楊に風と受け流す

新しい一日がやってくることは喜びです。

主婦って

2007-11-30 15:43:25 | 徒然
今日はジャスコのお客様感謝デー。

20、30日はジャスコカード提示で5%OFFなのだ。



私はカード片手にジャスコ宇土シティー店に出向いた。

そして、買った。
買いに買い捲った。


そして、気づいた。
ジャスコの陰謀にはめられていることを。


買い物袋を見ると、普段買わないようなモノばかり入っているではないか。



主婦はこうやって家計を助けていると思いながら、自らの首を絞めているのだな。

雑用な一日

2007-11-29 15:56:25 | 徒然
細かい用事、目白押しな本日。



1、昨日入ってなかったお風呂に入る。
(たまにそういう日あるでしょ・・・)

2、インフルエンザの予防接種受けに病院へ。
(看護婦さんに痛い痛いと脅された割には平気だった)

3、母親とラーメン食べる約束してた。
(熊本には珍しい醤油ラーメンをいただいた)

4、戸籍抄本&住民票取りに市役所へ。
(ラーメン食べ行く前に寄ったが、印鑑忘れてたことに気づいて退散)

5、街中まで移動して、脱毛。
(いったいいつまで受ければいいのか・・・)

6、入金。
(ついでだったらか寄りました)

7、バイトへGO~。
(目標があるから頑張れるのさ)




と、たいして大きくない用事で終わってしまった一日でした。

大学行って

2007-11-16 23:20:33 | 徒然
久々に大学に行きました。

といっても、私には何の用事もなかったのだが。



教授殿たちと会ってきた。
青年海外協力隊で海外に行くことが知れ渡っていた。

会う人会う人
「どこの国に行くんだって?」
「いつから行くの?」

いちいち説明するのはもう飽きた。

NODO

2007-11-15 15:12:07 | 徒然
初めて気づいたことなんだが、私はのどが弱い、らしい。



体はピンピンしてるのに声だけガラガラ。

人に気を遣わせるので、申し訳なく感じる。

空気が乾燥しているのが一番に原因と考えられる。

でも、水分ばっかり取ってたらお手洗い近くなるし。

携帯用のイソジンもって、暇さえあればうがい。

ビタミン摂取し、もちろん風邪薬も欠かさない。






今週末はどうしても元気でいなければならない。

なぜなら、かくかくしかじかだからです。

せめて、いわゆるこの“オネェ”のような声だけは治って・・・

2007-11-11 12:10:33 | 徒然







大好きなんです。






革に囲まれてると幸せで、満たされた感じがします。

なんすかね、これは。




今年の冬はまだ革製品購入してない。
なんでもいいから欲しい。



こないだ、革のいいペンケースあったな。
小銭入れも捨てがたいな。




滑らかな曲線
ほのかな光沢
鼻をくすぐる微香
吸い付くような肌触り




ああ

革・革・革・革・革・革・革・革・革・革・革・革・革・革・革・・・






今年の冬は寒いからダウン買おうと思ってたけど
・・・・・ライダーズでもいいかな~

ヘンリー・ダーガーの世界

2007-11-10 11:50:47 | 絵画・芸術
 生首
  抉り出された内臓
   そして、少女についた男性性器


 美に対する私の世界観が変わった。
 まさに衝撃。
 激しく脳を揺り動かされた。



 【ヘンリー・ダーガー】

 彼は一九八二年シカゴに生まれ、幼くして母親を亡くしているアウトサイダー・アーティストだ。
 幼い頃、あまりにも内気なために精神遅滞と間違えられ知的障害者の施設に入れられた過去を持つ。一七歳のとき施設を脱走し、病院の清掃夫として働く。誰とも話さず、誰ともセッションを持たず、彼はただひたすら自分の殻に閉じこもり続けた。
 そんなダーガーであったが、家に帰ると一心にある仕事に取り組んだ。
 
 それは、絵を描くこと。

 彼の描く絵は、ゴッホ・ダリ・モネなど超一流画家の絵とは明らかに違う。

 どう違うか。


 それは、彼の絵が、アウトサイダー・アートと呼ばれるジャンルに属すること。
 アウトサイダー・アートとは定義として

一、過去に芸術家としての訓練を受けてないこと
二、芸術家としての名声を得ることではなく、あくまでも自発的であること
三、創作の過程で、過去や現在における芸術のモードに影響を受けていないこと

である。
しかし、一般的には
 
 【精神障害者・身体障害者が描いた絵】
                  のことを言う。
 
 少々語弊はあるが、ヘンリー・ダーガーは精神異常者である。極度の引きこもりに加え、彼の描く男性性器のついた少女たち。並みの精神状態では考えられない。
 彼は、十九歳のときに執筆を始め、物語がほぼ完成に近づいたころ、長篇物語『非現実の王国~少女戦士・ヴィヴィアン・ガールズ~』を図解してみようと決心する。
 美術教育とは無縁だった彼が考え出した手法は、ゴミ捨て場から宗教図・カレンダー・新聞や広告などを広い、そこから夥しい数の女の子の絵を切り取り、塗絵風の太い輪郭線で女の子をトレーシングしていくことだった。
 トレースされた少女たちは裸体にされ、小さな男性性器を加えられた。それぞれの人物イメージはコラージュされ、全体に彩色を施し大きな画面へと構成されていった。
 


 では、彼の代表作(この一作品しかないが)『非現実の王国~少女戦士・ヴィヴィアン・ガールズ~』を分析していこう。
 
 そこに描かれる七人のヴィヴィアン・ガールと名づけられた可愛らしい少女たち。
 彼女たちは人間離れした善良さ、勇気と策略の才能を備えて邪悪な大人たちと勇敢に戦い続け、そして歪んだ世界を変えてゆく。
 アメリカの南北戦争史の知識を持ったダーガーのこの物語は、奴隷制をめぐる戦いの歴史であり、塗絵から飛び出した可愛らしい少女たちの姿とは、まったくアンバランスな混沌と暴力で覆われた破壊の王国が舞台となっている。
 
 その戦いの中で行われている目を覆いたくなるほどの残虐シーン。
 
 ヴィヴィアン・ガールたちは、大人たちの悪道から子どもを守るため、必死に立ち向かうも上手くはいかず、度々自分たちの非力を嘆く。
 

 しかし、ここで注目したいのは、話のストーリーではなく、彼の描く世にも奇妙な少女たちの体である。物語に登場する女の子は裸の子が多く、しかも必ずと言っていいほど男性性器が付け加えられている。

 それはなぜだろう。


 これには二つの説がある。

 一つ目は、彼、ヘンリー・ダーガーが女性の裸体を見たことがなかったということである。
 ダーガーは青春時代を施設で過ごし、その後はひっそりとアパートで一人暮らしをしていた。その間、女性との性的行為はおろか、日常的な会話でさえなかったと言われている。そのため、男性女性の性別関係なく、人間の体には自分と同じようにペニスが付いていると思っていたというのだ。
 
 二つ目は、ダーガーは男女の肉体的性差を重々知っていながらも敢えて少女たちにペニスを施したということだ。
 仮に、性差の認識がないとするならば、彼の作品の登場人物が「少女」である必要はないからである。彼は間違えなく男女の違いを知っていた。そのうえで、少女にペニスを描き加えるというところにダーガーの個人的なファンタジーがあり、彼が生きていくために創り上げた「壊れない世界」の必須条件だったに違いない、ということである。


 どちらにせよ、確かなことは分かっていない。
 
 ただ、ダーガーのこの作品は、彼のアパートの大家ラーナーが世に公表しなければ一生その存在は私たちに知られることはなかった。アウトサイダー・アートとして研究材料になることも、私が衝撃を受け、美に対する世界観が変わることも。
 
 ダーガーは、もしかしたら一般的に「ひきこもり」と呼ばれて、それでおしまいの人間だったかもしれない。
 だが、そのことは逆に、現代社会に溢れる「ひきこもり」の人たちの内面にも、『非現実の王国~少女戦士・ヴィヴィアン・ガールズ~』に匹敵する、彼らなりの壮大な想いや物語が存在するかもしれない、ということを示唆している。


 世の中のすべての人間には未知の可能性がある。
 
 その可能性に目を向け、触発されることで、私たちはより豊かで、味わいのある人生を生きることができるのではないか。

恥ずかしながら、三島

2007-11-08 11:26:48 | 近代文学
いやあ、出てきましたよ。
これ、私が大学2年のときに書いたミニミニ論文です。
初めて書いた論文だから結論めちゃめちゃ&独断偏見地獄・・・
懐かしかったので載せました。


                            前期国文学演習Ⅴ 本発表
三島由紀夫『仮面の告白』の研究  ―――『仮面の告白』に隠された真実―――
                                   
序章 『仮面の告白』は本当の告白か否か?

第1節 本論文で扱う問題点
 『仮面の告白』は、三島由紀夫が青年期に感じた己の内面の悩み、それに対する葛藤を描いた作品である。三島、若干24歳にして、自己を分析し深く見つめた『仮面の告白』は、世間に大きな波紋を呼んだ。だが、この『仮面の告白』の評論を見てみるとなぜか奥歯にモノが挟まったようなものの言い方をしているものが多い。三島が同性愛者だということはおろか、『仮面の告白』が同性愛をテーマにしたものであるとも公然と認めていないのである。昭和24年に、初めてこのようなセンセーショナルな内容の小説が現れた。それに対し、世間ではどのよう受け止めていいのか分からなかったのだ。
 さて、今や21世紀。セクシャル・マイノリティへの理解が若干深まった現在、『仮面の告白』に書かれた三島の“告白”の真実を見直してみたい。一般的に言われるよう、「仮面」の“告白”ゆえに、偽りの“告白”なのか?はたまた、三島自身、抑えきれなかった青年期の切実な真の“告白”なのか?
 この謎を解き明かすことで、今までベールに包まれてきた「三島由紀夫」の正体までもが明らかになるように思われる。また、理想を追い求めて、自らの命まで絶ったこの俊英の作家の真相を知ることで、近代文学の名作を現代の正しい解釈によって理解することができるように思われる。


第2節 問題解決の手順。

第1章 『仮面の告白』が出た当時、どのように受け止められたかという事実を確かめる

第1節 時代背景 第二次世界大戦終戦:1946年(昭和21年)
 三島が『仮面の告白』を発表したのは1949年(昭和24年)であり、ちょうど戦争終結の混乱の時代である。
 今のようにマスメディアは発達しておらず、性的嗜好が正常なのか異常なのか、自分のことはおろか、周りの状況を知る術はなかった。そんな中、三島はあたかも自伝かのように女性を性的に愛すことができない青年を主人公とした『仮面の告白』を書き綴った。男性の血潮・汗の匂い・死というものに欲望を感じる青年を描いたことは当時からしてみれば非常な事態であって、たいへん勇気のいる作業であった。戦後初めて、同性愛について深く取り上げられた小説である。

第2節 福田恒存、曰く
 しかしながら、当時の人々からすると、この内容はなかなか受け入れがたいものだったようである。
 福田恒存は、『仮面の告白』を “豊饒なる不毛” と評している。
また、
 “この作品に『仮面の告白』と題したゆえんは、つまり作者が仮面のうしろに自己の素面(すめん)を自覚していたことの、なによりの証拠ではないか。”
 とある。つまり、
 “仮面をかぶろうとする要求そのものに――三島由紀夫は素面の自己を発見せずにはいられなかったのだ。”
 と言っている。簡単に言い換えるとこうだ。 
 「仮面とはつまりは演技であり、演技をしている自分を描いた作品を描くことにより、またまた言い換えて、演技で嘘の告白をすることにより、その裏で何にも左右されない普遍的な自己を確立していった」
 ということである。
 残りは、三島の文章自体を賞賛する言葉であり、 “ことばによる散文芸術の魅力” だとか “ことばの芸術” だとか述べ、最後は、 “今後のかれのしごとに現代文学は大きな期待をもたなければならない。三島由紀夫は『仮面の告白』において到達した地点から、新しく出発することによってこの期待に応えてくれるであろう。かれが自由自在に仮面を使いこなすのをぼくは楽しみにしている。” とある。

 第3節 疑問の発生 (内容に触れていない→表面的なレトリック・文体にばかり触れている)
 しかし、よくよく考えてみると、福田恒存が述べていることには不可解な点がいくつかある。
 “豊饒なる不毛” とは一体どういうことか。
 豊饒=肥えた土地・豊かなこと、不毛=土地が痩せていて作物ができないこと・成果の実らないことである。
 よく意味が分からない。頭をひねって、「いろんなことがたくさん書いてあるけれど、結果的には駄作である。」と言っているのかと考えるが、この続きを読んでいくと
 “『仮面の告白』は三島由紀夫の書いた作品のうちで最高の位置に位するものであるばかりでなく、戦後文学としても、のちのちに残る最上の収穫のひとつであるとおもう。”
 と述べている。一体何が言いたいのか。
 また、この告白は、真の告白ではなく演技の告白であるとし、あたかも同性愛など実際には存在しないと言っているようである。全体を読んでみても、同性愛に触れている部分はない。あるのは、表面的なレトリック・文体の賞賛がばかりで、内容まで深く掘り下げることをしていないのだ。「臭いものには蓋をしろ」的な考えで、「見たくないものには目をつぶった」ようである。
 一体これで本当に三島由紀夫の『仮面の告白』について語られたことになるのであろうか。


第2章 作品の分析

第1節 福田恒存への疑問
 福田恒存の述べていることには、確かに納得する所も多い。三島の文章はレトリックの嵐だ。細やかな気配りが最高にできている。しかも、『仮面の告白』は三島が24歳のときに書き上げた作品である。今後に期待が生じないわけがない。しかし、そこで語られなければならなかったのは、そんな崇高に見せた表層部分ではなく、もっと具体的に内容を直視した仮面の「告白」部分ではないだろうか。

第2節 『仮面の告白』の分析
 『仮面の告白』は、主人公・公ちゃんが生まれたときから青年期までの自分を深く分析し、自己の性的指向を明らかにしていくという物語である。幼年期、彼は祖母より男の子の遊びや、男の子と遊ぶことを禁止され、祖母のペットのような時代を送った。そのためか、少年は男性的なものに異常な憧れを抱き、汚穢屋や、兵隊、王子などをアイドルとして仰ぎ見るようになる。そして、13歳のとき、セバスチャンの殉教図を見て始めての射精をするのだが、そのセバスチャン殉教図は同性愛の男性なら魅了させられずにはおけない、非常にポルノグラフィックな作品である。やはり何といってもあまりにも逞しい、まるでヘラクレスのような肉体、なまめかしく燦然と輝く肉体に惹かれてしまうのだろう。後ろ手ではなく、両手を頭の上で縛ったポーズも美しい身体のラインをより強調している。この絵は、ヒルシュフェルトが性倒錯者の特に好む絵画彫刻類の第一位に挙げている。
 そして、少年が中学生になり、同級生の男の子に生まれて初めて恋をする。ちょっと不良で学校を何回も落第していて、体格も他の男の子達よりも数倍大きい男の子だった。しかし、少年は学校の行き帰りのバスの中で、貧血質の冷たい令嬢もに惹かれた。「この感情は恋かしら。」と考える。だが、同時に、頭をテカテカに光らせた若い粗暴なバスの運転手にも惹かれていたのである。この矛盾を少年は次のように解釈している。運転手への少年の視線は、何か避けがたい・息苦しい・辛い・圧力的なものがあり、令嬢にたいしてのそれは、どこかわざとらしい・人工的な・疲れやすいものがある。
 戦争が始まってからは、高校生の八雲という美少年の裸に享楽する。そして、園子という女性と恋仲になるのだが、園子に対して精神的に愛すことはできるが、性的に愛することができない。女として愛そうとすると、心に鈍い疲れを感じる。そうやって、主人公の青年は園子との関係を終わらせていくのだが、数年後、再び園子と出会い、心身ともに今度こそ愛せるかもしれないと思うのだが、その思いもあっけなく、汗に濡れ半裸姿の、粗暴だが浅黒く整った顔立ちをしている青年を発見し、園子のことなど眼中になくなってしまう。
 そして、私という存在が「不在」に入れ替わったのを感じる。つまり、異性を愛せず、同性への愛に向かってしか生きていけないということを感じたのである。
ここまでが、『仮面の告白』の主人公の性的指向にそって分析したものである。
では、この『仮面の告白』は三島の真の告白だったのだろうか。


第3章 ゲイ当事者の読みと証言

第1節 現在のゲイ当事者は『仮面の告白』をどう読んだ?
 伏見憲明(ゲイ当事者の姿を描き第40回文藝賞を受賞した『魔女の息子』の著者)が編集長を務める『QUEER Japan』のVol.2~三島由紀夫からゲイ文学へ~を参考に謎を解いていこう。
   「カミングアウトという概念さえなかった時代、みずからの指向に深く切り込み、
  独自の世界を作品世界に展開した三島由紀夫。その美学は、日本の同性愛文化に
  長く影響を与えてきた一方で、呪縛でもあった。『仮面の告白』は何を意味するのか。
  (以下略)」
 ということを、欧米ゲイ文学翻訳者とゲイ作家の西野浩二と同じくゲイ作家の伏見とが座談しているのだが、ここで面白いことが話されていた。
 『仮面の告白』は三島の“隠れホモ”宣言だという。現役ゲイの西野がまだ10代で悩める隠れホモだったころ、初めて『仮面の告白』を読んだとき、「あぁ、この感覚分かる」と多くの部分で感じたらしい。また、
 「これは本当に当事者じゃなきゃ書けないなと、とても共感した」
 と言っている。また、伏見は『仮面の告白』は、彼のデビュー作『プライベート・ゲイ・ライフ』と共通しているところが多く、はっきり言って、青春っぽいと言っている。ゲイである彼からすると、あーでもないこーでもないと屁理屈をこねるまでもなく、明らかに「とってもさわやかな青春小説なのよ(笑)」のようだ。
 時代は違おうと、ゲイ同士、通じるものがあるらしい。逆に言うと、ゲイ同士にしか分からない心の通いがあるのではないか。

第2節 生き証人・福島次郎
 しかし、いくら周りが三島はゲイだ!とギャーギャー言おうとも、はっきりとした証拠がなければ事実としてそれを定着させることはできない。
 ここで、三島の恋人とされ、その関係を描いた福島次郎の『三島由紀夫――剣と寒紅』を取り上げてみたい。福島は、この中で三島のことを「迷える子羊」と表している。作家としては文学の神様に寵愛された三島だが、恋愛の神様にはとことん愛されなかったようである。
 この『三島由紀夫――剣と寒紅』には、知られざる三島の変態具合が満載である。(ここで言う変態とは悪意のある言葉ではない。三島の人並み外れた感覚を表す最高の言葉である。)たとえば、三島が写真集『薔薇刑』において、そのボディービルにより厳しく鍛え抜かれた身体を世間に披露してみせる、という記述がある。「なんだ、これなら別にそこまで変態じゃないじゃないか」と言われるかもしれない。確かに、これが「この鍛え抜かれた一寸の無駄もない俺の身体を魅てくれ!」的なただのナルシシズムならいい。しかし、三島は違う。魅せるだけではとどまらない。
 「俺の身体を魅てくれ!そして、この俺に感じるんだ!!」
 とここまで発展するというのだ。もちろん、これは男性に対して発せられた思いである。
 このように、常人にはいささか共感できかねる思考を持つ三島ではあるが、恋愛に対しては純情で真剣であった。福島と初めての夜を過ごすときも、ホテルの室内でムード作りの音楽を流すための(当時そうとう珍しかった)ラジオを小道具として使ったり、福島と関係ができたときは、喜びに濡れそぼった、甘えきった優しい声で「ぼく・・・幸せ・・・」と言ったりと、他人には絶対に想像のつかない純情な一面を持っていた。もちろん、音楽を流すムード作りは三島の発案ではなく、誰かから教えてもらったことを忠実に実行していたのである。そして、福島からひどい仕打ちを受けた後は、ブランクの時期に入っている。
 これが、自己を偽った仮の姿であろうか。演技でここまで自分を追い込めるだろうか。いや、おそらくこれが三島由紀夫の真の姿だったのだろう。

 第3節 タイトルの謎の究明
 先に挙げた、『三島由紀夫――剣と寒紅』に、男二人が酔った勢いで三島と肩を組もうとすると、三島は慌てて「男同士肩を組むなんて、変だよ。」「肩をくっつけて歩くなんて、すぐゲイと思われちゃうよ。」と言ったという記載がある。若いころ、あれほど真摯に『仮面の告白』『禁色』で自己の同性愛について書き綴った三島だが、やはり世間は恐かったのか、自分がゲイと思われることを恐れていたように思う。
 『仮面の告白』というタイトルは“仮面を被った演技の告白”という意味ではなく、仮面によってホモということを隠す、“隠れホモの告白”という意味だったのではないか。
 

終章
第1節 結論
 このように、三島由紀夫は『仮面の告白』において、シャワーのようにレトリックを散りばめた文体の中に偽りの同性愛者という自分を作り出すことによって真の自分を発見しようとしたのではない。むしろ、三島は正真正銘の悩める同性愛者で、自分の悩みを正直に打ち明けたのが『仮面の告白』なのである。

第2節 本論文の示す展望
 連鎖式に問題を解決していき、『仮面の告白』に感じた謎は解かれたと思う。この論文により、『仮面の告白』は三島由紀夫が、己の特異な性質にしっかりと目を向けた真の告白であることが分かった。
 そして、その後、三島は『禁色』でさらに自己の内面を発展させている。しかし、『禁色』以降、三島は同性愛についての小説をぴたりと書かなくなってしまう。これほどまでに深く自己を見つめた三島がなぜ自分を、はたまた同性愛についての作品を書かなくなってしまったのか。ここにはまた、大きな問題が隠されているように感じる。今後、三島文学に触れる折には、この点に注意しながら読み進めていきたいと思う。

参考文献:『文芸読本・三島由紀夫』 河出書房新社
     福島次郎『三島由紀夫――剣と寒紅』 文芸春秋
     『QUEER Japan』 勁草書房



シャンプー

2007-11-07 12:47:36 | 徒然
今日は晴れ。
肌にあたる風も冷たくない。

よし、やるか。




ちょっ、まっ・・・
コラッ





ザーーーーっ。



パシャパシャパシャ



ゴシゴシ。



ブオーーーー。



         




 → 


My favorite.

2007-11-06 12:42:26 | 徒然
私の好きなものの中に 本 がある。



大学時代、私はよく本を読んだ。
そして、特に集中して中毒のように本を読む時期があった。

春、教育学部の屋上で。
シーツをひいて、寝転んで、桜の木を見下ろしながら。


夏、冷房の効いた現代美術館で。
足音が冷たく響く館内は、無機質だけど知に溢れてた。


秋、部屋のベッドで。
窓からはセイタカアワダチソウが見えてた。
本当はススキが好きなんだけど。


冬、お気に入りのカフェで。
高校時代から使わせてもらってるその隠れ家で、何冊の本を消費したか。





何を読んでたなんて記憶にないけど、何かを読んでた記憶は鮮明に・・・。