オメガねこ

知識は人をバカにする。
智識はバカを人にする。
信じるか信じないかは、自分次第です。

「国民」 と 「人民」

2025年02月23日 | 主義・体制
人種:現在はホモサピエンス・サピエンスのみ
民族:歴史的・文化的な同族意識で結ばれた集団

国民:統治者に由来し、統治される人々
人民:統治者に由らず、単に統治される人々

 民主主義国家の主権者は「国民」なので、一応、邦人(日本人)は日本国民によって統治されていると言えます。また、上記の定義により、国民国家では「外国人には参政権は無い」や、共産主義国では「人民には参政権は無い」とする根拠にもなります。

 中華人民共和國の場合は、「天子によって統治された人々の内、中原(世界の中心)に住む人で構成された地域」であり、統治される人々や、領域の範囲は時の情勢で変化します。なので、外国であるはずの日本でも治外法権として「長野での聖火リレー事件」が起きたり、現在も「中華圏」がゲル状に分散していて、日本の法律では日本国民ですが「人民解放軍の野戦司令官」を自認?する政治家が今でもいるくらいですω.ω

 アメリカ合衆国は、「人民の、人民による、人民のための政治」で有名ですが、正しくは、

that we here highly resolve ・・・and that government of the people, by the people, for the people, shall not perish from the earth.
「・・・そして、人民の人民による人民のための政治を地上から決して絶滅させないために、我々がここで固く決意することである。」

であり、アメリカは世界の「人民による政治」に介入することを宣言していて、現在も世界の「人民」に影響を及ぼしてます。

 日本は(建前上は)「国民」による政治なので、これらとは対立的ですが、事実上アメリカの庇護を受ける事でなんとか存立しています。大戦後、「日本国民」が選挙で「アメリカ人民(アメリカ人ではない)」を選出することで民主主義体制を維持してきたのですが、最近では「中国人民(中國人ではない)」が目立つようになってきましたω.ω

 日本は、これからも「アメリカ人民体制」を維持できるか、或いは中国人民として「中華体制」に組み込まれるかの分岐点に立たされているのですが、私は「出島方式の鎖国」を目指すべきだと思います。そうすることで、人口が「人工的な自然減」で3千万人(江戸時代の人口)まで減っても、世界で最も文化的な生活を維持することが可能になります。

国民の、国民による、国民の為の政治を、日本は決して失ってはいけない。



「科学的統治手法」 と 「自然統治」

2025年02月13日 | 主義・体制
 「自由・平等」は欧米が科学的に決めた概念であることを前提に、

資本主義:(カネメで)機会の平等を追求する
社会主義:(統計上で)結果の平等を追求する
自由主義:(定義上の)人民の自由が保障される
共産主義:(専制的に)統治者の自由だけが保障される
民主主義:(政治的に)相対多数が決めた自由は保障される
独裁主義:(独善的に)統治者が決めた自由は保障される

などと、「科学的統治手法」として定義され、日本古来(神話時代)から築き上げた地勢(≒地政)に由来する「自然統治」とは概念自体が違います。ここで、科学とは「間違いを対象にする学問」であることに留意する必要があります。

 歴史を顧みると、「共産主義」は「資本主義」で蓄えた資産を食い潰した時点で崩壊することから、自律的に「共産主義」が成立することは有りません。同様に「社会主義」は、利便性を追求する「自由主義」で整備された基盤が崩壊した時点で破綻すると理解できます。また、古代に於ける「原始共産主義(制)」との定義は間違いで、単なる「同族による共同生活」の言い換えに過ぎません。

 日本は明治維新以降、欧米型の自由主義を取り入れて社会基盤が整備されてきました。戦後になってアメリカ民主党の影響を受け、暫くの間は「戦前の自由主義」も残っていたのですが、「社会主義」が浸透し始めてから社会基盤が崩壊しつつあります。現在は「楽しい日本」と銘打って「面白くなければテレビじゃない」まがいの思想統制が始まりかけています。

 楽しいか楽しくないか、面白いか面白くないかは人それぞれなので、政治的に決められた事象に対しては統計的な「相対多数」をもって良しとするしかないと思います。自由主義国家ならば「個人の楽しさ」を国が管理する必要は無いので、それは社会主義国家の統治手法と言えます。個人の意思とは無関係に、国が人民の楽しさを定義する共産主義は「フジの病」と言えますω.ω

 それは兎も角、「科学的統治手法」はその定義自体が「間違い」に由来していますが、日本は「様々な間違い」を包摂することで、国民国家として二千年以上の歴史を維持してきました。世界の多くの国は、統治者どころか居住民すら総入れ替えされる歴史をたどり、現在に至ります。なので、統治国家といえどもその居住民は「国民」とは言い難く、「人民」として統治される国が殆どです。

 私は、日本人民や日本州民ではなく、死ぬまで「日本国民」で在りたいと思います。

「裸の共産主義者」 と 「制服の自由主義者」

2025年01月15日 | 主義・体制
 なんでも、「共産主義(150年前)」⇒「社会主義(100年前)」⇒「全球主義(50年前)」と、名を変えて「世界統一政府」の成立を企んでいる組織が暗躍(今では表立って活躍)しているそうです。

 その正体を詳らかにする為「
裸の共産主義者」と銘打った書籍が発刊されているようです。それは、私が過去に投稿した「世界革命行動計画 と 対策」シリーズにある「25ヶ条の世界革命行動計画(250年前)」よりも更に細かく嚙み砕いて論破し、その正体を裸同然にした内容のようです。但し、私は「本を読まない主義」なので、書評以上の内容は分りませんωω

 それでも、「裸の王様」の喩えからすると、「共産主義者」のみならず「ホシュ主義」などを掲げている人に対しても同じことが言え、周辺の人が真実を言わなければ、当該者は当然として組織自体が崩壊すると云う内容ではないかと推察はできます。

「裸の共産主義者(The naked Communist)」:1958年にアメリカの共産党が掲げていた「45の目標」に対して書かれているそうですが、実際にUS共産党が掲げていたかどうかは不明。

 革新的な思想や行動をとる人は「ラフな服装」で論陣を張る人が多いように見えますが、保守派の論客には「ノーマルな服装」をしている人が多いようです。「保守派」とは言っても、単に「保守」を冠しているだけの人は「(ビジネス)ホシュ」として「ソッチ系」に分類しますωω

 同様に「革新」を冠しているだけの人も「(ビジネス)カクシン」として「アッチ系」に振り分けます。憲法に規定のない「政党」なので、「ビジネス」が入り込むのも止むを得ないのですが、「政党政治」自体が正統とは言えませんωω

 それは兎も角、「ノーマルな服装」で論陣を張る保守派の人たちは、基本的に「自由」を重んじます。自由ならどんな服装をしようと関係ないように思えますが、本質的には「自由は規律の中でしか保証されない」と言え、現行が一致していると思います。

 革命では自由を獲得することは出来ないのですが、自由が保障されたサヨクは「革命で自由を!」と叫び、社会を崩壊に導きます。崩壊後には世界政府が必要になり、これに反するものは粛清されるので、世界の人民が一様な意見を持つ「完全な民主主義」が成立する、と支配層は信じているようです。

 当然ながら、完全な民主義国家(究極の共産主義)には「革命」は無用なので、その活動家もこれまた粛清の対象になり、
それは、共産主義以外で積み上げた「過去の資産」を食い潰すまで継続します。


「個人主義」 と 「マイノリティ」

2025年01月05日 | 主義・体制
 徹底的な「個人主義」であれば全員がマイノリティ(この場合は個人)なので、少数者に対する弾圧・圧迫は起こりません。通常、この「少数者(一般的なマイノリティ)」は個人よりも大人数なので、「個人攻撃」は可能・・・と言うよりも、実際に起きています。卑近な例では「マイノリティーである少数政党が、保身のために個人攻撃をする」などです。

 所謂「いじめ問題」や「闇バイト」でも、マイノリティが虐められるのではなく、マイノリティ(少数グループ)が個人を対象に犯罪事件を起こしたり、個人を虐める事で起こります。

 「不良グループ(半グレ)」は、大多数の善良者から見ると「社会的マイノリティ」で、善良者がマイノリティを虐めることは無いのですが、「マイノリティ」がイジメの主体になる可能性はあり、実際に「ホワイト案件」などと騙されて事件が起こっています。この場合の「マイノリティ集団」は、互いに見ず知らずの人の集合で「個人主義」が齎した犯罪とも言えます。

 これらの犯罪防止や「いじめ問題解決」の啓発は、大概「大多数の善良者」に向かって行われますが、現在「多様性の包摂」などの似非理念が、善良者には行き渡っているので啓発しても意味は無く、「個人主義マイノリティ」にこそ周知すべきです。

 「いじめ問題」の最後の砦は「家族・家庭」なのですが、その「家族制度」が破壊されつつあります。

 「選択的夫婦別姓(夫婦別姓制度への第一段階)」は、本来は本人同士の問題なので税制を含めて行政が関与すべきではないのですが、これを法的に受け入れると、その結果として、自分の子供も個人主義の被害者になることを容認しなければなりません。

 また、夫婦・親子を個人の問題に帰結させるのならば、家族に関する「優遇税制」も国が関与できない筈ですが、何故か「夫婦別姓」「LGBTQ・・・」など、すべての組み合わせを家族として国に認めるように要求しています。「個人主義」を主張したいのか、「家族主義」を重んじたいのかが、私には理解できませんωω

 個人を除けば「少数者」の最小員数は2人で夫婦も含まれ、個人である「子供」がイジメの対象になっている事件も見受けます。様々な思想は大脳皮質が作り出しているのですが、脳の90%以上を占める大脳・小脳などがこれを認めているとは思えません。

 病的な脳内不整合など、これらの欺瞞は「カネ目」で解決できるかもしれませんが、生物の本能(大脳・小脳)を浅知恵(大脳皮質)で改変すると、そこには混乱しか生まれません。

 「個人主義」は「民主主義」の中でしか安定的に成立しません。つまり、「大が小を包摂する」のではなく、卑屈・卑劣にも「小が大に包含される」ことを認める人が「個人主義」を主張していると思われます。

「多様性の包摂」 と 「一様性」

2024年12月09日 | 主義・体制
 「包摂」とは、

① 一定の範囲の中につつみ込むこと。
「知識はその中に包摂されている」〈倉田・愛と認識との出発〉

②論理学で、ある概念が、より一般的な概念につつみこまれること。
特殊が普遍に従属する関係。例えば、動物という概念は生物という概念に包摂される。

 解り易く言うと、

①’「小」は「大」からはみ出せない。強者は弱者を守る。
②’「小」は「大」に従属する。最大多数の最大幸福。

なので、「多様性の包摂」は「一様性の容認」「民主主義」と同義語になります。

 つまり、善意の人も悪意の人も、警官も犯罪者も一国家内では同じ権利(人権)を持っていて「多様性の包摂」になりますが、許容範囲を超えると排除されます。卑近な例では「民主党支配下のアメリカ」です。「みんな生きているだけで偉いので、みんな金メダル」も、財政が許せば多様性の包摂と言えなくもありませんww

 似た言葉に「多様性の容認」がありますが、これは「一様性の否定」を意味します。「みんな違って、みんな良い」です。

容認:倫理的または法律的には本来認められないモノで、禁止すると「道徳的」な問題が生じる為、社会的にあまり好ましくない存在や状態を受け入れること。

倫理:社会通念として、良いと解釈されること。
道徳:自身が良いと思う事。日本以外には余り無い概念で、独善主義や欧米由来の個人主義とは違う。

 これは「確率論」で説明でき、全ての「モノの存在」は標準偏差に従うことになります。全体を見ても、(不作為の)一部分を取り出してもその傾向は同じで、(自然現象として)犯罪者もいれば善人もいます。

 「容認」とは言っても、政策によって傾向のバラツキを小さくすることや、中央値を善良側にずらすことは可能です。この手間を省いたのが「包摂」であり全体主義国家ではよくみられる政治手法です。

 全体主義国家では、その政権維持のために、「人民を恣意的な傾向ごとに細分化」し敵対勢力の増殖を防ぎます。つまり、「人民」は「国民」であってはならず、全ては支配者に包摂されます。

 「民主党アメリカ」は、アメリカの世界覇権に反対する外国の民間人を原爆で虐殺することで世界の覇者となり「戦勝国連合(通称、国連)」を創設しました。その統治手法を「国際化」と言い、世界統一政府の端緒になります。

 独裁国家(共産主義も含む)では、反対意見を人命と共に抹殺するので、結果として全員が同意見となり「完全に包摂された民主主義国家」が成立します。政府に反対する人民は既に存在しないので当然と言えば当然ですが、包摂された「一様な世界」には私が存在しないことも確かですww