オメガねこ

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智識はバカを人にする。
信じるか信じないかは、自分次第です。

「先住民族」 と 「縄文人」 ③

2021年07月23日 | アイヌ
 ミトコンドリアは真核生物(動植物・菌類など)の細胞(主に細胞膜内部)を構成する小器官です。他者の細胞に憑りついた共生関係にある微生物と考えられていて、ヒトの体そのものではないと云うのが、有力な説とされています。また、人体そのものの遺伝形質(体形など)には係わっていないともされています。

 ミトコンドリアは、宿主(植物や動物の細胞)の生体反応を維持するためのエネルギーや物質を製造する工場の働きをし、宿主(人間など)とは別に自ら増殖するDNA(mtDNA)を持っていて、ヒトの体重の10%を占めるそうです。

 その「遺伝情報(mtDNA)」は女性からしか伝わらないため、男性は自分の「mtDNA」を後世に残すことができません。女性は、自分が産んだすべての子に「mtDNA」を伝えますが、その子がすべて男性だった場合、その女性の「mtDNA」は孫に受け継がれずに途切れます。つまり、ある個人の「mtDNA」が後世に伝わるためには、すべての世代に少なくとも1人の女性が産まれる必要があります。

 この事から『女系天皇』にも「正統性」が有るようにも見えますが、ミトコンドリアはヒト(本体)の細胞とは別に増殖する「共生生物」で、人体の器官の一つとして存在しているだけです。家系は家を継ぐのですが、家の賃借人を家系に含める事はしません。賃借人には居住中の家とは別の家系が有るので、混同すべきではありません。

 それは兎も角、日本人に特有なミトコンドリア・ハプログループ(mtDNA)について調べると、

「mtDNA-B」は4~5万年前にアジアで分岐し、その分布はアジア一帯とアメリカ先住民に拡がっています。日本での分布は、縄文人骨にも含まれていて、現在では特に東京と宮崎で多く検出されるそうです。日本人に占める割合は「mtDNA-B4が9.1%」、「mtDNA-B5が4.3%」だそうです。

「mtDNA-D*」は48000年前に東アジアで誕生し、東アジア、東南アジア、北アジア、中央アジアそしてアメリカ大陸に至るまで広範囲に観察され、モンゴロイドの分布域と概ね重なり、日本人の約40%がこの系統に属し、下位の「mtDNA-D4*」は日本人の30%以上が属しているそうです。

 それは、日本人は縄文時代から女系でも繋がっている事を示していて、天照大御神の女系子孫(男性も含む)が30~40%いる事になります。但し、男性は「mtDNA」を子孫に残す事が出来ないので、「天照大御神のmtDNA」を継承する為には、最低限の必要条件として、神武天皇のY染色体を継承した天皇の后は「大和撫子」である必要があります。

 それはさておき、寒冷地の民族が温度・湿度の高い温暖地に来ると「熱中症に罹り易い」とされ、しかも「男性は女性の二倍」発症するとされています。熱中症には発汗に関して二種類あり、「汗が出にくい体質(高緯度民族)で体温が上がり過ぎる」場合と、「汗が出やすい体質(低緯度民族)の為に血流の低下」する場合です。大和民族の様に中緯度に継続して数千年住んでいる民族は日本の気候(高温多湿)に順応していて、熱中症に罹る割合は比較的少ないと言われています。

 また、熱中症による男女別の死亡率は「肉体労作時で男性が2倍」になり、「安静時には男女差が無い」とされています。

 この事から、13世紀ころに北方から北海道に南下してきた民族が熱中症で激減した事は、想像に難くありません、北海道の旭川や帯広などは40℃を超える日が有るくらいなので、「北方系アイヌ」の男性が減少し、「北方民族の形質を引き継いだ縄文女性」と、滅ぼされずに生き残った「縄文男性」との間に生まれた子孫が現在の「アイヌ民族」と言われる人々の大半と思われます。

 この推論が正しければ、北方民族の形質が保存されている「アイヌメノコ」には、日本人全体の平均値と同程度の「mtDNA-大和撫子」が保存されていると考えられます。



「外来民族」 と「先住民族」

2021年03月25日 | アイヌ
 北海道に縄文人が暮らしていた頃には、恐らく「縄張り名」と「風景名」以外の「地名」は無かったと思います。当然、その「縄文人」の名称も20世紀になってから付けられた名前なので、その人たちは自身の人種などは知らなかったと思います。明治のころでも「北海道の先史時代の住民はアイヌやコロポックル」では無いかと言われていましたが、今では「縄文人」であるとされています。と、言うより科学的に「縄文人」が定説になっています。

 若しも、北海道に住んでいた「縄文人」の直系の子孫が「倭人(縄文~弥生)⇒和人(大和時代)⇒コロポックル⇒アイヌ⇒日本人」だった場合、この内どれを「北海道の先住民族」とするかは、科学的には「倭人」ですが、政治的には「アイヌ」とされています。

 確かに蝦夷には、「日本人」より先に「アイヌ」が住んでいたようにも見えますが、それは「倭人や和人を日本人と見做さない」場合に言える事で、「アイヌは先住民族」とするのは単なるレトリック(実質を伴わない表現上だけの言葉)に過ぎません。

 「アイヌの物語」にですら、アイヌとは別の民族である「コロポックル」が住んでいた事が語られているので、アイヌ自信が「自分たちは先住民族ではない」と言っています。勿論、「コロポックル物語」を単なる作り話に過ぎないとして否定すれば、その部分では「アイヌは先住民族」と言えますが、これは「アイヌ文化の否定」になるので、「アイヌ文化振興法(1997年~2019年)」の趣旨に反し、「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律(2019年~)」の目的にも反します。

 つまり、アイヌ文化とアイヌの先住性を認めても、北海道の先住民は「コロポックル」になり、西暦1300年頃に「アイヌがコロポックルの北海道に進入(侵入)」してきた事になります。アイヌの伝承には、その後の「コロポックル」が何処に行ったか語られていないので、「コロポックル」が逃げ去ったのか自然淘汰したのか、はたまた民族浄化されたのかは分かりません。

 また、「コロポックル」が「倭人」だった場合は、本土の倭人も含めて民俗の違いはあっても「日本人が北海道を含む日本の先住民」になり、少なくとも「現在の日本国の先住民族は、縄文人から繋がる日本民族」と言えます。また「コロポックル」が「倭人」でなかった場合でも、誰かが「私はコロポックルの子孫」であると名乗り出て来ない限り、暫定的に「日本人は北海道の先住民族」になります。

 それは、日本の「墾田永年私財法(743年~)」や「開墾地無償付与制度(1897年~)」では、「無主地の場合、最初に開拓した者がその土地の所有権を得る」とされていて、現在の国際法でも「無主地先占」の概念により、他の国家に属していない土地は、自分の領土として編入することが認められているからです。

 「アイヌ」が国家を形成した史実は無く、それどころか、少なくとも「(現在で言う)アイヌ民族は5部族以上」あって、縄張り争いが絶えなかったようです。当然、耕作もしないので「開拓」の概念自体が有りません。縄張り争いを「侵略」の定義に含めるかどうかは分かりませんが、奪い取った土地を統治した形跡も無いので、単に「縄張りが増えた」だけと言えます。

 日本人が統治する日本に住み、日本とは違う文化を継承する「現象」を以て「外来アイヌ系の子孫」を「先住民族」とするのなら、日本各地にある中華街の「外来華僑系の子孫」も「先住民族」になってしまいます。



「イオマンテ」 と 「カムイ」

2021年02月18日 | アイヌ
 「イオマンテ」はアイヌ独特の祭祀とされていて、様々な魂を神の元に送り返す儀式だそうです。有名なのは、捕獲したり飼育した熊を食べた後に頭部等をを祭壇に祀るのですが、大きく分けて少なくとも5部族以上は存在したと言われる内の、どのアイヌ部族の祭祀かはハッキリしません。

 「カムイ」は神を意味する言葉のようですが、魂も「カムイ」とされ、「イオマンテ」の「イ」は「それ」を意味し直接呼ぶことが恐れ多い「カムイ」に対する婉曲表現とされています。しかし、「カムイ・コタン(神の集落)」などの地名として神を「名指し」で呼んでいます。また、魂も「カムイ」なのですが、「恐れ多い」と言いながら、熊を二本の棒で挟み殺して食肉部分から「魂」を分離する事には恐れを抱かったようです。

 また、「カムイ」は日本語の「神」からの借用語ではないかと言う説もあり、アイヌにとっての霊的なモノを「イ(それ)」と言って、日本語の「かみ」と合わさって「かみい」が「カムイ」に変化したと考えれば、上記の不自然さにも納得がいきます。

 つまり、「神ではない動物」を殺し、その「魂」を霊的な世界に戻す事で、その魂が肉体を伴って再来すると考える「アニミズム(汎霊説)」であり、和人の「自然信仰(Nature Faith)」とは違うと云う事です。「カムイ・コタン」と称される場所が決まっていて、動物を肉と「イ(魂)」に分離し、肉は食して「イ」を「カムイ・モシリ(神霊の世界)」に還します。

 この事から、「熊送りの儀式」は、和人から「神」の存在を知らされた後に「イオマンテ」に変化したか、或いは「熊送りの儀式」である「イオマンテ」に「カムイ」が関与するようになったのは、「アイヌ」が「神の存在」を知った後であると推測できます。

 「カムイ・コタン」は漢字で
「神居古潭」と書き、旭川に流れる石狩川でも急峻な場所です。そこにはニッネ・カムイ(悪神)が住んでいて、ヌプリ・カムイ(山の神)とサマイクル(アイヌの英雄)が協力して退治したと云う叙事詩(ユーカラ:英雄伝説)が残っているそうです。つまり、アイヌ(良い人)は悪神を殺す事が出来る事になりますが、この意味からすると「カムイ」は和人が信仰する「神」ではないし、一神教で言う「ゴッド」でもありません。

 ましてや「カムイは恐れ多くて口にできない」程の存在でもありません。私の勝手な推測ですが、「カム」はアイヌにとっての霊を意味し「悪霊」と「精霊」がいて、「イ」は食料を運ぶ「動物の魂」の意味で、合わせて「カムイ(霊魂)」を意味するのではないかと思われます。

 「神道」では神は萬物に宿りますが、6世紀ころに支那大陸から伝わった「陰陽道」では、霊(神)には「善悪」があり「悪霊(金神)」を祈祷する陰陽師(修験者)を必要としました。「カムイ」は、「神道の神」ではなく、「陰陽道の霊」と同様に「善悪」が有ります。

 日本が混乱した14世紀(鎌倉後期~室町時代)に蝦夷地(北海道)に移り住んだ「アイヌ」には、この「神道の神」と「陰陽道の霊」が混合した「カムイ」が伝わったような気もします。
 
 人にも「良い人(アイヌ)」と「悪い人(ウェンペ)」いて、霊にも「良い霊」と「悪い霊」がいると云う「善悪二元論」は、支那大陸から伝わった「陰陽道」の思想体系です。



「アイヌ差別」 と 「土人差別」

2021年01月07日 | アイヌ
 明治32年に制定された「旧土人保護法」は、何故「土人保護法」と書かれていないのかと言うと、「新土人」を保護しないからです。「土人」とは土着民の事で、「都(みやこ)」以外に定住している人々を意味し、今で言う「先住民(族)」の事では有りません。

 その意味では、自分にとっては新しい土地に「土着」する覚悟で開拓団として入植する人も「土人」になり、政府は元々定住していた人を「旧土人」と呼び、新規の定住民を「新土人」とすることで、政策上の区別が必要だったからだと言えます。

 今の憲法では、国民の権利を「新・旧」で区別する事は禁止されていますが、明治憲法下では「旧土人」を保護し、「本州」で十分に教育を受けた新規開拓民(新土人)との「能力差」を補正するために「旧土人保護法」が「旧土人(アイヌとされる人々)」の要請も有って、制定することは合憲でした。

 
北海道旧土人保護法制定の経緯(Wikipedia)

明治維新後に政府はアイヌ保護政策をとり、授産と教化を進めてきたが、アイヌが貨幣経済に馴染めなかったこともあり、充分な成果は上げられなかった。1891年(明治24年)に道庁が授産指導を廃止すると、耕地を捨て放浪する者が現れ、政府が与えた生活基盤の多くが失われてしまった。こうしたアイヌの窮状を救う目的で、1893年(明治26年)に加藤正之助によって第五回帝国議会へ北海道土人保護法案が提出、アイヌ自身も代表を送り法案成立を目指して国会に陳情し、1899年(明治32年)に制定。

 憲法第一四条 第一項

すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

 正しくは「旧土人」とは言っても所謂「アイヌ(ウィルタ、ニブフなども含まれる)」だけではなく、更に古くから定住していた和人も含まれています。ここで「所謂アイヌ」と書いたのは、元々「アイヌ」と云う定まった定義の民族がいた訳では無く、人間(良い人)を「アイヌ」と自称する「文字を持たない複数の部族」を、和人が「江戸時代」以降に「アイヌ」と呼んだことが起源の様です。

 この「江戸時代」の時代名も、「江戸時代の人」が自ら言ったのではなく、明治以降の学者が考えた呼称だと思うので、当時の「アイヌ(良い人)」が自身を「アイヌ」と言わなかった事は容易に推察できます。政策上の成り行きから、保護対象の「旧土人(所謂アイヌ)」と、優遇対象外の「その他の人(新土人)」を分けた事が裏目に出て、百年後の ㋚系の人権派から「土人は差別用語だ」と追及されるハメになったようです。

 しかし、これを利用して「金儲け」を企んでいるのは寧ろ「㋭系の人士」で、所謂「戦後保守」と言われる人達です。日本人である「アイヌ」を「アイヌ民族」として民族分断を謀る事で、恰も多様性を認める心優しい「日本民族」と、保護されるべき「アイヌ民族」を創り出し、財政支出をする事で「キックバック」を得ようとする「ウェンペ(悪い人)」が出現しました。

 これこそが「アイヌ差別」です。差別用語ではない「土人」の言葉が差別的に扱われるようになったのは、「旧土人」に対する行き過ぎた「保護」が原因で、「逆差別」を感じる新規入植者を作ったからです。同様に現在でも、差別されていない「アイヌ」に対して行き過ぎた「予算措置」がとられると、「逆差別」を感じる日本人が現れて「アイヌ」が差別用語に変質する恐れがあります。過去には「アイヌ」ではなく「ウタリ(仲間)」と呼ぶべきだとされた時期が有りました。

 是非とも「ウェンペ」には、「アイヌ協会」から差別を受けている「
砂澤 陣氏」から歴史を学んでほしいと思います。


「先住民」 と 「先住権」

2020年09月25日 | アイヌ
 1万5千年以上前の縄文時代以前の日本列島とその周辺地域は(旧)石器時代で、そこに住んでいた「先住民」が縄文人とは違う「民族」かどうかは判りませんが、少なくとも2万年前までは「縄文時代の人」と同じ系統の人種である事が証明されているそうです。恐らく、「縄文系のヒト」が最初の人類では無いと思われるので、それ以前にも誰か他の「ヒト」が住んでいたと思います。

 それでも、その時代には「先住権」の概念は無かったと思うので、土地は「取った者勝ち」で、現在の人がとやかく言う事は出来ません。そこで、ほゞ「日本とその周辺に住んでいた縄文人」を日本史の起点に置き「縄文時代」とします。

 日本の「偏向歴史学者」は、日本列島には元々「狩猟採取」の縄文人が住んでいて、そこに「水田耕作」の最新技術を保有していた「弥生人」が朝鮮半島から渡ってきたと主張してきました。つまり、縄文人は「先住民」で弥生人は「侵略者」となります。しかし「偏向歴史学者」は縄文人の「先住権」には無関心で、半島系の弥生人のお陰で日本列島は発展したと思っているようです。

 しかし、現在では
「縄文人と弥生人の明確な区別は不可能」とされ、更に「水田稲作」が朝鮮半島から齎された可能性は無いと云うのが通説になっています。それどころか、2万年前は列島と大陸は陸続き(狭い海峡は有ったかも知れない)で「この地域全体(縄文国)に縄文人が住んでいた」可能性も考えられます。それが、縄文海進で列島と大陸が分断され、その時に「朝鮮半島」が出来たと言えます。

 縄文国の西側には「蛮族」が住んでいて、その侵略により「先住民」である「大陸・半島縄文人」が虐殺され、その一部が列島に逃れるのに都合の良い「携帯に便利な土器」を齎し「弥生人」と言われる様になった(大陸)縄文人です。これは「水田稲作」とは関係ありません。

 次に「偏向歴史学者」が考え付いたのが「アイヌ先住民族説」です。この説でも、アイヌ以前に住んでいた「先住民」の「先住権」を口にする事は有りません。それどころか、「アイヌの先住権」を主張し始める有様です。嘘も100回言えば本当になるようで、無知な国会議員が総員賛成で「アイヌは先住民族法案」を可決してしまいました。

 元(蒙古)によって追し出された樺太オホーツク民族(樺太アイヌなど)が北海道に逃れて来て、古株の様な顔をして永住し始めたようです。樺太オホーツク民族は「縄文国大陸部」から縄文人を追い出した民族なので、本来は敵なのですが、心の優しい「縄文人」はこれを受け入れ、
「コロポックル物語」の結末を迎えます。

 若し「アイヌ民族」を先住民と言うのなら、支那大陸から列島に逃れてきた「支那民族」も、中国崩壊後は「日本の先住民」になってしまいます。当然ながら、無知な国会議員は「支那民族は日本列島の先住民族法案」を可決するでしょう。

---くわばらくわばら---