ばれて、それでおしまいの人間だったかもしれない。
だが、そのことは逆に、現代社会に溢れる「ひきこもり」の人たちの内面にも、『非現実の王国~少女戦士・ヴィヴィアン・ガールズ~』に匹敵する、彼らなりの壮大な想いや物語が存在するかもしれない、ということを示唆している。
世の中のすべての人間には未知の可能性がある。
その可能性に目を向け、触発されることで、私たちはより豊かで、味わいのある人生を生きることができるのではないか。
抉り出された内臓
そして、少女についた男性性器
美に対する私の世界観が変わった。
まさに衝撃。
激しく脳を揺り動かされた。
【ヘンリー・ダーガー】
彼は一九八二年シカゴに生まれ、幼くして母親を亡くしているアウトサイダー・アーティストだ。
幼い頃、あまりにも内気なために精神遅滞と間違えられ知的障害者の施設に入れられた過去を持つ。一七歳のとき施設を脱走し、病院の清掃夫として働く。誰とも話さず、誰ともセッションを持たず、彼はただひたすら自分の殻に閉じこもり続けた。
そんなダーガーであったが、家に帰ると一心にある仕事に取り組んだ。
それは、絵を描くこと。
彼の描く絵は、ゴッホ・ダリ・モネなど超一流画家の絵とは明らかに違う。
どう違うか。
それは、彼の絵が、アウトサイダー・アートと呼ばれるジャンルに属すること。
アウトサイダー・アートとは定義として
一、過去に芸術家としての訓練を受けてないこと
二、芸術家としての名声を得ることではなく、あくまでも自発的であること
三、創作の過程で、過去や現在における芸術のモードに影響を受けていないこと
である。
しかし、一般的には
【精神障害者・身体障害者が描いた絵】
のことを言う。
少々語弊はあるが、ヘンリー・ダーガーは精神異常者である。極度の引きこもりに加え、彼の描く男性性器のついた少女たち。並みの精神状態では考えられない。
彼は、十九歳のときに執筆を始め、物語がほぼ完成に近づいたころ、長篇物語『非現実の王国~少女戦士・ヴィヴィアン・ガールズ~』を図解してみようと決心する。
美術教育とは無縁だった彼が考え出した手法は、ゴミ捨て場から宗教図・カレンダー・新聞や広告などを広い、そこから夥しい数の女の子の絵を切り取り、塗絵風の太い輪郭線で女の子をトレーシングしていくことだった。
トレースされた少女たちは裸体にされ、小さな男性性器を加えられた。それぞれの人物イメージはコラージュされ、全体に彩色を施し大きな画面へと構成されていった。
では、彼の代表作(この一作品しかないが)『非現実の王国~少女戦士・ヴィヴィアン・ガールズ~』を分析していこう。
そこに描かれる七人のヴィヴィアン・ガールと名づけられた可愛らしい少女たち。
彼女たちは人間離れした善良さ、勇気と策略の才能を備えて邪悪な大人たちと勇敢に戦い続け、そして歪んだ世界を変えてゆく。
アメリカの南北戦争史の知識を持ったダーガーのこの物語は、奴隷制をめぐる戦いの歴史であり、塗絵から飛び出した可愛らしい少女たちの姿とは、まったくアンバランスな混沌と暴力で覆われた破壊の王国が舞台となっている。
その戦いの中で行われている目を覆いたくなるほどの残虐シーン。
ヴィヴィアン・ガールたちは、大人たちの悪道から子どもを守るため、必死に立ち向かうも上手くはいかず、度々自分たちの非力を嘆く。
しかし、ここで注目したいのは、話のストーリーではなく、彼の描く世にも奇妙な少女たちの体である。物語に登場する女の子は裸の子が多く、しかも必ずと言っていいほど男性性器が付け加えられている。
それはなぜだろう。
これには二つの説がある。
一つ目は、彼、ヘンリー・ダーガーが女性の裸体を見たことがなかったということである。
ダーガーは青春時代を施設で過ごし、その後はひっそりとアパートで一人暮らしをしていた。その間、女性との性的行為はおろか、日常的な会話でさえなかったと言われている。そのため、男性女性の性別関係なく、人間の体には自分と同じようにペニスが付いていると思っていたというのだ。
二つ目は、ダーガーは男女の肉体的性差を重々知っていながらも敢えて少女たちにペニスを施したということだ。
仮に、性差の認識がないとするならば、彼の作品の登場人物が「少女」である必要はないからである。彼は間違えなく男女の違いを知っていた。そのうえで、少女にペニスを描き加えるというところにダーガーの個人的なファンタジーがあり、彼が生きていくために創り上げた「壊れない世界」の必須条件だったに違いない、ということである。
どちらにせよ、確かなことは分かっていない。
ただ、ダーガーのこの作品は、彼のアパートの大家ラーナーが世に公表しなければ一生その存在は私たちに知られることはなかった。アウトサイダー・アートとして研究材料になることも、私が衝撃を受け、美に対する世界観が変わることも。
ダーガーは、もしかしたら一般的に「ひきこもり」と呼ばれて、それでおしまいの人間だったかもしれない。
だが、そのことは逆に、現代社会に溢れる「ひきこもり」の人たちの内面にも、『非現実の王国~少女戦士・ヴィヴィアン・ガールズ~』に匹敵する、彼らなりの壮大な想いや物語が存在するかもしれない、ということを示唆している。
世の中のすべての人間には未知の可能性がある。
その可能性に目を向け、触発されることで、私たちはより豊かで、味わいのある人生を生きることができるのではないか。