【ネタ切れに付き、過去記事の「編集・加筆」です。】
「道徳教育は思想の押し付けだ。」と言う人がいますが、「道徳」は「思想」ではなく「思考」なので、洗脳教育でない限り、押し付けられる事は有りません。現在では一部の教師が生徒に「自虐史観」を教え込み、「偽善的な平和思想」を押し付けようとしてますが、これこそが「倫理観」の押し付けと言え、憲法の保障する「思想、良心の自由」に違反します。
「道徳」とは、自分自身が自分の行動を正しいと思う観念です。他人の行動を参考にはしますが、自分自身で善悪を判断する必要があり、他人から「強制」されるものでは有りません。
井上毅(いのうえ こわし)と元田永孚(もとだ ながざね)によって起草された「教育勅語」には「朕惟フニ・・~~・・我カ國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス(私が思うに、・・~~・・これは我が国柄の精髄であって、教育の基づくところもまた実にここにある。 )」と書かれています。
「・・~~・・」の内容は、明治天皇の「純粋経験(道徳)」であり、「教育(倫理)」は「道徳」に基づくとされています。
文末には「朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ (私は国民と共に常に心中に銘記し、皆でこの徳を共有することを切望する。)」と、明治天皇が自ら「国民と道徳観を共有したい。」と書いています。
「倫理」とは、他人との関係性や、他人から見て正当と思われる観念なので、法律や規則が必要になり、「儒教」も「倫理」の経典として利用されました。
儒教では「五倫」にある様に、先祖を敬う義務が有り「先祖は正しい」事が大前提です。これを拡大解釈し、自分の先祖の悪事を隠し、良い事だけを選別して記録に残します。それどころか、実際には無かった事でも「善人の先祖」を創作する事も良いとされる場合があります。一方、他人の先祖は良い必要は無く、他人の「悪い先祖」を創作してでも、自分の先祖を相対的に善人とする事も有りがちです。これが一部の儒教国家での「倫理観」になっています。
多くの組織では、組織内部に「倫理(審査)委員会」を立ち上げ、自浄作用を発揮しようとしていますが、あくまでもこれは内部の倫理であって、外部から見ると違和感を覚える事が有ります。それどころか、その内部組織である「倫理委員会」が外部に対して強制する場合が見られます。また、これに本来従う必要のない外部組織が、権威があるとされる「倫理委員会」に、法的根拠が無いにも拘らず忖度し、これに従う例も見られます。
例えば、放送禁止用語や差別用語には法的根拠がないにも関わらず、心から差別意識の無い人たちに対しても「言論の自由」を脅かします。逆に差別意識のある人達に対しては、その内心まで変えることは出来ず、偽善と言えます。
「道徳」は思考であって「思想」では有りません。自分の行動の正しさを、自分で判断するのが「道徳」であり、その根拠を八百万の神に求めるのが神道です。神道は道徳を規範としているので、神がどう判断するかを自分自身が決めなければなりません。「神であるスサノウノミコト」のように、他人から見て明らかな悪行も有り、これは「倫理的」とは言えませんが、それを含めて自分で判断するのが「道徳」です。
「和を以て貴しと為す」は同調圧力や予定調和ではなく、議論を尽くして調和を諮ることです。「諮る」は決して「謀る」ではありません。「道徳」は自分自身の問題なので、他人と価値観が違っても、「自分の道徳」を他人に押し付ける事は出来ません。
「倫理」は思想であって、思考では有りません。自分の正しさを他人が判断する事を「倫理」と言い、その根拠を神(God)に求めるのが多くの一神教です。一神教では「神の言葉」を聴いたとする人がいて、その人が正しいと判断した事が正義になり、これに従う事が「倫理」になります。例えこれが不合理だったとしても、従わなければ倫理観の無い人にされ、ガリレオもその被害者の一人です。「倫理」とは同調圧力や予定調和そのものです。
独善的な人が自分に反対の人達を攻撃する時は「倫理」を武器に出来ます。これを利用して宗教覇権を狙い、悲惨な宗教戦争が起きます。
つまり、「倫理」は宗教的と言え、「道徳」は「ヒトが人である事を証明する命題」とも言えます。この事からも「道徳である神道」は宗教とは言えません。
何れにしても人間が判断するので、正当性を与えるだけであり、正しさを証明するものでは有りません。