オメガねこ

知識は人をバカにする。
智識はバカを人にする。
信じるか信じないかは、自分次第です。

「裸の共産主義者」 と 「制服の自由主義者」

2025年01月15日 | 主義・体制
 なんでも、「共産主義(150年前)」⇒「社会主義(100年前)」⇒「全球主義(50年前)」と、名を変えて「世界統一政府」の成立を企んでいる組織が暗躍(今では表立って活躍)しているそうです。

 その正体を詳らかにする為「
裸の共産主義者」と銘打った書籍が発刊されているようです。それは、私が過去に投稿した「世界革命行動計画 と 対策」シリーズにある「25ヶ条の世界革命行動計画(250年前)」よりも更に細かく嚙み砕いて論破し、その正体を裸同然にした内容のようです。但し、私は「本を読まない主義」なので、書評以上の内容は分りませんωω

 それでも、「裸の王様」の喩えからすると、「共産主義者」のみならず「ホシュ主義」などを掲げている人に対しても同じことが言え、周辺の人が真実を言わなければ、当該者は当然として組織自体が崩壊すると云う内容ではないかと推察はできます。

「裸の共産主義者(The naked Communist)」:1958年にアメリカの共産党が掲げていた「45の目標」に対して書かれているそうですが、実際にUS共産党が掲げていたかどうかは不明。

 革新的な思想や行動をとる人は「ラフな服装」で論陣を張る人が多いように見えますが、保守派の論客には「ノーマルな服装」をしている人が多いようです。「保守派」とは言っても、単に「保守」を冠しているだけの人は「(ビジネス)ホシュ」として「ソッチ系」に分類しますωω

 同様に「革新」を冠しているだけの人も「(ビジネス)カクシン」として「アッチ系」に振り分けます。憲法に規定のない「政党」なので、「ビジネス」が入り込むのも止むを得ないのですが、「政党政治」自体が正統とは言えませんωω

 それは兎も角、「ノーマルな服装」で論陣を張る保守派の人たちは、基本的に「自由」を重んじます。自由ならどんな服装をしようと関係ないように思えますが、本質的には「自由は規律の中でしか保証されない」と言え、現行が一致していると思います。

 革命では自由を獲得することは出来ないのですが、自由が保障されたサヨクは「革命で自由を!」と叫び、社会を崩壊に導きます。崩壊後には世界政府が必要になり、これに反するものは粛清されるので、世界の人民が一様な意見を持つ「完全な民主主義」が成立する、と支配層は信じているようです。

 当然ながら、完全な民主義国家(究極の共産主義)には「革命」は無用なので、その活動家もこれまた粛清の対象になり、
それは、共産主義以外で積み上げた「過去の資産」を食い潰すまで継続します。


「個人主義」 と 「マイノリティ」

2025年01月05日 | 主義・体制
 徹底的な「個人主義」であれば全員がマイノリティ(この場合は個人)なので、少数者に対する弾圧・圧迫は起こりません。通常、この「少数者(一般的なマイノリティ)」は個人よりも大人数なので、「個人攻撃」は可能・・・と言うよりも、実際に起きています。卑近な例では「マイノリティーである少数政党が、保身のために個人攻撃をする」などです。

 所謂「いじめ問題」や「闇バイト」でも、マイノリティが虐められるのではなく、マイノリティ(少数グループ)が個人を対象に犯罪事件を起こしたり、個人を虐める事で起こります。

 「不良グループ(半グレ)」は、大多数の善良者から見ると「社会的マイノリティ」で、善良者がマイノリティを虐めることは無いのですが、「マイノリティ」がイジメの主体になる可能性はあり、実際に「ホワイト案件」などと騙されて事件が起こっています。この場合の「マイノリティ集団」は、互いに見ず知らずの人の集合で「個人主義」が齎した犯罪とも言えます。

 これらの犯罪防止や「いじめ問題解決」の啓発は、大概「大多数の善良者」に向かって行われますが、現在「多様性の包摂」などの似非理念が、善良者には行き渡っているので啓発しても意味は無く、「個人主義マイノリティ」にこそ周知すべきです。

 「いじめ問題」の最後の砦は「家族・家庭」なのですが、その「家族制度」が破壊されつつあります。

 「選択的夫婦別姓(夫婦別姓制度への第一段階)」は、本来は本人同士の問題なので税制を含めて行政が関与すべきではないのですが、これを法的に受け入れると、その結果として、自分の子供も個人主義の被害者になることを容認しなければなりません。

 また、夫婦・親子を個人の問題に帰結させるのならば、家族に関する「優遇税制」も国が関与できない筈ですが、何故か「夫婦別姓」「LGBTQ・・・」など、すべての組み合わせを家族として国に認めるように要求しています。「個人主義」を主張したいのか、「家族主義」を重んじたいのかが、私には理解できませんωω

 個人を除けば「少数者」の最小員数は2人で夫婦も含まれ、個人である「子供」がイジメの対象になっている事件も見受けます。様々な思想は大脳皮質が作り出しているのですが、脳の90%以上を占める大脳・小脳などがこれを認めているとは思えません。

 病的な脳内不整合など、これらの欺瞞は「カネ目」で解決できるかもしれませんが、生物の本能(大脳・小脳)を浅知恵(大脳皮質)で改変すると、そこには混乱しか生まれません。

 「個人主義」は「民主主義」の中でしか安定的に成立しません。つまり、「大が小を包摂する」のではなく、卑屈・卑劣にも「小が大に包含される」ことを認める人が「個人主義」を主張していると思われます。

「多様性の包摂」 と 「一様性」

2024年12月09日 | 主義・体制
 「包摂」とは、

① 一定の範囲の中につつみ込むこと。
「知識はその中に包摂されている」〈倉田・愛と認識との出発〉

②論理学で、ある概念が、より一般的な概念につつみこまれること。
特殊が普遍に従属する関係。例えば、動物という概念は生物という概念に包摂される。

 解り易く言うと、

①’「小」は「大」からはみ出せない。強者は弱者を守る。
②’「小」は「大」に従属する。最大多数の最大幸福。

なので、「多様性の包摂」は「一様性の容認」「民主主義」と同義語になります。

 つまり、善意の人も悪意の人も、警官も犯罪者も一国家内では同じ権利(人権)を持っていて「多様性の包摂」になりますが、許容範囲を超えると排除されます。卑近な例では「民主党支配下のアメリカ」です。「みんな生きているだけで偉いので、みんな金メダル」も、財政が許せば多様性の包摂と言えなくもありませんww

 似た言葉に「多様性の容認」がありますが、これは「一様性の否定」を意味します。「みんな違って、みんな良い」です。

容認:倫理的または法律的には本来認められないモノで、禁止すると「道徳的」な問題が生じる為、社会的にあまり好ましくない存在や状態を受け入れること。

倫理:社会通念として、良いと解釈されること。
道徳:自身が良いと思う事。日本以外には余り無い概念で、独善主義や欧米由来の個人主義とは違う。

 これは「確率論」で説明でき、全ての「モノの存在」は標準偏差に従うことになります。全体を見ても、(不作為の)一部分を取り出してもその傾向は同じで、(自然現象として)犯罪者もいれば善人もいます。

 「容認」とは言っても、政策によって傾向のバラツキを小さくすることや、中央値を善良側にずらすことは可能です。この手間を省いたのが「包摂」であり全体主義国家ではよくみられる政治手法です。

 全体主義国家では、その政権維持のために、「人民を恣意的な傾向ごとに細分化」し敵対勢力の増殖を防ぎます。つまり、「人民」は「国民」であってはならず、全ては支配者に包摂されます。

 「民主党アメリカ」は、アメリカの世界覇権に反対する外国の民間人を原爆で虐殺することで世界の覇者となり「戦勝国連合(通称、国連)」を創設しました。その統治手法を「国際化」と言い、世界統一政府の端緒になります。

 独裁国家(共産主義も含む)では、反対意見を人命と共に抹殺するので、結果として全員が同意見となり「完全に包摂された民主主義国家」が成立します。政府に反対する人民は既に存在しないので当然と言えば当然ですが、包摂された「一様な世界」には私が存在しないことも確かですww


「資本主義」 と 「共産主義」

2024年04月17日 | 主義・体制
 マックスウェーバー(1864~1920年)による「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(1905年)」で、

・時間を無駄にしない
・勤勉に働く
・質素倹約してお金を貯める
・嘘をつかずに正直に生きる

などと書いているそうですが、これは宗教感を利用して、経済活動における「利潤の肯定」及び「利潤の追求の正当化」を定義したと言えます。西洋では、この「精神」を保障するには「宗教」が必須のようです。この宗教由来の「精神」を持たなければ、「強欲資本主義」によって「正統資本主義」を凌駕することになります。なので、更なる金儲けには宗教が邪魔になります。

 「共産主義」にも精神があるかどうかは判りませんが、正統資本主義と同様の「精神」が有れば「正統共産主義」が成立する可能性はあります。但し、共産主義と宗教は反目関係にあるので、宗教国家では「正統共産主義」は成立し難いと言えます。

 「強欲共産主義」の場合は、国家全体としての共産主義は成立することは有りません。人民の統治手法として「共産主義」が用いられるだけであり、支配層は「金融資本主義」で成立します。

 「神道」は宗教では無いので、日本では「正統共産主義」が成立する可能性は有ります。日本で「何々主義」が流行り始めた明治以降は、日本人は本性として「資本主義の精神」を持っていたことから、目覚ましい成長を達成しました。若しも、この時期に「共産主義」が導入された場合でも、日本は「正統共産主義」の国として発展したと思います。

 ところが、「強欲資本主義」と同様に、共産主義によって宗教が否定された場合には、西洋では「共産主義の精神」も持つことが出来ずに「強欲共産主義」が幅を利かせる事になり、パラレルワールドでも世界大戦が勃発していたと思います。

 つまり日本では、マックスウェーバーの存在や理論の如何によらず、「神道の精神」によって如何なる「主義」にも対応は可能なのですが、それでも「強欲主義」には敵わないと云うことです。

 他にも、今の世界は「強欲平和主義」「強欲平等主義」「強欲全球主義」等々が蔓延っていて、多くの日本国民が窮地に立たされています。

強欲平和主義;平和を理由に、テロ国家との経済取引を正当化する思想。
強欲平等主義;平等を理由に、技能実習生など労奴の輸入を正当化する思想。
強欲全球主義;グローバリズムを理由に、国境のない自由経済を主張する思想。

正統平和主義;各国が自国第一を競い合い、結果としての平和を齎す思想。
正統平等主義;各国が対等の立場で両立し、支配関係を否定する思想。
正統全球主義;各国の弱点を補い合う、相互協力型の八紘一宇思想。



「民主主義」 と 「独裁体制」

2023年11月06日 | 主義・体制
 ここで一首ww

稔るほど
 こうべを垂れる
  稲穂でも
のちに刈られる
 自然の摂理

 学問や技能の深まった人が、たとえ他人に対して謙虚になったとしても、支配者に利用されて一生を終えるのが「自然の摂理」です。他人に利用されるのが嫌で、排他的になったとしても、それは自己満足でしか無く、社会的な存在感を自ら捨てる事になります。

 そこで考え付いたのが「民主主義」です。時の統治権を、神の信託を受けた天子や王から、国民の信託により成立した政府に移す事で、国民が「支配者」となります。

 中華思想では、天命により支配権が移る「易姓革命」を善とし、民主主義思想では、総選挙により統治権が移る「選挙制度」を善とします。

 「多様性の包摂」とは、「多様性」を認めない人も包摂する事を意味するので、結果として「無関心」と同義語です。何かをしたい人はすれば良いし、したくない人はしなくても良い。他人はそれを否定できないし、それを否定する人すら包摂しなくてはなりません。つまり「無意味」と云う事ですww

 「多様性」には一意な正しさが無く、「易姓革命」も良し、「選挙制度」も良しで、混乱を招く事だけは間違いありません。

 ロシアの「特殊軍事作戦」は、力によって(他国の)一地域を、自国の選挙制度の下で統治する事を目的とした「民主主義の為の戦争」です。

 ハマスのイスラエルに対する「急襲テロ攻撃」は、民主主義とは無縁の武力闘争で、その目的は判然としません。

 但しこれは、多様性を容認しない組織を「多様性の包摂」として認めようとする日本や米国などの「民主主義」が引き起こしたとも言えます。特に日本では「ハマスはパレスチナの正統な統治組織」と認識している人が多く、
「いかりちゃんww」の考えは少数派です。

 私も「いかりちゃん」と似た考えで、ハマスが住民の同意なしに、パレスチナをテロに拠って(軍事)占領したと捉えるのが妥当だと思います。それは、中共が支那大陸を人民の同意なしに軍事占領しているのと同じです。何れも選挙されない勢力(注:ハマスは2006年にパレスチナ立法選挙で勝利しガザ地区を統治したが、その後議会は実質的に停止)による「非民主主義」による統治です。

 当初の「ハマス(イスラム抵抗運動)」は、「PLO(パレスチナ解放機構:アラファト議長)」の敵対勢力で、イスラエルからの軍事支援を受けていました。1990年代に、PLOとイスラエルが和平交渉を始めるとハマス(の軍事部門)による自爆を含むテロ攻撃が活発化し、現在に至ります。

 現在のハマスとイスラエルの戦いを「パレスチナ・イスラエル戦争」と言う人もいるようですが、パレスチナには「ガザ地区」の他に「ヨルダン川西岸」もあり、正しくは「ガザ地区のハマステロ組織とイスラエルの戦い」です。「民主主義」の定義からすると、現在に於いて、パレスチナは当然として、ハマスがガザ地区を(正当に)統治していとは言えません。

 但し、第三国が「民主主義国家」なら、「多様性の包摂」を持ち出せば容認できるかもしれません。

 チャーチルが言った、

「民主主義は最悪の政治といえる。これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けばだが。」

から考えると、論理的には民主主義が過去の政治体制よりはマシでも、民主主義で生まれる政治体制は最悪と言え、ハマスのみならずヒトラーさえ生み出しました。

 「民主主義」の手法で独裁体制を抑え込むことが出来ないのなら、「民主主義体制」は殆ど無価値と言えます。但し、「自己満足」を、独裁者が得るか国民が得るかの違いは有ります。